きょう、しらべぇに、【視野広がるよ!絶対行くべき!】やたらと海外すすめる人に「国内派」が猛反発!という記事が出ました。
「尾畑さん」の事例から、問題提起が行われます。最後の、「こうなったら、最後。僕は置き去りにされて海外旅行大好きなヤツらだけで会話が盛り上がるんです」という孤立、排除を取りあげるのかというと、そうではありません。その前の、「そのうち、話題は一度も海外に行ってない自分にシフトするんです。」というあたりでの、「周囲が「海外旅行すべき」と、やたらと日本を出ることをすすめてくるとき、居心地の悪さを感じる」ところを問題にします。
「「視野を広げるべき」だとか、そのような観念的な考えを抱きたくない」、再反論は受けつけそうにない反論です。そういう考えこそ観念的かどうかはともかくとしても、1週間前、6月8日付の朝日新聞朝刊にある、滝口学という看護師が経験から得た、「実践と抽象的思考は対立するものではなく、両者の行き来が大切と思う。」という主張のような感覚も、観念的と突っぱねますでしょうか。
「まず日本の各地へ行ってみるべきだと思う」、「海外を知ることも大事だがそれ以前に自国のことを知る必要があるから。」、より地に足のついた意見です。こういう人が、自分で「行ってみるべき」「必要」ととなえている国内の見聞を、どのくらいひろめているかが、気になるところではあります。
「「とりあえず海外」に違和感」、これも興味深い主張です。「目的をはっきりさせないで行っても、時間とお金の無駄になる気がする」ともありますが、若者は本当にお金がないのか? 統計データが語る意外な真実(久我尚子著、光文社)にはむしろ、「時間的余裕のなさや経済的余裕のなさは、若者の「旅行離れ」の間接的理由ではあるかもしれないが、直接的理由ではない」、「若年層が旅行に行かない理由として「なんとなく」が比較的多い」という実証研究が紹介されています。
それにしても、冒頭の事例のような展開は、悪意でないことは明らかで、むしろ善意を含むようでもあるのに、いやがるばかりになってしまうのは、なぜなのでしょうか。海外に行かないことに明確な信念もないのに、友人たちがそこまでよいと伝えてくるものに、まったく気が変わらずにいられるのは、友人がもたらす情報には何の価値も信用もないと見ているからとも考えられます。オレ様化する子どもたち(諏訪哲二著、中央公論新社)が論じた、自分にはまだわからないことを学ぼうという姿勢のない、絶対的な「この私」の世界のようでもあります。内定童貞(中川淳一郎著、講談社)の199ページの、大きな字でのメッセージのようにも言いたくなるかもしれません。そういえば、ルポ 中年童貞(中村淳彦著、幻冬舎)には、婚活パーティ主催者の実体験として、「童貞の人に見られる傾向は、自分を過大評価していることです。」とありました。