生駒 忍

記事一覧

意味を誤解していたことばと失敗から逃げる人

きょう、暮らしニスタに、思わず赤面!「勘違いしていた言葉」で死にたくなった体験談という記事が出ました。

「人間、「知らないこと」「勘違いしていること」なんて沢山沢山ありますよね~。」と書き出されます。ここで話題になる「大恥をかいた勘違い言葉」に手を出さなくても、きちんと知っていることばだけを使えば、誰にも知られずにすむことではあります。ダイバー 2015年5月号(ダイバー)でセイン・カミュは、「知っている単語を並べるだけでもじゅうぶん通じるよ!」と言っています。ですが、知らないことを知って、ほしいものを得て、そだっていくためには、失敗をおそれすぎてもいけません。「モテ」に効果のなかった努力の記事で取りあげたように、失敗から学ぶものもありますし、「ロストゲイン効果」の記事で取りあげたように、失敗を利用することもできます。好きな人の前でミスしたときの記事で取りあげた、六角精児のことばもそうです。そうはいっても、日英語の比較 発想・背景・文化 第二版(日英言語文化研究会編、三修社)に、「古来,日本人の考え方は消極的なもので,人間はただ悪いことをしなければよいというものであり,無難に人生を送ろうとしてきた。だから日本では「勤続40年」や「20年無事故運転」が表彰の対象になる。」とあるような、失敗回避の文化は根強くあります。あるいは、今は時代が変わって、「黒子のバスケ事件」でのねたみの記事で取りあげた「ゲーム感覚」が身につき、失敗したらリセットボタンか自爆かとなってしまうのかもしれませんし、上昇志向のない若者の記事で取りあげた、とにかくリスクから逃げる感覚も、さまたげになります。一方で、失敗はだめ、「ダメ、ゼッタイ」だけにせず、言いわけする大人にさせない方法の記事で取りあげたやり方もありますし、「かくれんぼ」ができない子どもたち(杉本厚夫著、ミネルヴァ書房)にあるように、「「だからいったでしょ」といって過去を振り向かせるか、「どうしたらいい」と未来を向かせるかによって、子どもの失敗に対する考え方が大きく変わってくる。」のです。あるいは、おとなの失敗から、子どものためになるようにつなげることも教育的でしょう。「小1のカベ」に勝つ(保育園を考える親の会編、実務教育出版)にある入学式でのできごと、「校長先生も失敗しちゃったけど、学校では失敗してもいいんだよ」はみごとですし、PHP 2014年12月号(PHP研究所)にある佐藤佐知典という人の回想、「間違ってもいいんだあ!」も近いかもしれません。武井咲の強さの記事の最後に触れた発言や、趣味へのお金のかけ方の記事の最後に取りあげた女子高生のような態度が、そだってほしいものです。

「立派に子どもを育てている100人の主婦の方々」を対象とした調査で、「勘違いして覚えていた言葉で、恥ずかしい思いをしたことはありますか?」という問いに対して、YESが91人と、大多数を占めました。そして、「NOと答えた人の中でも「とくに恥ずかしいと思った経験がない」という人は、たったの4名。」、優秀な人もいるように見えて、残念なエリート(山崎将志著、日本経済新聞出版社)に登場する「「何もしない」エリートたち」ではありませんが、リスクにいっさい手を出さず、手をはさまれずにきたという優秀さ、ロスジェネ心理学(熊代亨著、花伝社)でいう「全能感を維持するために「なにもしない」人達」のようにも思えます。PRESDIDENT Onlineの記事、「採用したい男子学生がいない」採用担当者が嘆く3つの理由の、「『あなたの失敗した経験を聞かせてください』と言うと、『失敗したことはありません』と平然と答える学生」のようなものです。

「天津甘栗を『あまつあまぐり』と呼び、『てんしんあまぐり』は別商品だと思っていた」、これは意外に正しそうで、興味深いです。重箱読みだと知らなければ、すべて訓読みか音読みかでそろえるのが、自然な読みではあります。音読みにするにしても、津を「シン」と読む機会は多くありません。もちろん、となりの国の都市名なのですが、天津甘栗は河北省で収穫されますので、その知識からは不自然になります。ちなみに、天津飯は、食べもののほうも、日本で考え出されました。すると、日本古来の読みで、神々しく「あまつ」としたくなるのも、わかります。

「「訃報をずっと『とほう』だと思っていたら、主人に指摘されて気づきました。」、漢字のつくりのうち、つくりから読みの見当をつけるヒューリスティックの失敗例でしょうか。「築き上げてきたキャラが崩壊」して、途方にくれたものと思います。

「耳からだけの情報だとありがちな間違え3選でした。」、3番目はともかくとしても、だじゃれとしてありがちなものでもあります。そして、ぐっさんさんのだじゃれの記事で取りあげたように、だじゃれは耳の問題とも関連するのです。

「ある大きな仕事を任されたときに謙遜して使ったつもりが、逆の意味だと後から知った」例では、足りない人だと思われたことと思います。知らないまま、かっこよいことばだと思って使いたくなったのでしょうか。ふと、まんがライフSTORIA Vol.12(竹書房)のハトポポコのまんがの、「衝撃」を思い出しました。あのような場合は、意味を知らなかったわけですから、マイナビ学生の窓口にきょう出た記事、【米研究】汚い言葉を使うと健康になる?!最も簡単なストレス発散方法とはのような効果はないはずです。

「『許さん』という言葉を人の名前だと思い、『ゆるさんって誰?』と聞いて周囲を凍りつかせたことがあります」、ありそうです。似ていてそうでもないものとしては、自閉症の公社職員の落語の記事で取りあげた、小さんのお話があります。

「余談ですが、「デング熱」のことを友人が「テング熱」とだと思っていたようで、「テングの鼻が蚊っぽいから!」とよくわからないことを言っていました。」、おそらくは、昨年のことだろうと思います。あのデング熱さわぎも、デング熱報道批判の記事で取りあげたような声が効いたのかはわかりませんが、この夏はすっかり冷めたようです。

「けど、大丈夫。気づいたときに、こっそり記憶をリライトすればいいんです。」と締めます。それでよいと思います。失敗自体は消せなくても、いらないことは消して、あるいは書きかえて、いまを生きていくものです。そういえば、週刊実話 9月3日号(日本ジャーナル出版)で篝一光は、歌舞伎町について、「昔の建物なんかは随分と無くなったよね。でも、大切なのは今なんだよ。」と言っていました。

それで思い出したのが、デイリースポーツonlineにきょう出た記事、濱田龍臣 三船美佳への“恨み”明かすです。5年前にあだ名でいじられたことで傷ついたという濱田の主張に対して、「三船に改めて取材したところ、“あだ名事件”について覚えておらず「何ていったらいいか…」との返答」だったそうです。「ひそかに傷ついていた」とあるところは、ライブドアニュースへの転載記事のほうでは、「番組で泣いてしまい、子供心にずっと傷ついていた」と、大ごとのように書きかえられたのも気になりますが、三船は逃げたのか、はんなり豆腐(KADOKAWA)の80ページのようなものなのか、どちらでしょうか。また、「濱田にとっては秘密にしておきたいあだ名」とありますが、あだ名は濱田龍臣パーソナルブック たつおみ。(学習研究社)に書いてありますので、つじつまが合いにくいように思います。

佐賀の観光ランキング順位と会津のうらみ

きょう、佐賀新聞LiVEに、9月30日本丸で講演会、会津と佐賀の縁知ろうという記事が出ました。

私は一瞬、タイトルを読みまちがってしまいました。ですが、九州地方でしたら、日本丸は見たこともない人が多そうです。よそのものを知らないのは、おたがいさまでしょうか。それでも、佐賀の場合は、東洋経済ONLINEにきょう出た記事、和歌山県が浮上!秋の人気観光地ランキングによれば、「一方、最下位を競っているのは佐賀県と茨城県。」「佐賀県は夏休みの人気ランキングでも最下位なのに対し、茨城県は夏休みは33位。」で、とても不利でしょう。以前に、労災死傷者増加率ワーストの記事を書きましたが、改善したいことはいろいろあって、行政も大変なのではと思います。

「会津若松の戦いでは佐賀藩製のアームストロング砲が使われた」、これでは佐賀もうらむお話になりそうですが、「実行委によると、砲弾の一部は火薬が入っていない空弾に含まれていることが分かってきて」、わかりにくい表現ですが、ここがポイントのようです。「そのことが女性や子どもの犠牲や城の損傷の少なさにつながっている」といっても、たまたまのミスなのか、弾薬の節約なのか、手かげんなのか、興味をそそるところですので、あえてふせて、続きは講演会でという戦術でしょうか。京都に原爆を投下せよ(吉田守男著、角川書店)で検証されたウォーナー伝説のような、あべこべな美談が構築されることだけは、さけてほしいと思います。

「今回の講演会をきっかけに、自治体同士で交流が深まっていくよう期待」、よいことです。会津というと、人生の歩き方はすべて旅から学んだ(童門冬二著、PHP研究所)で、「よく冗談めかしていわれること」とされた、山口出身とわかったセールスマンに「冗談じゃない、この話はナシにしよう」と破談を告げるお話のようなことがよく言われますが、外堀から埋まっていき、いずれは本丸までつながると、なおよいと思います。

上昇志向のない若者の問題と「静かな幸せ」

きょう、ダ・ヴィンチニュースに、いまの若者はいろんな機能が落ちている―思春期外来の医師が語る現代の若者像という記事が出ました。「「それでも、1980年以降に生まれた世代は、それまでの世代と決定的に違う」とし、それを知ることで世代間のコミュニケーションをスムーズになればという思いから精神科医・鍋田恭孝さんが書き下ろした1冊」、子どものまま中年化する若者たち 根拠なき万能感とあきらめの心理(幻冬舎)の著者を取材したものです。

「ここでいう若者とは、1980年代に子ども時代を過ごした世代です。」と語り出され、若者の定義としてはずいぶん高く感じられますし、「不登校を理由に外来を訪れた高校2年男子とのやりとり」が例示されて、年齢がまわりの倍では不登校にもなるはずだと思ってしまいます。あの本の主張からすると、1980年代以降にということだと考えたいところです。鍋田自身がそう言わず、三浦ゆえという人もそれを見のがして直さなかったのか、三浦が少し聞きのがしたのか、どちらでしょうか。

その「高校2年男子」の例に対して、「こうした“何も語れない若者たち”はいまや特にめずらしい存在ではない」と指摘されます。非行学入門(鈴木真一編、相川書房)は、「悩みを悩み過ぎる子供達」と「悩みを悩めない子供達」の二分法を示しましたし、古くは意欲減退型留年としての指摘にもあることですが、スチューデント・アパシーの特徴には、問題だと頭ではわかっているはずなのに「悩めない」問題があります。平成17年版 犯罪白書(国立印刷局)によれば、最近の非行少年に目だつ問題の中には、「自分の気持ちをうまく言葉で説明できない」「自分の問題に向き合おうとしない」「何事も悩まない,あるいは悩めない」などもあります。自分を消したいこの国の子どもたち [傷つきやすい自尊心]の精神分析(町沢静夫著、PHP研究所)に登場する、「崖から飛び降りた少女」と話して、「彼女はやっと「何となく学校が嫌かなぁ」と言う」程度だったというお話も、近いところがあります。そう言うと、昭和のはじめに「唯ぼんやりした不安」だってあったと言いたい人が出てきそうですが、あの手紙を含めて、「晩年」の作品くらいは読んでからにしましょう。

「自分自身を知り、語る機能が落ちているのに原因を探る作業をさせると、ますます大きな混乱に陥って収集がつかなくなります」、そのとおりです。「ここ10~20年ほどは、私だけでなく多くの精神科医が苦労」するのは、よく理解できます。それでも可能性は考えられて、スチューデント・アパシーに対してはつなぎモデルがありますし、Amazon.co.jpで評価の高い、立ち直るための心理療法(矢幡洋著、筑摩書房)で紹介された、原因を突きつめることと無関係な諸技法も興味深いでしょう。

「そもそも人の気持を読むのが苦手で、一方的かつワンパターンな若者のコミュニケーションは、アスペルガー障害の特徴と似ています」とします。アスペルガー障害など存在しない、なぜならDSM-5で消えたから、と主張する人を、アメリカいいなりというのかどうかはわかりませんが、このコミュニケーションは、DSM-Ⅳでの定義と似てはいます。ですが、似るというのは、似てはいても別ものだという意味あいを含むことが理解できない人には、誤解されそうなところです。テレビを消したら赤ちゃんがしゃべった!笑った!(片岡直樹著、メタモル出版)などにある、テレビやビデオの視聴が自閉症に似た「新しいタイプの言葉遅れ」と結びつくという説を、自閉症の原因はテレビだと誤読した上で、あるいは誤読をよそおったわら人形論法なのかもしれませんが、非難した人は少なくなかったはずです。

「1970年代生まれまでは、“いい大学に入り、一流企業に就職する”という上昇志向に巻き込まれ、ストレスを与えられてきました。それへの反発から家庭内暴力や荒れる学校も多かった。」とあります。家庭内暴力は、警察庁の統計でみると、1980年代生まれの時代になると減りました。ですが、近年また、急増しています。平成27年版 子供・若者白書(日経印刷)の第1-5-22図の(1)を、たて軸に気をつけながら見てください。また、(4)からは、「しつけなどに反発」してのものが特に増えているとわかります。先ほどの自分を消したいこの国の子どもたち “傷つきやすい自尊心”の精神分析に、「一九八〇年代初期に「しつけの崩壊」が起こった」とあることと関連づけると、しつけが戻ってきて、その副作用とみるべきなのでしょうか。一方、いまは学級崩壊がありますが、当時の意味での「荒れる学校」は見かけなくなりました。その退潮に続いたのがいじめで、緊急提言が添えられた30年前の通知、児童生徒のいじめの問題に関する指導の充実について以降、重大な問題であり続けています。これも時代の転換と関連していて、もじれる社会 戦後日本型循環モデルを超えて(本田由紀著、筑摩書房)によれば、目標の明確な上昇志向がうすれ、受験競争もゆるんできたことが、いじめを増やしたようです。

「気楽で、危険もなく、コスパもよく、できることだけを選んでいく人生が可能になったのですから、そこに必要のない機能がどんどん落ちていくのは必然ですね」と、肯定的な口ぶりです。あの世代で、コスパということばが口をつくところに、若者を理解しようと努めてきた半生がうかがえます。ですが、このことばは、サンキュ! 2013年7月号(ベネッセコーポレーション)がわざわざ、「コスパのいい家」を「安い家」と区別するよう説いたように、本来のCPの意味からずれて、目先の負担が小さいことにかたよった、安っぽいイメージに落ちました。日刊SPA!の記事、「コスパにうるさい人」は仕事ができないには、「たいていこのタイプの人は、“他人より損したくない”という心理に支配されています。」、にもかかわず、「成績は同期に抜かれてしまって」、「彼は営業職なのですが、固定客のフォローばかりに気をとられ、新規顧客の開拓は一切していませんでした。」と、結局は損している皮肉な事例があります。「成果の出ている同期はというと、見込み客と人間関係をつくるために、時には自腹を切ってでも話題のレストランや、成功者が集うようなお店に飲みに連れて行く」、差がついて当然です。

「社会に放り出されると、」「それまで大人はだいたいやさしかったのに、無茶をいう上司など、理不尽な物事にいきなり遭遇するんです。」、そうでしょう。昭和的な雷おやじも、「荒れる学校」の時代の暴力教師やがんじがらめの校則もと、理不尽なものは消えていきました。また、「かくれんぼ」ができない子どもたち(杉本厚夫著、ミネルヴァ書房)は、「近代社会にない「曖昧」で「理不尽な」心地よい世界が担保されている」遊びの世界が成立しにくいことを指摘します。あるいは、理不尽に思えても、自分が理解できていないだけということでしたら、これはむしろ成長のチャンスなのですが、海外旅行をすすめられていやがる心理の記事の最後に取りあげたような感覚でこばむなどして、理不尽のままで損をしている人もいそうです。

「これまで大人に導かれるままにやってこればよかったのに、社会人になったんだから自分で考えろ、と突然いわれて戸惑うんです」と指摘します。ここは教育の問題とされ、自由なはずの自由研究が、決まった自由研究キットのパッケージばかりになって久しいですし、大学教育がもっと社会に合わせるべきという声も理解できます。ダイヤモンドオンラインの記事、「入学は簡単だが卒業は難しい」 大学教育の欧米スタイル導入はなぜ失敗したかには、欧米スタイルの授業を導入し、「学生は、教員が段取りし、指示をしたことならば、レベルが高すぎると思われる課題でも、驚くほど優れた成果を出してくる。」成果を出したのに、ゼミに入ると「ほとんどの学生が、「先生、自分はどうしたらいいんですか?」と聞いてくるばかりで、研究課題を見つけられなかったのだ。」「いろいろアドバイスして、ようやく見つけた課題でも、それに関連する本や資料を自分で見つけられないと、すぐ「テーマを変えたい」と泣きついてくる学生も」というありさまだったそうです。「学生はあまり物事をじっくり考えて行動していないよう」、「ゼミ、ボランティア、留学、インターンなど、いろんなことを万遍なくこなしているけれども、それは、組織が段取りしたことをこなしているだけのようだ。」ともあります。一方で、考えられないわけではない可能性もあります。ダ・ヴィンチニュースに1か月半前に出た記事、ゆとり世代が昇進したら指示待ち上司が誕生? ――『若手社員が育たない。』豊田義博さんインタビュー【前編】は、若手社員が育たない。 「ゆとり世代」以降の人材育成論(豊田義博著、筑摩書房)の第1章の内容として、「「何をしたらいいかも薄々わかっていながら、そしてそれをする能力もありながら、取り組まない」という失敗するリスクを回避しているだけ」の若者を紹介します。ゆるく生きたい若者たち(榎本博明・立花薫著、廣済堂出版)にある、「40代の営業職員Bさん」の、すでに書き方を教わった業務日誌を、ひとりで書くのは「無理です」「不安です」と逃げられて、いっしょに書く流れになるエピソードも、そういうゼロリスク指向が背後にありそうです。あるいは、できるのにあえてしないことは、タウンゼントの相対的剥奪の記事で取りあげたことから考えると、豊かさの表出なのかもしれません。

そういう若者への対応として、「“与えられた環境で、与えられた物事をそれなりにこなす”という彼らの特性に注目してあげて」と求めます。「適切な指示を出して、然るべき方向へと導いてあげる。自分で判断ができないだけで、いわれたことは丁寧にこなしますから。」、これではロボットのようではないかと思った人も多いと思います。ロボットや人工知能がすすみ、人間をはるかに超えると、人間ははたらく必要のないくらしになるか、それともはたらく場がなくなってくらせなくなるかという議論がありますが、いいなりのロボットのようになった人ほど、前者を望むでしょう。

「経済成長が続いていたころの日本には、夢があった。」とふり返ります。対照的な未来を象徴させた、海外でははたらきたくない大学生の記事の最後で取りあげたせりふを思い出しました。

最後は、「大事にされるのは家族」、「凝縮しつつもゆるくつながる家族を中心とした生き方が、今後増えていく」、「人口も減るしGDPも下がりますが、いまの若者が大人になっていくにつれ、静かな幸せを求める国へと移行していくと私は見ています」と締めます。ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体(原田曜平著、幻冬舎)が論じたマイルドヤンキーは、保守どころか先端になるのでしょうか。一方で、内向きのマイルドヤンキーだけでは、国際競争には勝てませんので、せいぜい「静かな幸せ」までしか手がとどかないくらいに、くらしは数世紀ぶんも退行してしまう不安があります。その間に、かしこい人工知能にまかせきりの国にできるかもしれませんが、火の鳥 未来編(手塚治虫作、朝日新聞出版)のような展開だけは、さけたいものです。

犯罪を身近にしたメディアと性的接触のまんが

きょう、産経ニュースに、危機感薄い夜の子供たち 頻繁にライン、外出に抵抗感なくという記事が出ました。大阪の中1男女殺害遺棄事件を受けた、啓発的な内容のものです。

「死角や薄暗いところなど、(まちなかに)危険な場所があること自体は特別なことではない。」と指摘されます。子どもはどこで犯罪にあっているか 犯罪空間の実情・要因・対策(中村攻著、晶文社)をみると、緑あふれる公園も、夜型化する商店街も、しっかり目かくしされたプールも、かえって犯罪被害の危険をつくる側面があることが、実例からわかります。

「さらに、町には24時間営業の店もあふれ、明るい場所も多い。」ともあります。私なら、町ではなく街と書きたいところですが、こうして「「夜」が昔より身近になった」ことが、犯罪も身近にしてしまったのです。

そこに、「ラインやメールで話していたら、いつでもつながっている意識になる。昔は深夜に子供だけで出かけるなんて怖くてできなかったが、夜でもつながっているという安心感を持ってしまう。」という、尾木直樹の指摘がつながります。ここはさらに、NEWSポストセブンにきょう出た記事、無関心が問題、社会全体で子供を見守るべき 寝屋川事件の教訓で、阪根健二・鳴門教育大学教授に指摘された、「昔は一家に一台の固定電話しかなく、子供同士が連絡するには相手の自宅に電話をする必要があった。今は携帯やLINEで夜中でも手軽に連絡が取れるため、子供同士で集まれ、親が子供の動向を把握しきれない」という問題が重なります。大人が知らない ネットいじめの真実(渡辺真由子著、ミネルヴァ書房)には、携帯電話ひとつによって、家にいながら一夜にして追いこまれ、翌日に自殺した高校生の事例があり、子どもがいつでも、どことでもつながるメディアの危険性がわかります。

尾木は、「深夜に外出している子供を見かけたら一声かけるということができないか。」と主張します。先ほどのNEWSポストセブンの記事でも、阪根は「コンビニ、携帯電話など、さまざまな要因が重なり、親が子供の深夜の外出に関知しづらくなり、子供が深夜徘徊していても、周囲の大人が注意しなくなった。」ことを問題視します。正論ですが、多くの人は口だけで、ひと声さえ出せないものです。怒る! 日本文化論 よその子供とよその大人の叱りかた(パオロ・マッツァリーノ著、技術評論社)が、「新聞雑誌を調べますと、電車内でのマナー違反を強い口調で批判したり、ウイットたっぷりに皮肉な調子でこきおろすコラムや記事はたくさん」、「でも、その中で実際に注意したという例は、ほとんどありません。」「相手に殴られる心配のない家や新聞社でコラムを書く段階になると、急に正義の論客やカミナリオヤジに変身するのです。」と、皮肉な調子でこきおろしたことを思い出します。その筆者が、「東京・千葉近郊で経験した事例のみに基づいてます」と、一般化の限界を示しながらも、実際に注意した結果は大半が無視で、ですが暴力で返されることはまったくなかったそうですので、コラムニストの皆さんにも、思いきってひと声をかけて、それを世に出してほしいと思います。

思いきってひと声で思い出したのが、とまとのひとという人の1週間前のツイート、夏コミ行ったらエロ漫画家におっぱい揉まれた話。です。困ったココロ(さくら剛著、サンクチュアリ出版)にあるカナちゃんのお話では、相当にハードルが高いとされたところを、ひと声で越えてしまう、ストレートですがななめ上の展開です。

アルコールの話題へのクレームと脳梁の性差

きょう、トピックニュースに、「あさイチ」のどぶろく特集に視聴者から苦言「アルコールの話題は反対」という記事が出ました。

「番組の終盤、視聴者からのFAXを紹介するコーナーで「朝からアルコール?」と題した、苦言を呈する内容のFAXが」紹介されたことを取りあげます。またクレームかと思った人も多いと思いますが、またと思われるのは、いつもこうして番組自体でクレームを明かすからで、こういう正直さ、謙虚さがこの番組の売りのようにもなっています。ですので、番組がつぶれることはなく、むしろ裏番組がつぶれてしまいました。ふと、報知高校野球 2015年1月号(報知新聞社)で岡田龍生が、「クセはあってもいいですが、謙虚さもないと大成しないでしょう。」と言ったのを思い出しました。

今回のクレームは、「自身の周りには「ママ友、パートの同僚…キッチンドランカーがたくさんいます」とのことで、「専業主婦ほどアルコール中毒になりやすいとか」「1日がんばろうという人を誘うようで反対です」」というものでした。テレビで見て、飲みたくなる人が出るのは当然ですが、その場ですぐ飲むのはがまんすることも当然です。丹波地区の飲酒容認文化の記事で触れたように、わが国は酒類の広告にも寛容ですが、NHKですし、重いアルコール依存の人が見せられたら、特に刺激的なものでもあるでしょう。そんな人が視聴者にどれくらいいるのか、いわゆる「繊細チンピラ」や「マイノリティ憑依」の身勝手を相手にしていたらきりがないという考え方もあると思いますが、まわりに「キッチンドランカーがたくさん」見られる人は、危険に感じて、意見したくなるのもわかります。そういえば、買いたがる脳(D. ルイス著、日本実業出版社)は、「1日4時間以上テレビを観ている人は、テレビを観る時間が大幅に少ない人との意見差が大きい。」として、多い人は「犯罪や暴力行為、アルコールやドラッグ中毒、売春が蔓延していると信じ、」「社会は危険で悪意にあふれ、身勝手な世界だと考えがち」だと指摘しました。

「有働由美子アナウンサーは「飲みたくなっちゃうのかもしれません」「それはぜひ、自分でコントロールしていただきたいと思います」と冷静な切り替えしをすると、玉袋も「そういうこと!」と、有働に同意する声があげていた。」と締めます。正面から突きはなした正論でもありますが、誰もがそうできるのなら誰も問題にしないのにと考えると、ずらしてかわしたようにも思います。表現があちこちずれているのも、気になります。

ずれで思い出したのが、ローリエにきょう出た記事、女は二次元、男は三次元で判断している!? 男女の”カワイイ”が異なるワケです。「女性の「カワイイ」と思う子と、男性の「カワイイ」と思う子は違うみたい」という定番の話題を、「決定的なズレを生む理由はやはり男女の脳の違いというのが原因だったようです。」と論じます。そして、脳梁に着目します。「そこが男性は細いために、右脳でとらえたものと左脳でとらえたものの連携がスムーズではありません。」「女性はこの脳梁が太いために、右脳と左脳の連携がスムーズ。」、おなじみのポップ脳科学ですが、ここから「男は3次元、女は2次元で認識する」ことがみちびかれて、次元が高くてついていけません。なお、脳梁の大きさの性差は、脳全体の大きさに性差がありますので、その中での相対的な大きさでみるか、脳梁だけを取りだして絶対的な大きさでみるかという問題もありますし、差があると結論できるかどうかに議論はありますが、大きな差がないことは明らかです。