生駒 忍

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上昇志向のない若者の問題と「静かな幸せ」

きょう、ダ・ヴィンチニュースに、いまの若者はいろんな機能が落ちている―思春期外来の医師が語る現代の若者像という記事が出ました。「「それでも、1980年以降に生まれた世代は、それまでの世代と決定的に違う」とし、それを知ることで世代間のコミュニケーションをスムーズになればという思いから精神科医・鍋田恭孝さんが書き下ろした1冊」、子どものまま中年化する若者たち 根拠なき万能感とあきらめの心理(幻冬舎)の著者を取材したものです。

「ここでいう若者とは、1980年代に子ども時代を過ごした世代です。」と語り出され、若者の定義としてはずいぶん高く感じられますし、「不登校を理由に外来を訪れた高校2年男子とのやりとり」が例示されて、年齢がまわりの倍では不登校にもなるはずだと思ってしまいます。あの本の主張からすると、1980年代以降にということだと考えたいところです。鍋田自身がそう言わず、三浦ゆえという人もそれを見のがして直さなかったのか、三浦が少し聞きのがしたのか、どちらでしょうか。

その「高校2年男子」の例に対して、「こうした“何も語れない若者たち”はいまや特にめずらしい存在ではない」と指摘されます。非行学入門(鈴木真一編、相川書房)は、「悩みを悩み過ぎる子供達」と「悩みを悩めない子供達」の二分法を示しましたし、古くは意欲減退型留年としての指摘にもあることですが、スチューデント・アパシーの特徴には、問題だと頭ではわかっているはずなのに「悩めない」問題があります。平成17年版 犯罪白書(国立印刷局)によれば、最近の非行少年に目だつ問題の中には、「自分の気持ちをうまく言葉で説明できない」「自分の問題に向き合おうとしない」「何事も悩まない,あるいは悩めない」などもあります。自分を消したいこの国の子どもたち [傷つきやすい自尊心]の精神分析(町沢静夫著、PHP研究所)に登場する、「崖から飛び降りた少女」と話して、「彼女はやっと「何となく学校が嫌かなぁ」と言う」程度だったというお話も、近いところがあります。そう言うと、昭和のはじめに「唯ぼんやりした不安」だってあったと言いたい人が出てきそうですが、あの手紙を含めて、「晩年」の作品くらいは読んでからにしましょう。

「自分自身を知り、語る機能が落ちているのに原因を探る作業をさせると、ますます大きな混乱に陥って収集がつかなくなります」、そのとおりです。「ここ10~20年ほどは、私だけでなく多くの精神科医が苦労」するのは、よく理解できます。それでも可能性は考えられて、スチューデント・アパシーに対してはつなぎモデルがありますし、Amazon.co.jpで評価の高い、立ち直るための心理療法(矢幡洋著、筑摩書房)で紹介された、原因を突きつめることと無関係な諸技法も興味深いでしょう。

「そもそも人の気持を読むのが苦手で、一方的かつワンパターンな若者のコミュニケーションは、アスペルガー障害の特徴と似ています」とします。アスペルガー障害など存在しない、なぜならDSM-5で消えたから、と主張する人を、アメリカいいなりというのかどうかはわかりませんが、このコミュニケーションは、DSM-Ⅳでの定義と似てはいます。ですが、似るというのは、似てはいても別ものだという意味あいを含むことが理解できない人には、誤解されそうなところです。テレビを消したら赤ちゃんがしゃべった!笑った!(片岡直樹著、メタモル出版)などにある、テレビやビデオの視聴が自閉症に似た「新しいタイプの言葉遅れ」と結びつくという説を、自閉症の原因はテレビだと誤読した上で、あるいは誤読をよそおったわら人形論法なのかもしれませんが、非難した人は少なくなかったはずです。

「1970年代生まれまでは、“いい大学に入り、一流企業に就職する”という上昇志向に巻き込まれ、ストレスを与えられてきました。それへの反発から家庭内暴力や荒れる学校も多かった。」とあります。家庭内暴力は、警察庁の統計でみると、1980年代生まれの時代になると減りました。ですが、近年また、急増しています。平成27年版 子供・若者白書(日経印刷)の第1-5-22図の(1)を、たて軸に気をつけながら見てください。また、(4)からは、「しつけなどに反発」してのものが特に増えているとわかります。先ほどの自分を消したいこの国の子どもたち “傷つきやすい自尊心”の精神分析に、「一九八〇年代初期に「しつけの崩壊」が起こった」とあることと関連づけると、しつけが戻ってきて、その副作用とみるべきなのでしょうか。一方、いまは学級崩壊がありますが、当時の意味での「荒れる学校」は見かけなくなりました。その退潮に続いたのがいじめで、緊急提言が添えられた30年前の通知、児童生徒のいじめの問題に関する指導の充実について以降、重大な問題であり続けています。これも時代の転換と関連していて、もじれる社会 戦後日本型循環モデルを超えて(本田由紀著、筑摩書房)によれば、目標の明確な上昇志向がうすれ、受験競争もゆるんできたことが、いじめを増やしたようです。

「気楽で、危険もなく、コスパもよく、できることだけを選んでいく人生が可能になったのですから、そこに必要のない機能がどんどん落ちていくのは必然ですね」と、肯定的な口ぶりです。あの世代で、コスパということばが口をつくところに、若者を理解しようと努めてきた半生がうかがえます。ですが、このことばは、サンキュ! 2013年7月号(ベネッセコーポレーション)がわざわざ、「コスパのいい家」を「安い家」と区別するよう説いたように、本来のCPの意味からずれて、目先の負担が小さいことにかたよった、安っぽいイメージに落ちました。日刊SPA!の記事、「コスパにうるさい人」は仕事ができないには、「たいていこのタイプの人は、“他人より損したくない”という心理に支配されています。」、にもかかわず、「成績は同期に抜かれてしまって」、「彼は営業職なのですが、固定客のフォローばかりに気をとられ、新規顧客の開拓は一切していませんでした。」と、結局は損している皮肉な事例があります。「成果の出ている同期はというと、見込み客と人間関係をつくるために、時には自腹を切ってでも話題のレストランや、成功者が集うようなお店に飲みに連れて行く」、差がついて当然です。

「社会に放り出されると、」「それまで大人はだいたいやさしかったのに、無茶をいう上司など、理不尽な物事にいきなり遭遇するんです。」、そうでしょう。昭和的な雷おやじも、「荒れる学校」の時代の暴力教師やがんじがらめの校則もと、理不尽なものは消えていきました。また、「かくれんぼ」ができない子どもたち(杉本厚夫著、ミネルヴァ書房)は、「近代社会にない「曖昧」で「理不尽な」心地よい世界が担保されている」遊びの世界が成立しにくいことを指摘します。あるいは、理不尽に思えても、自分が理解できていないだけということでしたら、これはむしろ成長のチャンスなのですが、海外旅行をすすめられていやがる心理の記事の最後に取りあげたような感覚でこばむなどして、理不尽のままで損をしている人もいそうです。

「これまで大人に導かれるままにやってこればよかったのに、社会人になったんだから自分で考えろ、と突然いわれて戸惑うんです」と指摘します。ここは教育の問題とされ、自由なはずの自由研究が、決まった自由研究キットのパッケージばかりになって久しいですし、大学教育がもっと社会に合わせるべきという声も理解できます。ダイヤモンドオンラインの記事、「入学は簡単だが卒業は難しい」 大学教育の欧米スタイル導入はなぜ失敗したかには、欧米スタイルの授業を導入し、「学生は、教員が段取りし、指示をしたことならば、レベルが高すぎると思われる課題でも、驚くほど優れた成果を出してくる。」成果を出したのに、ゼミに入ると「ほとんどの学生が、「先生、自分はどうしたらいいんですか?」と聞いてくるばかりで、研究課題を見つけられなかったのだ。」「いろいろアドバイスして、ようやく見つけた課題でも、それに関連する本や資料を自分で見つけられないと、すぐ「テーマを変えたい」と泣きついてくる学生も」というありさまだったそうです。「学生はあまり物事をじっくり考えて行動していないよう」、「ゼミ、ボランティア、留学、インターンなど、いろんなことを万遍なくこなしているけれども、それは、組織が段取りしたことをこなしているだけのようだ。」ともあります。一方で、考えられないわけではない可能性もあります。ダ・ヴィンチニュースに1か月半前に出た記事、ゆとり世代が昇進したら指示待ち上司が誕生? ――『若手社員が育たない。』豊田義博さんインタビュー【前編】は、若手社員が育たない。 「ゆとり世代」以降の人材育成論(豊田義博著、筑摩書房)の第1章の内容として、「「何をしたらいいかも薄々わかっていながら、そしてそれをする能力もありながら、取り組まない」という失敗するリスクを回避しているだけ」の若者を紹介します。ゆるく生きたい若者たち(榎本博明・立花薫著、廣済堂出版)にある、「40代の営業職員Bさん」の、すでに書き方を教わった業務日誌を、ひとりで書くのは「無理です」「不安です」と逃げられて、いっしょに書く流れになるエピソードも、そういうゼロリスク指向が背後にありそうです。あるいは、できるのにあえてしないことは、タウンゼントの相対的剥奪の記事で取りあげたことから考えると、豊かさの表出なのかもしれません。

そういう若者への対応として、「“与えられた環境で、与えられた物事をそれなりにこなす”という彼らの特性に注目してあげて」と求めます。「適切な指示を出して、然るべき方向へと導いてあげる。自分で判断ができないだけで、いわれたことは丁寧にこなしますから。」、これではロボットのようではないかと思った人も多いと思います。ロボットや人工知能がすすみ、人間をはるかに超えると、人間ははたらく必要のないくらしになるか、それともはたらく場がなくなってくらせなくなるかという議論がありますが、いいなりのロボットのようになった人ほど、前者を望むでしょう。

「経済成長が続いていたころの日本には、夢があった。」とふり返ります。対照的な未来を象徴させた、海外でははたらきたくない大学生の記事の最後で取りあげたせりふを思い出しました。

最後は、「大事にされるのは家族」、「凝縮しつつもゆるくつながる家族を中心とした生き方が、今後増えていく」、「人口も減るしGDPも下がりますが、いまの若者が大人になっていくにつれ、静かな幸せを求める国へと移行していくと私は見ています」と締めます。ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体(原田曜平著、幻冬舎)が論じたマイルドヤンキーは、保守どころか先端になるのでしょうか。一方で、内向きのマイルドヤンキーだけでは、国際競争には勝てませんので、せいぜい「静かな幸せ」までしか手がとどかないくらいに、くらしは数世紀ぶんも退行してしまう不安があります。その間に、かしこい人工知能にまかせきりの国にできるかもしれませんが、火の鳥 未来編(手塚治虫作、朝日新聞出版)のような展開だけは、さけたいものです。