生駒 忍

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千本桜の絶景花見スポットと身障者の征服欲

きょう、ウーマンエキサイトに、知られざる都内の桜絶景スポットで、ゆっくりお花見という記事が出ました。

「みんなでワイワイお花見をするのもいいですが、誰にも知られていない場所で、心静かに眺めるのもいいですよね。」とします。文字どおり「誰にも知られていない場所」はむずかしいとしても、もう少しだけ静かにという方向性は、あってよいと思います。3月21日付産経新聞の産経抄は、桜ということでシドモア日本紀行(E.R. シドモア著、講談社)を引いて、明治期の花見を紹介した上で、「昨今の花見客のマナー違反」の問題を取りあげました。また、東京ウォーカー 2016年4月号(KADOKAWA)で有村架純は、「はしゃぎすぎて周囲に迷惑をかけてしまったり、ゴミを持って帰らなかったり、健全じゃないお花見は嫌ですね」と述べています。

まずは、「電車の中からながめる絶景の桜!」です。「たまにはスマホではなく、窓の外を眺めてみると、すてきな景色に出会うことができるかもしれません。」、これは届くでしょうか。単に視覚的なことだけでなく、ある方向だけ見て、外の方向を見ない人も少なくない昨今です。SYNODOSにきのう出た記事、STAP細胞をめぐる「流言」を検討するや、Daily News Onlineにきょう出た記事、保育所潰して韓国に媚びる舛添都知事に「日本死ねママ」はなぜ怒らないのか?は、前者は昔の意味での、後者はいまの意味での「確信犯」だと思いますが、そういう人々の問題をあつかいました。

「JR中央線・総武線 市ヶ谷・四ツ谷の外堀の桜」、ここは「あまり知られていない」とはあまり思えません。「この路線は中央線の上下線、総武線の上下線の合わせて4路線が並行して走っています。」とあるように、多くの人が通る区間です。なお、「この路線」が「4路線」のどれを指すのかはわかりませんし、日本語は単数形を複数に使ってもよいのだと言いたい人は、「これらの路線」と書きなおして、複数だと考えるとよけいにおかしいことに気づいてください。

続いて、「東京メトロ丸ノ内線 赤坂見付・四ッ谷駅ホーム」とあります。先ほどとは変えて、JRでないほうを「四ッ谷」と書くあべこべも、「赤坂見付」という見つけられない駅名も気になりますが、赤坂見附駅のほうからは、上空までのぼらないと、この「一本だけ」は見えないと思います。

「その桜を一瞬チラリと見たかと思うと、四ッ谷駅に到着します。」、これを「ゆっくりお花見」だなんて、せわしないと感じた人もいるかもしれません。「時間があればぜひともホームに降りて、春風に吹かれながら桜を眺めてみてはいかがでしょうか。」とありますので、だいじょうぶです。ふと、NHKウィークリーステラ 1月16日号(NHKサービスセンター)で井上真央が、歴史的な低視聴率に終わることになる花燃ゆについて、「ドラマの中で印象的なせりふは「せわぁない(=大丈夫)」」と述べたのを思い出しました。

次の話題は、「地元民に愛される「小松川千本桜」」です。江戸川区は東京か、と思った人は、「都内の」「都内にある」という表現でしたので、誤読です。足立区の不人気の記事で触れたように、いまは都民が行きたいと思わないところですが、「地元で人気が出てきている」ここからでも、来てもらえるようになるとよいと思います。

「桜の季節には、江戸川区主催の桜祭りも開催されています。」とあります。下のかこみによれば、来月3日に5時間開催され、ライトアップまで足すと8時間で、この季節がまるまるというわけではありません。ですので、「されます」と書いたほうが、誤解されにくいと思います。

「ポニーの乗車など、家族連れで行っても楽しめるイベント」、だいじょうぶでしょうか。Classic Mustangでしたら、半世紀も前のものですし、場所を考えても、乗車とはいっても座席に座ってみるだけだと思いますが、実はヒュンダイのポニーだったというジョークだったとしても、妻子置いてけぼりのお父さんコーナーになることは明らかです。R25にきのう出た記事、「車の大きさで…」ママ友カーストのような世界の妄想にもなじみません。

3本目の話題は、「写真集で桜を堪能する」です。「発災直後、津波の被害にあいながらも懸命に咲き誇った桜の木々たち。」で、江戸川区でさえなく、ぐでたま女子。2(ぴあ)の73ページどころではないぶれ方です。

「まるで桜が人を励まし、語りかけているような情景を鋭く描写」、するどいかどうかは見方がわかれるかもしれませんが、この擬人的な感覚は、見た人はわかることでしょう。それでは、もし桜から見たら、ほかの桜と同じように淡々と咲くだけなのに特別あつかいは変だと思うところでしょうか。それとも、こんな目にあったからこそ見る人のこころをつかみたい、あるいはこころ動かされるのは当然となるでしょうか。

それで思い出したのが、アサ芸プラスにきょう出た記事、乙武洋匡の幼稚園時代の呼び名は「キング」、女子を従え“お世話”させていた!?です。「車いすに座っていた彼は、幼稚園児からすればいつも一段高いところにいて、『あれやって、これやって』といつも命令していました。」「その頃から“自分のために人が動くのは当たり前”と思っていたのかもしれません」との証言があります。一方で、TOCANAにきのう出た記事、乙武氏不倫、障害者の意見を聞いてみた「障害があるからこそ感じる征服欲とセックス」では、身体障害者の目から、「こういう人間だからこそ感じる征服欲とか、そういうなんていうんだろう、願望みたいなものってあると思うから(苦笑)」という指摘がされました。幸せになる勇気(岸見一郎・古賀史健著、ダイヤモンド社)も出て、世間のアドラーブームはまだやみませんが、器官劣等性の考え方でこのあたりを読む声は、あまり聞かないように思います。ベストセラーを使う芸のない人物だと思われたくないのでしょうか。

それで思い出したのが、らばQにきょう出た記事、古本屋「ベストセラーの恋愛小説が集まりすぎてしまった…」→「しかたがないので要塞にしてみた」です。Discovery Newsの記事、An Igloo Made of Books (Photos)にある作品を連想した人が多いと思いますが、同じものでそろえられたのは、ベストセラーの力です。もちろん、日本人でしたら、ここは「悶えろ!モエプロゲッターズ」を連想してほしいところです。

未来的な都市のたのしみ方とスワンナプーム

きょう、Photoripに、タイのついでに隣国に行く旅行者急増中! 格安に「未来都市と伝統」を堪能する旅という記事が出ました。

「世界の中心的なターミナル空港をご存知ですか? ヨーロッパはフランクフルト、北米はニューヨークやロサンゼルス、そしてアジアはバンコクというのが常識です。」と書き出されます。「中心的なターミナル空港」という表現は、あまり見かけないように思います。一般的な用語ですと、ハブ空港ですが、ロサンゼルス国際空港を「常識」と断言するなど、やや語感が異なるのかもしれません。また、空港名を書かないところも特徴的です。スワンナプームは、ドンムアンとは異なり、行政上はバンコク市ではありません。新バンコク国際空港は、新東京国際空港と同様なのです。

「では、バンコクを中継空港として近隣諸国に行くとすれば、どこへ行くのがベストなのでしょうか?」と問います。問うといっても、考えさせるというよりは、筆者が出したい話題の前ふりです。Q&A 心理データ解析(服部環・海保博之著、福村出版)を連想した人もいるかもしれません。すぐ前に、「インドやネパールなどの近隣諸国」とあり、これが近隣かと疑問を感じた人はグローバル感覚があるのかないのかわかりませんが、そこの話題へとみちびきたかったのです。

「コルカタ、カトマンズ、ダッカ、どの都市も素晴らしいカオスを体験できますが、数日いると肉体的にも精神的にも疲れるもの。そんな状況下でバンコクに戻ると、まるで日本に帰国したかのように安心感を得られます。」とあります。つらい経験のよいところの記事で取りあげた研究を思わせます。「東京やニューヨークに負けない未来的な地域」の、一風変わったたのしみ方です。そういえば、anna magazine vol.01(ファミマ・ドット・コム)には、「バンコクは経験を楽しむ街」とありました。

海外旅行のすすめをいやがる心理と若者のお金

きょう、しらべぇに、【視野広がるよ!絶対行くべき!】やたらと海外すすめる人に「国内派」が猛反発!という記事が出ました。

「尾畑さん」の事例から、問題提起が行われます。最後の、「こうなったら、最後。僕は置き去りにされて海外旅行大好きなヤツらだけで会話が盛り上がるんです」という孤立、排除を取りあげるのかというと、そうではありません。その前の、「そのうち、話題は一度も海外に行ってない自分にシフトするんです。」というあたりでの、「周囲が「海外旅行すべき」と、やたらと日本を出ることをすすめてくるとき、居心地の悪さを感じる」ところを問題にします。

「「視野を広げるべき」だとか、そのような観念的な考えを抱きたくない」、再反論は受けつけそうにない反論です。そういう考えこそ観念的かどうかはともかくとしても、1週間前、6月8日付の朝日新聞朝刊にある、滝口学という看護師が経験から得た、「実践と抽象的思考は対立するものではなく、両者の行き来が大切と思う。」という主張のような感覚も、観念的と突っぱねますでしょうか。

「まず日本の各地へ行ってみるべきだと思う」、「海外を知ることも大事だがそれ以前に自国のことを知る必要があるから。」、より地に足のついた意見です。こういう人が、自分で「行ってみるべき」「必要」ととなえている国内の見聞を、どのくらいひろめているかが、気になるところではあります。

「「とりあえず海外」に違和感」、これも興味深い主張です。「目的をはっきりさせないで行っても、時間とお金の無駄になる気がする」ともありますが、若者は本当にお金がないのか? 統計データが語る意外な真実(久我尚子著、光文社)にはむしろ、「時間的余裕のなさや経済的余裕のなさは、若者の「旅行離れ」の間接的理由ではあるかもしれないが、直接的理由ではない」、「若年層が旅行に行かない理由として「なんとなく」が比較的多い」という実証研究が紹介されています。

それにしても、冒頭の事例のような展開は、悪意でないことは明らかで、むしろ善意を含むようでもあるのに、いやがるばかりになってしまうのは、なぜなのでしょうか。海外に行かないことに明確な信念もないのに、友人たちがそこまでよいと伝えてくるものに、まったく気が変わらずにいられるのは、友人がもたらす情報には何の価値も信用もないと見ているからとも考えられます。オレ様化する子どもたち(諏訪哲二著、中央公論新社)が論じた、自分にはまだわからないことを学ぼうという姿勢のない、絶対的な「この私」の世界のようでもあります。内定童貞(中川淳一郎著、講談社)の199ページの、大きな字でのメッセージのようにも言いたくなるかもしれません。そういえば、ルポ 中年童貞(中村淳彦著、幻冬舎)には、婚活パーティ主催者の実体験として、「童貞の人に見られる傾向は、自分を過大評価していることです。」とありました。

小倉のフランス菓子店と「尽くすことが快感」

きょう、マイナビウーマンに、ガイドブックには乗っていない小倉案内―「フランス菓子 SHIROYA」オムレット35円という記事が出ました。

「ガイドブックにはあまり掲載されていない福岡の観光地。それは小倉。」と書き出されます。私は北九州「工業地帯」で学んだ世代で、その中心都市だったここに、観光のイメージはあまりありません。きちんと観光していったのは、1回だけです。ですが、筆者もすすめている西小倉-小倉間を歩き、魚町銀天街に旦過市場、小倉港やチャチャタウンも見て回って、密度の高い1日となったのをおぼえています。

記事のタイトルにあるSHIROYAも、行きました。行くというよりは、駅前のペデストリアンからアーケード街に入るところの好立地ですので、自然に前を通り、注意をひかれて、オムレットを買いました。よそでは考えつかないユニークな食べものというほどではありませんが、あの価格ですし、B級グルメ的にもっと知られてもよさそうです。なお、謎だらけの日本語(日本経済新聞出版社)は、食べものに「グルメ」という表現を使うのは、本来はおかしいと指摘します。「B級グルメ」という用法も、失礼な意味に理解できるようなのですが、私はもう、これは定着した用法だと理解しています。

小倉じんだについて、「頭からシッポまで食べ尽せるもの」とあり、送りがなが気になりました。まちがいかどうかはともかくとしても、「く」が入るほうが自然だと思います。男女が異性に求めるものの記事の最後に紹介した、同じくマイナビウーマンの記事は、少ししてタイトルが修正されましたし、1文字でも短くしなければということはないと思います。ここの表記方針でもありません。同じくマイナビウーマンにきょう出た記事、男を見る目がない!? 「ダメ男好きな女性」の3つの共通点には、「尽くすことが快感」「尽くす義理はない」とあります。

意識の高い高岡法科大生グループと三大大仏

きょう、北國新聞のウェブサイトに、利長くんと高岡巡り 法科大生の名所紹介企画 動画撮影に150人協力という記事が出ました。

取りあげられた活動のねらい、位置づけが見えにくい記事です。1文目には、「高岡法科大生による「利長くんと高岡プロデュース大作戦」は9日、高岡市中心部で行 われた。」とあり、以前に新聞屋による見守りの記事でも触れた半角スペースの出現や、訳文のような不自然な日本語も気になりますが、ここでは、きのうにあったリアルタイムでの観光PRイベントとして位置づけられます。同じ段落の「学生は短文投稿サイト 「ツイッター」でも随時、各所の魅力を発信し、歴史都市高岡をアピールした。」、記事の最後の「リーダーの見村聖実さん(20)は「予想以上の人に集まっていただき、高 岡と利長くんをPRできた」と話した。」も、その線にそうものです。ですが、「高岡のPR動画の撮影」「各所で撮影した動画や写真を近日中に1本の映像に編集し、インターネットで公 開」が主目的のようでもあります。そうだとすると、きのうのものはPRイベントではなく、PR活動の準備の一環である素材収集だと考えられます。記者の名前が見あたりませんが、これを書いた人は、どちらの位置づけで理解し、読者に伝えようとしたのでしょうか。もちろん、学生のほうから見れば、どちらも目的にあって、さらにはたとえば、こんな社会貢献的でクリエイティブな活動をしましたとアピールできる実体をつくって、就職活動でライバルに差をつけたいという目的もありそうです。「就活」の語が定着してしばらくしてからですが、そういうねらいが見え見えの学生制作フリーペーパー、前向きな講演や討論企画、地元商店街とコラボレーションしてのあれこれなどが目につくようになって、見え見えで見苦しいと私は感じながらも、「意識高い系」という病(常見陽平著、ベストセラーズ)のような視点の一方で、この手を鼻で笑うだけで何もしない学生よりは、人事担当者に無視されにくいのだろうと考えると、世知がらい世の中になったものだと思います。

写真は、後方に大仏を意識して入れたことがわかるものです。キャプションには「地元住民と交流する学生」とありますが、ぱっと見ると、利長くんと地域の方との交流に見えます。よく見ると、左側にいるのは、首から「Cal4」と書かれたカードを下げていることから、何かの罰ゲームでもない限り、学生のほうだろうとわかります。あるいは、利長くんの中の人も、学生なのかもしれません。

記事になったツイッターのつぶやきは、「利長くん@CaL4(3月9日)」というアカウントによる9日13時31分のツイートでしょう。記事では別々の二言のように分けてありますが、これ1回にどちらもふくまれます。

ツイートを注釈なしで載せて平気なようですが、この鳳徳山大仏寺の仏像が「日本三大大仏」に入ることにしたいのでしょうか。保健室 2013年10月号(農山漁村文化協会)には、「人間がすっと頭に入りやすいのは三つでしょう。」とあり、その例が「日本三大○○」でしたが、この手はたいてい、上の2件は誰もが同意できても、あと1件が決まらず、関係者だけが熱くなる3位争いになりがちです。中立性を三本の柱のひとつとする日本語版ウィキペディアの日本三大大仏は、高岡を入れるのを「地元民の自称に過ぎないもの」「定義付けすること自体が無意味」と、あっさりとしりぞけます。高さは16メートル近くあり、鎌倉よりも大きいのにと言いはるかもしれませんが、それは下に台座、上に光輪を足した数値で、舞の海どころではありませんので、像高をみましょう。そして、像高であらそうなら、100メートルある牛久大仏には、まさに足もとにもおよびません。ですが、神奈川Walker 2013夏(角川マガジンズ)には、鎌倉大仏は総高1335メートルとありました。

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