生駒 忍

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「さとり世代」の定義と低い労働生産性の理由

きょう、マイナビ進学U17に、「ゆとり」世代だけじゃない! イマドキの若者は「さとり」といわれている!?という記事が出ました。

「近年よく聞くのが「ゆとり世代」と「さとり世代」」、「ともに最近の若い人たちを指している言葉ですが、みんさんにとっては、どのようなイメージを持たれる言葉でしょうか。」、どうでしょうか。黄明麗のことではないはずとは思いますが、「ニートティーンストーリー」という連想をねらったのかもしれません。

「ゆとり世代と呼ばれるのは、はっきりした定義はできないものの1990年代前半から2004年くらいに生まれた人を指しています。」とします。「はっきりした定義はできないものの」としながらも、終期に具体的な年を示しました。すると、「一方、「さとり世代」は、ゆとり世代の次の世代を指してそう呼ばれています。」としたこととの関係が、不自然になります。「さとり世代」を、2004年くらいから後の生まれととらえるのは、あまりにも若いように思われます。ちなみに、「ゆとり世代」が職場に来たら読む本(柘植智幸著、日経BP社)での「ゆとり教育世代」は、「1987~96年度生まれ」です。

「学力テストでいい点数を取ることを基準にして通知表の点数を決める「相対評価」から、テストの点数は低くても、授業態度や部活動での活躍、委員会やボランティア活動といった一生懸命な姿など、教員からみて努力する姿勢があることが評価の対象となる「絶対評価」に変わった」、これは誤解をまねく書き方です。学力テストの得点にも、関心・意欲・態度をランクづけや得点化したものにも、どちらの評価も可能です。また、「絶対評価」という用語が、心理学検定 基本キーワード 改訂版(日本心理学諸学会連合心理学検定局編、実務教育出版)の表現でいえば「第二次世界大戦前の日本の」問題の影響で、学校現場では好まれない面があることも、知ってほしいと思います。

「そうした評価の受け方は、シビアに営業成績だけで査定される会社など、厳しい社会に出たときの打たれ弱さになってしまっているという見方もあります。」、これは本来の意味での絶対評価とも、ここでの誤解と思われる「絶対評価」とも、関連づけることはできそうですが、後者のイメージが強そうです。先ほどの「ゆとり世代」が職場に来たら読む本にも、結果をしかられるとだめだという指摘があります。また、ハフィントンポスト日本版の記事、勤勉さだけでは改善できない日本の低い労働生産性で、日本の労働生産性を低迷させる主な要因が次々とならぶ、その筆頭は「結果より努力を賞賛する考え方」ですし、「残業は努力の現れとも言え、奨励される傾向にある。」、これが問題なのは、言うまでもないことです。

「ゆとり世代は、幼少期に情報化社会の成長時期を経験しており、物心ついたときから携帯電話があった世代」、「そのことが他人との直接的なコミュニケーションを苦手にさせていることも」、どうでしょうか。「他人との」という表現ですので、双方向的なコミュニケーションのことだろうと思います。一方で、一方的なコミュニケーションについては、自撮りをきらう女性の記事で取りあげたように、得意になっているとも言えるのです。

その次、「さとり世代」に対しては、「処世術として冷静沈着に客観的な態度が身についている」、「身の丈にあった行動と思考」、「さらに、スマホや携帯電話が爆発的に普及したネット社会において、無自覚に発信した発言が何かの拍子に炎上したりする恐さも知っているため、むやみに過激な発言なども控えるようになっているようです。」とします。これと矛盾しないのが、はてな匿名ダイアリーにきょう出た記事、note全炎上芸人入場!!で、この道では一発屋で終わりそうな片切真人がもう入っているなど、人選に雑なところはありますが、春名風花でも2001年生まれで、後はゆとりでさえないような先達が大半です。「もう一名は到着が遅れている様」とされたのがTehuだとして、しかもあのとき、ほんとうに小学4年生だったとしても、この記事が想定すると考えられる「さとり世代」にはぎりぎりです。

つくし世代 「新しい若者」の価値観を読む(藤本耕平著、光文社)の主張を紹介した上で、「高校生のみなさんはこの見方をどうお感じになるでしょうか。」と振ります。ずいぶんと腰の低いことばづかいですが、進学U17のお客さまである以上は、当然なのでしょうか。ふと、戸越銀座でつかまえて(星野博美著、朝日新聞出版)に、「かと思えば、昼間に制服姿の女子高生が美容部員にちやほやと、かしずかれている。本当に吐き気がする。」とあるのを思い出しました。