生駒 忍

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3歳女児の創作文字と宮脇咲良の「整形前後」

きょう、Techinsightに、【エンタがビタミン♪】大塚愛の娘ちゃんが書いた“歌詞”が芸術的。「どんな名作だろうか」と母心。という記事が出ました。

ただのなぐり書きではありません。横線を意識して書きつづられ、一定の密度で満たしつつも、上下の余白は白いままに残す意思が感じられて、興味深い光景です。書いたのは「3歳の娘ちゃん」ということで、特定の文字をまねたとは考えにくい独自の文字のようなかたちが産出されることは、発達的には不自然ではありません。絵が伝える子どもの心とSOS(末永蒼生著、講談社)の、Q1のBの絵は、同じく3歳女子によるもので、「自分で作った創作文字」が登場します。ですが、こちらでは、全体の空間構成が特徴的です。「母がノートに書く歌詞を見て文字の並びを学んでいるのだろうか。」という見方には、もっともなところがあるでしょう。書記言語の世界への親の影響は、音声言語に比べると、あまり研究がされていないのですが、影響はじゅうぶんにありうることです。文才を評価されることも多い、HKT48の宮脇咲良は、週刊プレイボーイ 8月4日号(講談社)によれば、両親の影響で本好きになったのだそうです。もちろん、あれで文才なんてとあきれる人もいると思いますが、こういうものは比較基準の問題です。ちなみに、UTB+ vol.18(ワニブックス)では、当時15歳だったその宮脇が、HKT48の中では「大人の部類」とされていました。

宮脇といえば、日刊サイゾーにきょう出た記事、AKB48渡辺麻友“黒まゆゆ”流出で「整形モンスター」HKT48宮脇咲良との仕事が飛んだ!?が、アクセスを集めているようです。「ネット上ではまゆゆの言葉を真に受け、整形前後の画像を並べるサイトもある。」とあり、「真に受け」と表現して、事実でないことを前提とする立場を示しながら、「整形前後の画像」とはっきり書いてしまうぶれが気になりました。また、AKB関係者が、兒玉遥とあわせて「田舎出身の2人にとっては、ショック以外の何ものでもない。」としていて、都会そだちなら「整形モンスター」と命名されてもショックを受けないのだろうかと思いましたが、都会人の皆さん、どうでしょうか。経済的にゆたかなところでは、整形もあたりまえだったり、むしろ誇示的消費として、鼻の高いことなのでしょうか。対人関係と恋愛・友情の心理学(松井豊編、朝倉書店)には、「柔軟で想像性に優れている者ほど,解決先送りコーピングを用いる」とありますが、頭のかたい田舎者とは違うということなのでしょうか。

ゆたか、想像性で思い出したのが、日本臨床心理学会décにきょう出た記事、「2014年度総会議案書」の問題点です。中ほどに、「会計事務担当の藤本氏のお名前にし追う豊かな個人的想像力に導かれた憶測」とあります。

買い物弱者の弱点と1億総評論家の非生産性

きょう、佐賀新聞LIVEに、=結んで開いて 新聞と地域社会=(2) 情報弱者という記事が出ました。

「たそがれの時代」シリーズの記事、第2章(終) ながらえば[9]供養のかたち 肩の荷下ろし自ら選択で、寺院名も宗派も明かされずに紹介された永代供養のその後の取材から、高齢化問題を考える記事です。「掲載から半年が過ぎた今も、新聞の切り抜きを手に訪ねてくる人がいるという。」、これは伝聞のようにして責任から逃げながら、未来のことを書いたように見えるかもしれませんが、そうではないと思います。=読者と記者の交差点=たそがれの時代・私の視点を見ると、紙上での連載開始は、3月ではなく1月だそうですので、あの記事も、5月の掲載ではなさそうです。

「総務省の2013年の調査によると、パソコンでインターネットを利用している65歳以上の高齢者は5人に1人。残り4人は高度情報化社会の中で、「情報弱者」として取り残されていく可能性が高い。」、これは不適切です。まず、その総務省による通信利用動向調査は、抽出調査なので誤差やバイアスはあるとしても、わずか2割という結果には見えません。また、スマートフォンもフィーチャーフォンも、パソコン以上にかんたんにインターネットにつながりますので、パソコンではなくそちらで使っている高齢者もかなりいますし、可能性なら何とでも言えるとはいっても、スマホの人は取りのこされると判断するのは、無理があるでしょう。むしろ、若い人がパソコンを使わない時代がやってきています。INTERNET Watchに1週間前に出た記事、“若者のパソコン離れ”が急加速? 利用時間が1年で約3分の2に減少や、こちらはうたがう声も強いのですが、jiro6663というアカウントのツイート、あと衝撃のあまり何度かツイートしてますがメール機能。も、話題をよびました。週刊新潮 7月31日号(新潮社)で成毛眞は、「彼らはスマホに未来を感じているのではなく、スマホしか使えないのだ。」と指摘しています。ですが、画面が小さいと、老眼などのため、高齢者には使いにくいでしょう。タブレットの普及がのぞまれます。平成24年版 情報通信白書(総務省編、ぎょうせい)には、「現時点ではICTを利用していない高齢者は多いが、それは高齢者向けの機器・サービスが出ていないからであって、潜在需要はありうるのではないか。そして、タブレット端末は、使いやすさの点で、高齢者のICT利用を増加させる潜在的な可能性があるのではないか。」とあります。

太良町での、「65歳以上が人口の46・6%を占め、県内で最も高齢化が進んだこの町では、パソコンを扱えない高齢者に代わって、町の社会福祉協議会が地場スーパーのネット宅配の注文を行っている。」という取りくみが紹介されます。ネットスーパーの登場は、買い物弱者の解消におおいに貢献しましたが、情報弱者はそこに手が届かず、「時代から取り残されていく「弱者」」から抜けられない危険性があるとわかります。日経電子版に5か月前に出た記事、東芝、タブレットで高齢者支援 食事の出前注文ものような支援にも、同じことがいえます。せっかくつくったよいもので、あまり弱くない「弱者」はさらに弱くなくなる一方で、ほんとうの弱者は弱者のままという格差がつくられてしまうのです。

そのつくることに関して、先ほどのPC離れとも関連しますが、アゴラにおととい出た記事、「若者のパソコン離れ」が意味することが論じています。「パソコン、という「道具」は何かを「作る」ための装置なわけです。」、これに対して、「ネットを使って大衆に消費させるためのツールとして作られ、何かを「作る」ための機能をなくしたのが携帯電話やらスマホ」だとします。そして、若者がパソコンからはなれ、ただの「消費者」になることについて、「何かを「作る」可能性のある若い世代がスポイルされれば、新たに何かが生まれることが少なくなっていくのかもしれません。」と指摘します。BLOGOSにおととい出た記事、<ギターが売れないのは若者の貧困の象徴>ロックお金のかかる中流階級の趣味だった - 水留章は、mediagongらしいクオリティですが、その刺激によるところも含めて、コメント欄がにぎわっています。本質的には、サイゾー 2013年10月号(サイゾー)が、ヒップホップや「歌ってみた」との比較で指摘した、ロックの成熟、部活動化を考えるべきところでしょう。週刊ポスト 1月31日号(小学館)でビートたけしが言う、「成熟はブームの終わり」どころではなく、Hotel California(Eagles)ではありませんが、スピリッツはとうの昔に失われてしまったのです。ほかにも、興味深い論点はたくさんあるのですが、今日の若者が、情報機器によってつくる側からはなれたことに触れたコメントもあります。「誰もが演奏はできずとも、聞く側としてはプロ」、「国民1億人が評論家になりましたので、評論される方になりたい欲求はなくなった」といったものです。週刊新潮 9月25日号(新潮社)で成毛眞が、若者の車離れや映画離れに、みんな批評家ばかりになったことの影響を指摘したこととも関連しそうです。

世界一ではなくなった韓国のキムチと奇形児

きょう、マイナビウーマンに、中国食材ってどうして危ないの?という記事が出ました。登録制サイトであるビューティ&ダイエットの、「女の子の悩み相談室」からの転載のようです。

「中国食材」といっても、豆板醤、ピータン、干しなまこといったような、中華料理ならではの食材の話題ではありません。例外は、ウーロン茶くらいでしょう。なお、キムチは、週プレNEWSの記事、中国キムチに追いやられ世界一の座を奪われた韓国キムチが辛酸をなめている!にもあるように、もう世界一の産地は韓国でも、北朝鮮でもありませんが、中華料理というイメージは、あまりないと思います。きのうの記事で触れた文化遅滞ではありませんが、イメージが変わっていくことも、なかなかなさそうです。

「数年前の冷凍餃子の問題や、今年に入ってからの大手ファーストフード店のお肉の問題など、中国食材の衛生管理問題は驚くような事件があるわよね。」と書き出されます。事件は事実ですが、わが国でも、似たようなことは起きています。昨年だけでも、群馬での冷凍食品マラチオン混入事件や、バーガーキングやピザハットなどの「バカッター」事件などがありました。それでも、FRIDAY 8月22・29日号(講談社)によれば、あの農薬混入犯は、もう「本当にやりすぎたと思っています。」と言って深く反省しているようですし、まだ日本のほうが、悪質性が低いとは言えそうです。そして、筆者は「明らかに中国食材は健康被害の大きい食材が多い」と断言するのですが、つまりは程度の問題にすぎないと返されたら、どう反論できるでしょうか。「日本は食品の衛生管理についての法律が早い時期に定められている」とはいっても、法律自体に犯罪行動を止めきれる力はありません。CODE インターネットの合法・違法・プライバシー(L. レッシグ著、翔泳社)を読みましょう。

そして、さまざまな事例が並べられて、「肢体が奇形した子ども」という、変形した表現まで使ってあおられます。ですが、輸入食材にたよる外食産業へのフォローが続き、「疲れているときや体調が悪いときは、身体の抵抗力も弱まっているから、特に食品の害を受けやすいわ。そういうときは、念のために中国食材は避けた方がいいかもしれないわね。」と、まるでもう死ぬかのような不安から、そこまでの心配はいらないような余裕へと、トーンダウンしてみせます。ふと、VOW王国 ニッポンの誤植(宝島社)の151ページを思い出しました。

文学での節約と恋愛にお金がかかり続ける社会

きょう、ライフハッカー日本版に、文学を読む意味とは?心理学の見地から答える4つの理由という記事が出ました。

タイトルからは、「心理学の見地から」「文学を読む意味」が明かされることが期待されます。ですが、実際の内容は、「人生塾「The School of Life」で教える哲学者であり、エッセイストでもあるアラン・ド・ボトン氏」が、4機能を挙げて解釈したものの紹介です。もちろん、この人のアイデアに、心理学の知見にもとづく、あるいは少なくとも整合するところがまったくないというわけではありませんし、心理学者の仕事がうばわれたなどといきどおるつもりもありませんが、気になったところではあります。

1番目、「時間が節約できる」といっても、このサイトらしいライフハック術のたぐいとは、まったく次元が異なります。しかも、「何度も生まれ変われなければ実際には体験できないような、さまざまな感情や出来事」もふんだんにありますが、何度生まれかわってもありそうもないことまでも、文学にはめずらしくありません。いきなり自分がいも虫になってしまうことは、未来にはメタモルフォーゼ(手塚治虫作、講談社)の「ザムザ復活」のように起こるかもしれないとはいえますが、さすがに非現実的でしょう。不幸からのがれたい一心で「棒の手紙」を送ったことのある人は、ずっとかくしているだけで確実にいるはずですが、自分自身が棒になることはできません。

2番目は、とても堅実なところです。読書教育でも、よく強調される機能です。

3番目、「孤独な気持ちを癒してくれる」とありますが、本は友だち、あるいは特異な凶悪犯罪で目だった人の同級生の証言に出る、いつも本を読んでいて目だたなかった、といった意味あいではありません。「作家は文学を通じて、私たちの本当の姿を見せてくれます。」という感覚は、こども電話相談室の変化の記事で触れた、こころへの関心から文学部へという、昔の、あるいは昔ながらのルートに近いでしょう。そこは心理学の出番なのにというもどかしさと、心理学は文学部的な関心にこたえてくれないというもどかしさを表明されたときのもどかしさとが頭にうかび、もどかしいところです。

4番目、エビデンスはともかくとしても、そういう効果があるのなら、とてもありがたいと思います。趣味へのお金のかけ方の記事で取りあげた「動かない人」は、山あり谷ありの心境を安全に体験できる文学を、好まずにおとなになったのでしょうか。そういえば、週刊朝日 10月24日号(朝日新聞出版)によれば、「イスラム国」のジハードへの参入をはかった北大生は、「日本のフィクションが嫌いで、人を殺す場面で自分がどういう心境になるのか興味がある」と言っていたそうです。

さて、こういった効果を期待する範囲では、紙で読む必要はなさそうです。ですが、文学といわれると、紙の本のイメージが強いでしょう。辞書であれば、紙でさがす過程に起こるセレンディピティや、使いこんで手あかで黒ずむのが学びの実感を高める利点がありますが、これは文学では、なかなか意味をなしません。古典の名作が、青空文庫でもプロジェクト・グーテンベルクでも、無料で読める時代になったのに、人間の意識はすぐにはついていけないのです。オグバーンが、文化遅滞と呼んだ現象になります。なお、オグバーンは、新・堕落論 我欲と天罰(石原慎太郎著、新潮社)では社会心理学者とされましたが、一般には社会学者とされています。

それで思い出したのが、シロクマの屑籠にきょう出た記事、お金がなければ恋愛できない社会。です。若者の恋愛観、ないしは恋愛行動規範が、80年代に強力に商業化されたものからまだ抜けられずにいることを論じています。不況とデフレ、お財布をしばる「通信税」といった環境の変化にもかかわらず、意識がついていけていないと考えると、文化遅滞らしく見えます。ですが、その80年代の恋愛意識は、それよりずっと前の社会変動で、ようやく現れたというものではなさそうです。少なくとも、引用されている若者殺しの時代(堀井憲一郎著、講談社)は、70年代から80年代にかけてしかけられたマーケティングで、あれよあれよという間に若者たちの意識が消費社会へと取りこまれていった展開を、当時の若者の目線から浮かびあがらせました。ですので、ここは文化遅滞のパターンにはなじまないのです。80年代には流れるように転回した意識が、「失われた20年」の社会変動では失われずにいるのは、なぜでしょうか。いったんぜいたくの味を知ったら、なかなか戻れないようなものなのでしょうか。ですが、いまの若者は、生まれたときにはもうバブルもはじけた後という世代が多いのですから、直接におぼえる機会はないはずです。バブル女は「死ねばいい」 婚活、アラフォー(笑)(杉浦由美子著、光文社)でえがき出されたように、バブル世代が長く現役で、恋愛市場でバブル的な行いを続けているのを見ての、観察学習が効いているのかもしれません。

血のイメージと情報発信をあまりしない看護師

きょう、ハフィントンポスト日本版に、未来の看護師を潰さないで!乖離する看護師のイメージと現実という記事が出ました。転載元のMRIC by 医療ガバナンス学会を見ていなかったので、私はこちらで初めて読みました。

若さと意欲とがにじみ出る文章に、看護師の卵の教育にかかわっている私は、元気をもらえた気持ちになりました。ですが、気になったのは、ねらいがとらえにくいところです。「縁あって様々な業種の方と話す機会があったが、自分が看護学部の学生であると名乗ると、看護師のイメージで話をされることが多々あった。」とあるので、看護師のイメージをまだ看護師ではない学生に向けてほしくないのかと思いましたが、そうではありません。「看護師のイメージと実際に自分が学び目指している看護師像に大きなギャップが存在していることに危機感を感じ」というので、イメージと現実ではなく、イメージどうしの対比で、当為自己と理想自己との不一致にやや似た、外から向けられたイメージと自分が目指すイメージとのずれを論じたいのかとも思いましたが、それも違うようです。筆者は、職業としても資格の保有でも看護師とはいえませんので、外の人と中の人との対比でもなく、外の人どうしで、より中に近いかどうかでのずれのお話になっていきます。そして、最後の段落では、「大学で4年間学んだ今の私にこそ、高校の先生や予備校の先生に看護師とは如何なるものか伝えることができるのだと考えている。」とされます。

自分よりも外にいる人がもつイメージが列挙されていきますが、「医療ドラマで良く出てくる「注射」や「血」のイメージ」、ドラマにも出てくることはそのとおりではあっても、特に血については、現実に比べればむしろ、ずっと少ないはずです。もちろん、眼科や耳鼻科のように、眼底出血や鼻血は見かけるにしても、ほとんど血を見ずにすごせる診療科もありますが、医療ドラマの王道である救急ものでは、スポンサーのつごうで交通事故があつかいにくいという説はともかくとしても、どんどん血が出ていくはずの医療場面を、それを映さずに表現しがちであるように思います。

「ひとつ体験談をご紹介したい。」から続くお話が、たくさんのエピソードの羅列なのですが、直接、間接にかかわらず、自分ひとりの体験として、ひとつと数えたのでしょうか。一番問題性が明確な「どうせお前ら医者と結婚したいんだろ。」が、一番不確かなエピソードなのも気になります。そして、もう一歩踏みこんでほしかったのは、「よくわからない同情と声援」、「妙な尊敬や応援」のところです。その違和感には違和感はありませんが、どの人も悪意はないと思われますので、こういうときにはどう考えて、どう言ってほしいのかを具体的に示してもらえると、今後の人のためになったと思います。こう求めると、ふつうに接してほしいだけ、と返ってきそうな気がしますが、一般の人の「ふつう」に、おそらく看護師は入っていません。少なくとも、人生の先輩に「きっと直接看護師と関わったことがないからそういうことを言うのだろう。」と言う筆者は、「ふつう」の人々と看護師との距離は理解できるものと思います。ふつうでないことに関する、悪意のない「ふつう」の反応が、あれなのです。

むしろ、体験談ひとつということでは、「老年の実習で認知症の患者さんを受け持たせて頂いた時のこと」のほうが、しっかりと紹介されています。本質的ではないのですが、気になったのは、「回想法という心理療法を用いて世界地図を紙に印刷したものを病棟のベッドサイドで彼に見せ」というところです。氷見市立博物館の回想法の記事で触れたような定義でも、「貿易会社に勤められ世界を行き来していた」その患者には世界地図が民具、生活用具であると考えれば、これは回想法と呼べそうなのですが、世界地図はわざわざことわらなくても、「紙に印刷したもの」ではないでしょうか。古くはマッパ・ムンディなど、紙ではない地図もつくられてきましたが、もう例外的だと思います。それとも、デジタルネイティブの世界では、地図は物質的存在ではなく、本質はデータなのでしょうか。

「看護学部で学んだ後も、将来の選択肢は多様である。」として、国家試験に受からずやむなくという可能性は別にしても、看護師そのもののお仕事以外の方向性も広いことがアピールされました。そこに、第11回子ども学会議のシンポジウムの、質疑で聞いたお話を思い出しました。ある地方大学の、福祉系学部の教員が、自身の職場の感覚に違和感を表明していたのですが、それは学生の就職に関して、公務員の福祉職や福祉団体に入るのがよいこととされて、一般企業で福祉マインドを生かしたいというようなはたらき方は、その下のように考えられているということです。高い知識や理解を持ったのだから、王道で世の中に還元する生き方をしなさいということなのでしょうか。ふと、やきもの検定の不適切出題の記事でも触れた鈴木秀明という資格マニアのツイート、しかしあれですよね、「東大卒の立派な頭脳をもっと世のために活かせよ」みたいなこという人を思い出しました。

「現在、多くの健康情報がインターネット上に溢れている。それらの多くに、看護学部で学ぶ内容も含まれてはいるにも関わらず、看護師が発信したと分かるものは少ない。」、この指摘は興味深いと思います。医師には、うつ病とアルコール依存の記事で取りあげた記事での監修のような場合も含めて、さまざまなかたちでの発信がみとめられますが、看護師は、意外に見かけません。パラメディカルからコメディカルへと呼称が変わっても、医師との社会的信用の差は大きいのでしょうか。それとも、そんな活動にはとても手が回らないという、筆者が否定したがっている激務の傍証なのでしょうか。人数を見れば、医師よりも看護師のほうが、はるかに多いのです。

その人数のことが、コメントに登場します。「看護師は、200万人もいるメジャーな職業なので、まだましな方です。」とありますが、これは適切ではありません。平成25年 看護関係統計資料集(日本看護協会出版会)にある最新の数値は、看護師の就業者数は2012年末で107万人弱、ちなみに准看護師は38万人弱です。「メジャーな職業」かどうかは、先ほどの「ふつう」の議論とも関連し、むずかしいところですが、200万人は明らかに誇張、あるいはもう、うそだといってもよいくらいです。誰がこんなうそをと思い、名前を見ると、見おぼえがあります。取りやすい資格の記事で、准看が「最低でも年収400万円くらい」という、この人の事実でない発言を取りあげていました。数字が苦手な方なのでしょうか。今回の記事でも、「大学生活での経験の多くは、自分自身の人生についても考える機会にもなり、有意義」という「個人の感想」だけでなく、2段落目でエビデンスを並べて示したことまで、エビデンスなしに価値が落ちて見えるようなコメントをつけました。どんなに効果のエビデンスが積みあがっても、どこまでいってもただの「量」で、必要かどうかという「質」の立証にはならないという論理なのでしょうか。気になるところはあっても、よい視点の記事だっただけに、このコメントはよけいに残念です。はてな匿名ダイアリーの記事、大衆や世間がどんどん馬鹿に思え嫌いになってくを思い出しました。