きょう、暮らしニスタに、思わず赤面!「勘違いしていた言葉」で死にたくなった体験談という記事が出ました。
「人間、「知らないこと」「勘違いしていること」なんて沢山沢山ありますよね~。」と書き出されます。ここで話題になる「大恥をかいた勘違い言葉」に手を出さなくても、きちんと知っていることばだけを使えば、誰にも知られずにすむことではあります。ダイバー 2015年5月号(ダイバー)でセイン・カミュは、「知っている単語を並べるだけでもじゅうぶん通じるよ!」と言っています。ですが、知らないことを知って、ほしいものを得て、そだっていくためには、失敗をおそれすぎてもいけません。「モテ」に効果のなかった努力の記事で取りあげたように、失敗から学ぶものもありますし、「ロストゲイン効果」の記事で取りあげたように、失敗を利用することもできます。好きな人の前でミスしたときの記事で取りあげた、六角精児のことばもそうです。そうはいっても、日英語の比較 発想・背景・文化 第二版(日英言語文化研究会編、三修社)に、「古来,日本人の考え方は消極的なもので,人間はただ悪いことをしなければよいというものであり,無難に人生を送ろうとしてきた。だから日本では「勤続40年」や「20年無事故運転」が表彰の対象になる。」とあるような、失敗回避の文化は根強くあります。あるいは、今は時代が変わって、「黒子のバスケ事件」でのねたみの記事で取りあげた「ゲーム感覚」が身につき、失敗したらリセットボタンか自爆かとなってしまうのかもしれませんし、上昇志向のない若者の記事で取りあげた、とにかくリスクから逃げる感覚も、さまたげになります。一方で、失敗はだめ、「ダメ、ゼッタイ」だけにせず、言いわけする大人にさせない方法の記事で取りあげたやり方もありますし、「かくれんぼ」ができない子どもたち(杉本厚夫著、ミネルヴァ書房)にあるように、「「だからいったでしょ」といって過去を振り向かせるか、「どうしたらいい」と未来を向かせるかによって、子どもの失敗に対する考え方が大きく変わってくる。」のです。あるいは、おとなの失敗から、子どものためになるようにつなげることも教育的でしょう。「小1のカベ」に勝つ(保育園を考える親の会編、実務教育出版)にある入学式でのできごと、「校長先生も失敗しちゃったけど、学校では失敗してもいいんだよ」はみごとですし、PHP 2014年12月号(PHP研究所)にある佐藤佐知典という人の回想、「間違ってもいいんだあ!」も近いかもしれません。武井咲の強さの記事の最後に触れた発言や、趣味へのお金のかけ方の記事の最後に取りあげた女子高生のような態度が、そだってほしいものです。
「立派に子どもを育てている100人の主婦の方々」を対象とした調査で、「勘違いして覚えていた言葉で、恥ずかしい思いをしたことはありますか?」という問いに対して、YESが91人と、大多数を占めました。そして、「NOと答えた人の中でも「とくに恥ずかしいと思った経験がない」という人は、たったの4名。」、優秀な人もいるように見えて、残念なエリート(山崎将志著、日本経済新聞出版社)に登場する「「何もしない」エリートたち」ではありませんが、リスクにいっさい手を出さず、手をはさまれずにきたという優秀さ、ロスジェネ心理学(熊代亨著、花伝社)でいう「全能感を維持するために「なにもしない」人達」のようにも思えます。PRESDIDENT Onlineの記事、「採用したい男子学生がいない」採用担当者が嘆く3つの理由の、「『あなたの失敗した経験を聞かせてください』と言うと、『失敗したことはありません』と平然と答える学生」のようなものです。
「天津甘栗を『あまつあまぐり』と呼び、『てんしんあまぐり』は別商品だと思っていた」、これは意外に正しそうで、興味深いです。重箱読みだと知らなければ、すべて訓読みか音読みかでそろえるのが、自然な読みではあります。音読みにするにしても、津を「シン」と読む機会は多くありません。もちろん、となりの国の都市名なのですが、天津甘栗は河北省で収穫されますので、その知識からは不自然になります。ちなみに、天津飯は、食べもののほうも、日本で考え出されました。すると、日本古来の読みで、神々しく「あまつ」としたくなるのも、わかります。
「「訃報をずっと『とほう』だと思っていたら、主人に指摘されて気づきました。」、漢字のつくりのうち、つくりから読みの見当をつけるヒューリスティックの失敗例でしょうか。「築き上げてきたキャラが崩壊」して、途方にくれたものと思います。
「耳からだけの情報だとありがちな間違え3選でした。」、3番目はともかくとしても、だじゃれとしてありがちなものでもあります。そして、ぐっさんさんのだじゃれの記事で取りあげたように、だじゃれは耳の問題とも関連するのです。
「ある大きな仕事を任されたときに謙遜して使ったつもりが、逆の意味だと後から知った」例では、足りない人だと思われたことと思います。知らないまま、かっこよいことばだと思って使いたくなったのでしょうか。ふと、まんがライフSTORIA Vol.12(竹書房)のハトポポコのまんがの、「衝撃」を思い出しました。あのような場合は、意味を知らなかったわけですから、マイナビ学生の窓口にきょう出た記事、【米研究】汚い言葉を使うと健康になる?!最も簡単なストレス発散方法とはのような効果はないはずです。
「『許さん』という言葉を人の名前だと思い、『ゆるさんって誰?』と聞いて周囲を凍りつかせたことがあります」、ありそうです。似ていてそうでもないものとしては、自閉症の公社職員の落語の記事で取りあげた、小さんのお話があります。
「余談ですが、「デング熱」のことを友人が「テング熱」とだと思っていたようで、「テングの鼻が蚊っぽいから!」とよくわからないことを言っていました。」、おそらくは、昨年のことだろうと思います。あのデング熱さわぎも、デング熱報道批判の記事で取りあげたような声が効いたのかはわかりませんが、この夏はすっかり冷めたようです。
「けど、大丈夫。気づいたときに、こっそり記憶をリライトすればいいんです。」と締めます。それでよいと思います。失敗自体は消せなくても、いらないことは消して、あるいは書きかえて、いまを生きていくものです。そういえば、週刊実話 9月3日号(日本ジャーナル出版)で篝一光は、歌舞伎町について、「昔の建物なんかは随分と無くなったよね。でも、大切なのは今なんだよ。」と言っていました。
それで思い出したのが、デイリースポーツonlineにきょう出た記事、濱田龍臣 三船美佳への“恨み”明かすです。5年前にあだ名でいじられたことで傷ついたという濱田の主張に対して、「三船に改めて取材したところ、“あだ名事件”について覚えておらず「何ていったらいいか…」との返答」だったそうです。「ひそかに傷ついていた」とあるところは、ライブドアニュースへの転載記事のほうでは、「番組で泣いてしまい、子供心にずっと傷ついていた」と、大ごとのように書きかえられたのも気になりますが、三船は逃げたのか、はんなり豆腐(KADOKAWA)の80ページのようなものなのか、どちらでしょうか。また、「濱田にとっては秘密にしておきたいあだ名」とありますが、あだ名は濱田龍臣パーソナルブック たつおみ。(学習研究社)に書いてありますので、つじつまが合いにくいように思います。