生駒 忍

記事一覧

読書量と年収との因果関係と父娘入浴の逮捕例

きょう、しらべぇに、「読書好きは高年収」の事実を活字離れ高校生に伝えたら…という記事が出ました。

「「本当はお偉いさんたちは、本なんて読んでいられないんじゃないの?」という疑問が浮かんでも不思議ではない。」とあります。少なくとも、最高責任者かどうかはともかくとしても、安倍首相の読書量の記事で取りあげたお話はあります。一方で、そうか、君は課長になったのか。(佐々木常夫著、WAVE出版)には、坂本龍馬を持ちだしての、読書の害悪を説く主張があります。

「やはり、偉くなり、高収入を得る人たちほど「読書が好き」と言えるようだ。」として、グラフがそのとおりになっています。ITmediaニュースにきょう出た記事、年収高いほど、子どもいるほど「炎上」に荷担 実証研究が話題には、「従来のイメージを覆す内容」ですが、こちらは順当な結果に見えます。解釈には、読書からの影響として考えた場合につじつまが合う、読書を消費で終わらせず、投資にする視点がありますが、そのような因果関係を証明する結果だったとは書かない立場に、慎重さを感じます。レベルが低くてつまらない読書をしてもしかたがありませんので、「限界を超える読書」の効果の記事で取りあげたような読み方での成長も、うながされていることでしょう。一方で、機能的非識字の人々が、低所得にかたよりがちであることなども、混入しているはずです。もちろん、このデータの相関関係に、読書から年収への影響とは別の要因も想定できることは、そのような因果関係がないことの証明にはなりませんし、おかしなわら人形論法で論破したつもりになる人が出てきたら、その人が機能的非識字かもしれない、と言ったら言いすぎでしょうか。

後半は、「上記の調査結果を受け、若者たちはどのように感じるのか。」として、4名への取材結果がわずかずつあります。まずは、「本は読んだ方が良いと頭では分かっている。でも、なかなか読書が苦手で…」、無難な反応で、しかも手ごわいところです。わかっていない人にわからせるのも、そういう仕事をしているので楽ではないと言いたいところですが、わかっているのに行動しない人をうごかすのは、もっと大変なのです。AERA 4月11日号(朝日新聞出版)では、娘との入浴を続けてしまっている父が、自分から切ることはしにくく、自然に消えることへの望みもうかがわせましたが、読書は相手のあることではありませんので、自分がうごかなければ、どうにも変わりません。ちなみに、その記事には、「実際、外務省のホームページには、海外で異性親子の入浴を公然と話さないように注意を呼びかけるページもある。」とあり、おどろいた人もいるかもしれませんが、おそらくは海外邦人事件簿|Vol.50 なぜ!? 思わぬことから大騒ぎ(その1)のことで、子どもが学校で明かして、父が逮捕された事例もあります。

「先のことは分からないし、本を読む時間があれば友達と遊ぶ」、若さを感じる回答です。芦別での「まる元」教室の記事の最後に取りあげた事例を思い出しました。

「若者に読書を定着させるには、なにかもっと別方向の施策が必要なのかもしれない。」と締めます。これも、自然にとはいきません。あのベストセラー、フランス人は10着しか服を持たない(J.L. スコット著、大和書房)が、読書をしよう、本を持ちあるこうと呼びかけましたので、社会全体で見れば多少は影響が出ているはずですが、よりによって、読書をしない人には、本のメッセージはとどかないのです。

渋谷のギャルの居場所機能と再帰的近代化

きょう、ダ・ヴィンチニュースに、時代を築いたギャル雑誌の誕生と終焉という記事が出ました。ギャルと「僕ら」の20年史 女子高生雑誌Cawaii!の誕生と終焉(長谷川晶一著、亜紀書房)を紹介するものです。

荻野善之の、「適当なモデルが見つからなくて、ふとひらめいたのが“読者モデルを表紙にしよう”というアイディア」から、「雑誌『Ray』の臨時増刊第1号として発売された『Cawaii!』の表紙は、読者モデルのみの水着100人スナップに」なったようです。当時の私は、いま以上にこういったことへの関心がなく、まったく見たおぼえがありません。そこで、少し検索して出てきたのが、ROCKIN' AND IDOLIN' LET THERE BE IDOLING!!!の記事、Cawaii!ですが、この創刊号は、月刊化したときのもののようです。eggの創刊号も出ていて、まったく感覚が異なるデザインであることがおもしろく思われます。ライバル誌として長くあらそいましたが、先に産まれたeggのほうが、長続きしたのでした。

さて、後に小さいおうち(文藝春秋)で直木賞を得る中島京子による、「あの頃、学校や家庭に居場所のない鬱屈したコたちに、『Cawaii!』という雑誌は行き場を与えてあげていたんだと思います」という指摘があります。ここ10年ほどで、居場所という概念は、心理学でも関心が高まり、「居場所の心理」文献リストもおかげでにぎわっていますが、「渋谷のギャルたち」の需要は、前からあったのです。I'm proud(華原朋美)が「街中で居る場所なんてどこにもない」と歌ったのが1996年、A Song for ××(浜崎あゆみ)が「居場所がなかった 見つからなかった」と歌ったのが1999年です。

そこに、Cawaii!の「居場所」による問題が起こったのでした。Cawaii!が足場を高校生にしぼったことにより、そこから卒業した「その読者の受け皿として少し年齢が上のギャルを対象にした『S Cawaii!』を創刊。」「現在も続く安定した人気を保つ雑誌となるが、このことにより『Cawaii!』と『S Cawaii!』は読者の取り合いに」、出版社のやり方としてはとても理解できるのですが、これが栄華をつまずかせたようです。ふと、増補新版 フルトヴェングラー 最高最大の指揮者(河出書房新社)で宇野功芳が、フルトヴェングラーが振るブルックナーを、「結果は悪いがやり方は正しい。」と論じたのを思い出しました。あるいは、学年誌の世界では、小学館は『小学一年生』と『小学二年生』が、集英社は『たのしい幼稚園』だけがと、下が残ったのですが、こちらは下が姉妹誌に負けたという点も、興味深いところです。

それでも、「『おしゃれなモデルが最新の流行を教えてくれるもの』だった雑誌が、『私たちが今、流行っているものを自慢するもの』へと変貌」、「編集部が雑誌を作り、綺麗なモデルが登場し、どこか遠い存在だった雑誌の世界を『Cawaii!』は変えた。自分たちが編集部と一緒に雑誌を作り、自分たちの仲間たちが発信する。」、この歴史的な位置は、ゆるがないことでしょう。大げさに考えれば、再帰的近代化(W. ベック・A. ギデンズ・S. ラッシュ著、而立書房)の主題につながりますが、おとなの、おとなによる、おとなのための流行とは異なる道をひらいたのです。

最後は、「ギャルが残り続ける限り、時代を彩った『Cawaii!』という雑誌の熱狂を人々は忘れないだろう。」と締めます。あのころのギャルが残っていると言えるかどうかは、考えがわかれるところでしょう。ガングロカフェに行きなさいと言う人もいれば、あんなものは動物園ですらないと、ばかにする人もいるのではないかと思います。

それで思い出したのが、日刊SPA!にきょう出た記事、わたしを“操り人形”とバカにする人たちへ――18歳女支配人・このみんの経営学「私のミカタ」です。CoCo壱番屋廃棄物横流し事件では、「実質的な経営者」だけが表に出て、対照的な意味で「ほんとの社長は誰なの?」という疑問を生みましたが、こちらは「“操り人形”と言われまくってきた」ことへの、この人なりの反論のようです。ですが、全否定するわけではなく、「結局何が言いたいかというと、「操り人形だって、しっかりやっていないと操り人形ではいられない」ということです。」「「操り人形」とバカにするみなさん、あなたにはそもそも、誰かに「操りたい」と思わせる価値があるんですか?」と、開きなおりともとれる主張で、いさぎよいと思います。楽天とはたらかないアリの記事の最後に取りあげた、みこしのお話を思い出しました。

「さとり世代」の定義と低い労働生産性の理由

きょう、マイナビ進学U17に、「ゆとり」世代だけじゃない! イマドキの若者は「さとり」といわれている!?という記事が出ました。

「近年よく聞くのが「ゆとり世代」と「さとり世代」」、「ともに最近の若い人たちを指している言葉ですが、みんさんにとっては、どのようなイメージを持たれる言葉でしょうか。」、どうでしょうか。黄明麗のことではないはずとは思いますが、「ニートティーンストーリー」という連想をねらったのかもしれません。

「ゆとり世代と呼ばれるのは、はっきりした定義はできないものの1990年代前半から2004年くらいに生まれた人を指しています。」とします。「はっきりした定義はできないものの」としながらも、終期に具体的な年を示しました。すると、「一方、「さとり世代」は、ゆとり世代の次の世代を指してそう呼ばれています。」としたこととの関係が、不自然になります。「さとり世代」を、2004年くらいから後の生まれととらえるのは、あまりにも若いように思われます。ちなみに、「ゆとり世代」が職場に来たら読む本(柘植智幸著、日経BP社)での「ゆとり教育世代」は、「1987~96年度生まれ」です。

「学力テストでいい点数を取ることを基準にして通知表の点数を決める「相対評価」から、テストの点数は低くても、授業態度や部活動での活躍、委員会やボランティア活動といった一生懸命な姿など、教員からみて努力する姿勢があることが評価の対象となる「絶対評価」に変わった」、これは誤解をまねく書き方です。学力テストの得点にも、関心・意欲・態度をランクづけや得点化したものにも、どちらの評価も可能です。また、「絶対評価」という用語が、心理学検定 基本キーワード 改訂版(日本心理学諸学会連合心理学検定局編、実務教育出版)の表現でいえば「第二次世界大戦前の日本の」問題の影響で、学校現場では好まれない面があることも、知ってほしいと思います。

「そうした評価の受け方は、シビアに営業成績だけで査定される会社など、厳しい社会に出たときの打たれ弱さになってしまっているという見方もあります。」、これは本来の意味での絶対評価とも、ここでの誤解と思われる「絶対評価」とも、関連づけることはできそうですが、後者のイメージが強そうです。先ほどの「ゆとり世代」が職場に来たら読む本にも、結果をしかられるとだめだという指摘があります。また、ハフィントンポスト日本版の記事、勤勉さだけでは改善できない日本の低い労働生産性で、日本の労働生産性を低迷させる主な要因が次々とならぶ、その筆頭は「結果より努力を賞賛する考え方」ですし、「残業は努力の現れとも言え、奨励される傾向にある。」、これが問題なのは、言うまでもないことです。

「ゆとり世代は、幼少期に情報化社会の成長時期を経験しており、物心ついたときから携帯電話があった世代」、「そのことが他人との直接的なコミュニケーションを苦手にさせていることも」、どうでしょうか。「他人との」という表現ですので、双方向的なコミュニケーションのことだろうと思います。一方で、一方的なコミュニケーションについては、自撮りをきらう女性の記事で取りあげたように、得意になっているとも言えるのです。

その次、「さとり世代」に対しては、「処世術として冷静沈着に客観的な態度が身についている」、「身の丈にあった行動と思考」、「さらに、スマホや携帯電話が爆発的に普及したネット社会において、無自覚に発信した発言が何かの拍子に炎上したりする恐さも知っているため、むやみに過激な発言なども控えるようになっているようです。」とします。これと矛盾しないのが、はてな匿名ダイアリーにきょう出た記事、note全炎上芸人入場!!で、この道では一発屋で終わりそうな片切真人がもう入っているなど、人選に雑なところはありますが、春名風花でも2001年生まれで、後はゆとりでさえないような先達が大半です。「もう一名は到着が遅れている様」とされたのがTehuだとして、しかもあのとき、ほんとうに小学4年生だったとしても、この記事が想定すると考えられる「さとり世代」にはぎりぎりです。

つくし世代 「新しい若者」の価値観を読む(藤本耕平著、光文社)の主張を紹介した上で、「高校生のみなさんはこの見方をどうお感じになるでしょうか。」と振ります。ずいぶんと腰の低いことばづかいですが、進学U17のお客さまである以上は、当然なのでしょうか。ふと、戸越銀座でつかまえて(星野博美著、朝日新聞出版)に、「かと思えば、昼間に制服姿の女子高生が美容部員にちやほやと、かしずかれている。本当に吐き気がする。」とあるのを思い出しました。

「大人のひと」の書き方とマージナル・マン

きょう、毎日新聞のウェブサイトに、「大人のひと」と「社会人」という記事が出ました。

「就活がテーマの面を担当するようになって何人もの学生に取材を始めた頃、驚いたことがある。どの学生も社会人を「大人のひと」と呼ぶ。」、皆さんはおどろきますでしょうか。取材なので、おそらく声でとどくことばなのだと思いますが、ひらがなで「ひと」と書いています。漢字にすると同じ字が続いて感じがよくないので、こうしたのでしょうか。一方で、ひらがなにすることで、ソフトな印象にもなります。ですが、少なくともかしこいイルカが登場する作品の記事で取りあげたファミコンソフトは、いちじるしくハードです。

「学生は謙虚で、社会人を実際以上に「上」に感じているらしい。」と解釈します。就活のきびしい現実に鼻をへし折られて、謙虚になったのかもしれませんし、その謙虚さが内定をみちびくことを、願いたいと思います。そういえば、女性セブン 2月18日号(小学館)によれば、「なぜ離婚後の女性はモテるのか。」の答えのひとつは、「一度、結婚で失敗をしていて現実を知っているため謙虚で高望みをしない。」ことなのだそうです。

「記事を書くときは、「大人のひと」を「社会人」と置き換える。大人との境界をそこに置く学生たちの微妙な心理に、できるだけ敏感でいたいと思いながら。」と締めます。レヴィンが境界人、マージナル・マンの用語をあてたことを思わせます。ただし、レヴィンが境界人という表現をつくったと思っている人には、その根拠をうかがいたいところです。社会科学における場の理論(K. レヴィン著、誠信書房)の6章からは、そのようには感じられません。

上昇志向のない若者の問題と「静かな幸せ」

きょう、ダ・ヴィンチニュースに、いまの若者はいろんな機能が落ちている―思春期外来の医師が語る現代の若者像という記事が出ました。「「それでも、1980年以降に生まれた世代は、それまでの世代と決定的に違う」とし、それを知ることで世代間のコミュニケーションをスムーズになればという思いから精神科医・鍋田恭孝さんが書き下ろした1冊」、子どものまま中年化する若者たち 根拠なき万能感とあきらめの心理(幻冬舎)の著者を取材したものです。

「ここでいう若者とは、1980年代に子ども時代を過ごした世代です。」と語り出され、若者の定義としてはずいぶん高く感じられますし、「不登校を理由に外来を訪れた高校2年男子とのやりとり」が例示されて、年齢がまわりの倍では不登校にもなるはずだと思ってしまいます。あの本の主張からすると、1980年代以降にということだと考えたいところです。鍋田自身がそう言わず、三浦ゆえという人もそれを見のがして直さなかったのか、三浦が少し聞きのがしたのか、どちらでしょうか。

その「高校2年男子」の例に対して、「こうした“何も語れない若者たち”はいまや特にめずらしい存在ではない」と指摘されます。非行学入門(鈴木真一編、相川書房)は、「悩みを悩み過ぎる子供達」と「悩みを悩めない子供達」の二分法を示しましたし、古くは意欲減退型留年としての指摘にもあることですが、スチューデント・アパシーの特徴には、問題だと頭ではわかっているはずなのに「悩めない」問題があります。平成17年版 犯罪白書(国立印刷局)によれば、最近の非行少年に目だつ問題の中には、「自分の気持ちをうまく言葉で説明できない」「自分の問題に向き合おうとしない」「何事も悩まない,あるいは悩めない」などもあります。自分を消したいこの国の子どもたち [傷つきやすい自尊心]の精神分析(町沢静夫著、PHP研究所)に登場する、「崖から飛び降りた少女」と話して、「彼女はやっと「何となく学校が嫌かなぁ」と言う」程度だったというお話も、近いところがあります。そう言うと、昭和のはじめに「唯ぼんやりした不安」だってあったと言いたい人が出てきそうですが、あの手紙を含めて、「晩年」の作品くらいは読んでからにしましょう。

「自分自身を知り、語る機能が落ちているのに原因を探る作業をさせると、ますます大きな混乱に陥って収集がつかなくなります」、そのとおりです。「ここ10~20年ほどは、私だけでなく多くの精神科医が苦労」するのは、よく理解できます。それでも可能性は考えられて、スチューデント・アパシーに対してはつなぎモデルがありますし、Amazon.co.jpで評価の高い、立ち直るための心理療法(矢幡洋著、筑摩書房)で紹介された、原因を突きつめることと無関係な諸技法も興味深いでしょう。

「そもそも人の気持を読むのが苦手で、一方的かつワンパターンな若者のコミュニケーションは、アスペルガー障害の特徴と似ています」とします。アスペルガー障害など存在しない、なぜならDSM-5で消えたから、と主張する人を、アメリカいいなりというのかどうかはわかりませんが、このコミュニケーションは、DSM-Ⅳでの定義と似てはいます。ですが、似るというのは、似てはいても別ものだという意味あいを含むことが理解できない人には、誤解されそうなところです。テレビを消したら赤ちゃんがしゃべった!笑った!(片岡直樹著、メタモル出版)などにある、テレビやビデオの視聴が自閉症に似た「新しいタイプの言葉遅れ」と結びつくという説を、自閉症の原因はテレビだと誤読した上で、あるいは誤読をよそおったわら人形論法なのかもしれませんが、非難した人は少なくなかったはずです。

「1970年代生まれまでは、“いい大学に入り、一流企業に就職する”という上昇志向に巻き込まれ、ストレスを与えられてきました。それへの反発から家庭内暴力や荒れる学校も多かった。」とあります。家庭内暴力は、警察庁の統計でみると、1980年代生まれの時代になると減りました。ですが、近年また、急増しています。平成27年版 子供・若者白書(日経印刷)の第1-5-22図の(1)を、たて軸に気をつけながら見てください。また、(4)からは、「しつけなどに反発」してのものが特に増えているとわかります。先ほどの自分を消したいこの国の子どもたち “傷つきやすい自尊心”の精神分析に、「一九八〇年代初期に「しつけの崩壊」が起こった」とあることと関連づけると、しつけが戻ってきて、その副作用とみるべきなのでしょうか。一方、いまは学級崩壊がありますが、当時の意味での「荒れる学校」は見かけなくなりました。その退潮に続いたのがいじめで、緊急提言が添えられた30年前の通知、児童生徒のいじめの問題に関する指導の充実について以降、重大な問題であり続けています。これも時代の転換と関連していて、もじれる社会 戦後日本型循環モデルを超えて(本田由紀著、筑摩書房)によれば、目標の明確な上昇志向がうすれ、受験競争もゆるんできたことが、いじめを増やしたようです。

「気楽で、危険もなく、コスパもよく、できることだけを選んでいく人生が可能になったのですから、そこに必要のない機能がどんどん落ちていくのは必然ですね」と、肯定的な口ぶりです。あの世代で、コスパということばが口をつくところに、若者を理解しようと努めてきた半生がうかがえます。ですが、このことばは、サンキュ! 2013年7月号(ベネッセコーポレーション)がわざわざ、「コスパのいい家」を「安い家」と区別するよう説いたように、本来のCPの意味からずれて、目先の負担が小さいことにかたよった、安っぽいイメージに落ちました。日刊SPA!の記事、「コスパにうるさい人」は仕事ができないには、「たいていこのタイプの人は、“他人より損したくない”という心理に支配されています。」、にもかかわず、「成績は同期に抜かれてしまって」、「彼は営業職なのですが、固定客のフォローばかりに気をとられ、新規顧客の開拓は一切していませんでした。」と、結局は損している皮肉な事例があります。「成果の出ている同期はというと、見込み客と人間関係をつくるために、時には自腹を切ってでも話題のレストランや、成功者が集うようなお店に飲みに連れて行く」、差がついて当然です。

「社会に放り出されると、」「それまで大人はだいたいやさしかったのに、無茶をいう上司など、理不尽な物事にいきなり遭遇するんです。」、そうでしょう。昭和的な雷おやじも、「荒れる学校」の時代の暴力教師やがんじがらめの校則もと、理不尽なものは消えていきました。また、「かくれんぼ」ができない子どもたち(杉本厚夫著、ミネルヴァ書房)は、「近代社会にない「曖昧」で「理不尽な」心地よい世界が担保されている」遊びの世界が成立しにくいことを指摘します。あるいは、理不尽に思えても、自分が理解できていないだけということでしたら、これはむしろ成長のチャンスなのですが、海外旅行をすすめられていやがる心理の記事の最後に取りあげたような感覚でこばむなどして、理不尽のままで損をしている人もいそうです。

「これまで大人に導かれるままにやってこればよかったのに、社会人になったんだから自分で考えろ、と突然いわれて戸惑うんです」と指摘します。ここは教育の問題とされ、自由なはずの自由研究が、決まった自由研究キットのパッケージばかりになって久しいですし、大学教育がもっと社会に合わせるべきという声も理解できます。ダイヤモンドオンラインの記事、「入学は簡単だが卒業は難しい」 大学教育の欧米スタイル導入はなぜ失敗したかには、欧米スタイルの授業を導入し、「学生は、教員が段取りし、指示をしたことならば、レベルが高すぎると思われる課題でも、驚くほど優れた成果を出してくる。」成果を出したのに、ゼミに入ると「ほとんどの学生が、「先生、自分はどうしたらいいんですか?」と聞いてくるばかりで、研究課題を見つけられなかったのだ。」「いろいろアドバイスして、ようやく見つけた課題でも、それに関連する本や資料を自分で見つけられないと、すぐ「テーマを変えたい」と泣きついてくる学生も」というありさまだったそうです。「学生はあまり物事をじっくり考えて行動していないよう」、「ゼミ、ボランティア、留学、インターンなど、いろんなことを万遍なくこなしているけれども、それは、組織が段取りしたことをこなしているだけのようだ。」ともあります。一方で、考えられないわけではない可能性もあります。ダ・ヴィンチニュースに1か月半前に出た記事、ゆとり世代が昇進したら指示待ち上司が誕生? ――『若手社員が育たない。』豊田義博さんインタビュー【前編】は、若手社員が育たない。 「ゆとり世代」以降の人材育成論(豊田義博著、筑摩書房)の第1章の内容として、「「何をしたらいいかも薄々わかっていながら、そしてそれをする能力もありながら、取り組まない」という失敗するリスクを回避しているだけ」の若者を紹介します。ゆるく生きたい若者たち(榎本博明・立花薫著、廣済堂出版)にある、「40代の営業職員Bさん」の、すでに書き方を教わった業務日誌を、ひとりで書くのは「無理です」「不安です」と逃げられて、いっしょに書く流れになるエピソードも、そういうゼロリスク指向が背後にありそうです。あるいは、できるのにあえてしないことは、タウンゼントの相対的剥奪の記事で取りあげたことから考えると、豊かさの表出なのかもしれません。

そういう若者への対応として、「“与えられた環境で、与えられた物事をそれなりにこなす”という彼らの特性に注目してあげて」と求めます。「適切な指示を出して、然るべき方向へと導いてあげる。自分で判断ができないだけで、いわれたことは丁寧にこなしますから。」、これではロボットのようではないかと思った人も多いと思います。ロボットや人工知能がすすみ、人間をはるかに超えると、人間ははたらく必要のないくらしになるか、それともはたらく場がなくなってくらせなくなるかという議論がありますが、いいなりのロボットのようになった人ほど、前者を望むでしょう。

「経済成長が続いていたころの日本には、夢があった。」とふり返ります。対照的な未来を象徴させた、海外でははたらきたくない大学生の記事の最後で取りあげたせりふを思い出しました。

最後は、「大事にされるのは家族」、「凝縮しつつもゆるくつながる家族を中心とした生き方が、今後増えていく」、「人口も減るしGDPも下がりますが、いまの若者が大人になっていくにつれ、静かな幸せを求める国へと移行していくと私は見ています」と締めます。ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体(原田曜平著、幻冬舎)が論じたマイルドヤンキーは、保守どころか先端になるのでしょうか。一方で、内向きのマイルドヤンキーだけでは、国際競争には勝てませんので、せいぜい「静かな幸せ」までしか手がとどかないくらいに、くらしは数世紀ぶんも退行してしまう不安があります。その間に、かしこい人工知能にまかせきりの国にできるかもしれませんが、火の鳥 未来編(手塚治虫作、朝日新聞出版)のような展開だけは、さけたいものです。

ページ移動