きょう、msn産経ニュースに、黒子のバスケ事件、被告が法廷で吐露した「負け組」の思いという記事が出ました。この事件に関しては、以前に犯人像推測についての記事を書きましたが、その犯人が、「「負け組の底辺」が人気漫画家をねたんで起こした「人生格差犯罪」」を語ってアピールしたことを紹介するものです。
罪状認否で、「上智大学出身の藤巻氏の学歴やバスケ漫画での成功について触れ、「手に入れたくて入れられなかったものを全て持っている作者のことを知り、人生があまりにも違うと思った」と述べた。」そうです。まんが家の世界の成功は、ほんのひとにぎりの人しか手にできないのだと思いますが、いまの時代に、学歴はそこまで羨望やねたみを生むものでしょうか。それも、たかが上智でなどと、わざわざけなす人もいるかもしれません。ですが、私のまわりにも、GMARCHを出ていて、上智に行きたかったのにと今でももらす人が複数います。卒業どころか、入学もしなかった人々からも思ってもらえるのは、ありがたいことである反面、成功した卒業生が攻撃ターゲットにされてしまい、そのために母校まで攻撃がおよぶのは、こわいことでもあります。
逮捕されたときに「負けました」と言った意味について、「この言葉のせいでゲーム感覚の愉快犯とする説が流れたが、断じて違う。」と断じたそうです。ですが、この人には、私は「ゲーム感覚」を感じます。犯行がゲーム感覚というより、人生観にゲーム感覚がぶつかっているのです。ゲームといってもいろいろですが、たいていはやり直しがききます。ミスをおかしたら、先を有利にすすめるための条件を満たせなかったら、すぐリセット、「死んで」またやり直すことができますし、それが当然のあそび方でしょう。RPGでは、以前に殺人者の心理がわかるゲームの記事で触れた「いしのなかにいる」でもない限り、失敗する直前から何度でも、気にいるまでやり直せます。心理研究家ゆうきゆうのスーパーリアルRPG マンガで分かる理想と現実の115の違い(マガジンランド)の88章で提案されたような、爆発して二度目がないゲームは、もしあっても誰もやりたがらないでしょう。ですが、実際の人生は、そうはいきません。失敗なしですすんでいけば、大きな成功へ一直線のはずですが、確率的にはほとんど起こることはありません。そして、ミスしたからといって、先を有利にすすめるための条件を満たせなかったらといって、戻ることはできません。この一戦は絶対勝ちたかったのに、あちらを選んでおけばフラグが立ったのにと思っても、やり直しはできません。失敗しないとわかっていたら、どんなことをしてみたい?(J.C. マクスウェル著、ダイヤモンド社)にあるように、「「やり直しの国」というすてきな場所は存在しない。」のです。一部の宗教がもつ、輪廻転生的な死生観を信じれば別ですが、人生にリセットボタンに相当するものはありません。すると、失敗の人生は何をまねくでしょうか。私の世代ですと「桃太郎電鉄」や「いただきストリート」のイメージですが、集まってボードゲーム系の作品で遊んでいて、うまく回せず下位へ落ち、挽回はまず無理となったとき、皆さんはどうしていますでしょうか。けさの毎日新聞朝刊にあった、甲本まおという人の主張、「努力は絶対に裏切らない」「努力は絶対裏切らない」のようなフレーズを頭の中でくり返して、いつか逆転できるかもと、最後までまじめに取りくみますか。どんなにつまらなくても、拡大再生産でよい気分のほかのプレイヤーが楽しみ続けられるように、気をつかってつき合いますか。「負け組」の自分への配慮やおめぐみをもとめますか。まじめな勝負を投げて、非常識なプレイや受けねらいに走りますか。ゲームの場自体をこわして、自分以外も不愉快にさせますか。
犯人は、「刑務所での服役を終えて出所したら、できるだけ人に迷惑をかけない方法で自殺する」と宣言しました。ですが、私は、服役中に改心するか、あるいは改心したことにするかして、口だけになる可能性もあると見ていますが、どうでしょうか。できるだけとはいっても、迷惑なしには自殺はありえませんので、私は自殺に賛成しませんが、決行されてしまった場合の影響も、心配なところです。同じように「クソみたいな人生、やってられない」と思った人が、同じことを考えてしまうでしょうか。それとも、むしろ反面教師として、広く影響をのこすことになるのでしょうか。そういえば、僕たちの「ガンダム」ランキング キャラクター編(宝島社)には、ランバ・ラルの自爆は、こうはなるなと若者たちに伝えたかったのではという解釈がありました。