生駒 忍

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配達員が感じた異変の情報提供と形骸化

きょう、佐賀新聞LiVEに、郵便局「目」も配ります 見守り活動、厳木地区社協と連携という記事が出ました。高岡市と富山新聞販売店との協定の記事で取りあげたものの、新聞販売店を郵便局に入れかえたようなお話で、10日に結んだ協定ということは、栃木県の児童家庭支援センターの設置検討の記事で取りあげたもののような、お盆休みのために書きためたもののように見えます。

具体的には、「郵便局の地域との接点を生かし、配達の際に感じた異変や気づきなどの情報を提供してもらうことで、問題を未然に防ぐことを狙う。」そうです。ここで気になったのは、異変と気づきとが並列の関係で書かれたことです。異変については、それ自体は相手側の事実としてあって、それを感じるという郵便配達員の主観的なできごとの情報提供ということになりますが、気づきはそれ自体が主観的なものですので、異変を感じるというのであれば自然ですが、気づきを感じるという表現では奇妙に思えます。それとも、異変が相手側のことであることと同様に、相手側の気づきを配達員が感じるという、「心の理論」的な活動なのでしょうか。

「厳木郵便局の砂田哲也局長は「地域の安心安全に貢献できることはうれしい。活動が形骸化しないよう改善しながら取り組んでいきたい」。」と言ったそうです。まずはかたちができたそばから、かたちだけが残る事態を考えはじめるのは、しっかりしていると見るべきでしょうか、それとも、どこか飛んだ人だと感じましたでしょうか。ふと、ニューヨークの女性の「強く美しく」生きる方法(エリカ著、大和書房)に、「ニューヨークの人たちは、バケーションが終わった瞬間に、次のバケーションのことを考え始めます。」とあるのを思い出しました。

買い物弱者の弱点と1億総評論家の非生産性

きょう、佐賀新聞LIVEに、=結んで開いて 新聞と地域社会=(2) 情報弱者という記事が出ました。

「たそがれの時代」シリーズの記事、第2章(終) ながらえば[9]供養のかたち 肩の荷下ろし自ら選択で、寺院名も宗派も明かされずに紹介された永代供養のその後の取材から、高齢化問題を考える記事です。「掲載から半年が過ぎた今も、新聞の切り抜きを手に訪ねてくる人がいるという。」、これは伝聞のようにして責任から逃げながら、未来のことを書いたように見えるかもしれませんが、そうではないと思います。=読者と記者の交差点=たそがれの時代・私の視点を見ると、紙上での連載開始は、3月ではなく1月だそうですので、あの記事も、5月の掲載ではなさそうです。

「総務省の2013年の調査によると、パソコンでインターネットを利用している65歳以上の高齢者は5人に1人。残り4人は高度情報化社会の中で、「情報弱者」として取り残されていく可能性が高い。」、これは不適切です。まず、その総務省による通信利用動向調査は、抽出調査なので誤差やバイアスはあるとしても、わずか2割という結果には見えません。また、スマートフォンもフィーチャーフォンも、パソコン以上にかんたんにインターネットにつながりますので、パソコンではなくそちらで使っている高齢者もかなりいますし、可能性なら何とでも言えるとはいっても、スマホの人は取りのこされると判断するのは、無理があるでしょう。むしろ、若い人がパソコンを使わない時代がやってきています。INTERNET Watchに1週間前に出た記事、“若者のパソコン離れ”が急加速? 利用時間が1年で約3分の2に減少や、こちらはうたがう声も強いのですが、jiro6663というアカウントのツイート、あと衝撃のあまり何度かツイートしてますがメール機能。も、話題をよびました。週刊新潮 7月31日号(新潮社)で成毛眞は、「彼らはスマホに未来を感じているのではなく、スマホしか使えないのだ。」と指摘しています。ですが、画面が小さいと、老眼などのため、高齢者には使いにくいでしょう。タブレットの普及がのぞまれます。平成24年版 情報通信白書(総務省編、ぎょうせい)には、「現時点ではICTを利用していない高齢者は多いが、それは高齢者向けの機器・サービスが出ていないからであって、潜在需要はありうるのではないか。そして、タブレット端末は、使いやすさの点で、高齢者のICT利用を増加させる潜在的な可能性があるのではないか。」とあります。

太良町での、「65歳以上が人口の46・6%を占め、県内で最も高齢化が進んだこの町では、パソコンを扱えない高齢者に代わって、町の社会福祉協議会が地場スーパーのネット宅配の注文を行っている。」という取りくみが紹介されます。ネットスーパーの登場は、買い物弱者の解消におおいに貢献しましたが、情報弱者はそこに手が届かず、「時代から取り残されていく「弱者」」から抜けられない危険性があるとわかります。日経電子版に5か月前に出た記事、東芝、タブレットで高齢者支援 食事の出前注文ものような支援にも、同じことがいえます。せっかくつくったよいもので、あまり弱くない「弱者」はさらに弱くなくなる一方で、ほんとうの弱者は弱者のままという格差がつくられてしまうのです。

そのつくることに関して、先ほどのPC離れとも関連しますが、アゴラにおととい出た記事、「若者のパソコン離れ」が意味することが論じています。「パソコン、という「道具」は何かを「作る」ための装置なわけです。」、これに対して、「ネットを使って大衆に消費させるためのツールとして作られ、何かを「作る」ための機能をなくしたのが携帯電話やらスマホ」だとします。そして、若者がパソコンからはなれ、ただの「消費者」になることについて、「何かを「作る」可能性のある若い世代がスポイルされれば、新たに何かが生まれることが少なくなっていくのかもしれません。」と指摘します。BLOGOSにおととい出た記事、<ギターが売れないのは若者の貧困の象徴>ロックお金のかかる中流階級の趣味だった - 水留章は、mediagongらしいクオリティですが、その刺激によるところも含めて、コメント欄がにぎわっています。本質的には、サイゾー 2013年10月号(サイゾー)が、ヒップホップや「歌ってみた」との比較で指摘した、ロックの成熟、部活動化を考えるべきところでしょう。週刊ポスト 1月31日号(小学館)でビートたけしが言う、「成熟はブームの終わり」どころではなく、Hotel California(Eagles)ではありませんが、スピリッツはとうの昔に失われてしまったのです。ほかにも、興味深い論点はたくさんあるのですが、今日の若者が、情報機器によってつくる側からはなれたことに触れたコメントもあります。「誰もが演奏はできずとも、聞く側としてはプロ」、「国民1億人が評論家になりましたので、評論される方になりたい欲求はなくなった」といったものです。週刊新潮 9月25日号(新潮社)で成毛眞が、若者の車離れや映画離れに、みんな批評家ばかりになったことの影響を指摘したこととも関連しそうです。

おもいやリスと連装砲ちゃん無許可グッズ事件

きょう、毎日新聞のウェブサイトに、タウンたうん:「おもいやリス」福祉をPR−−みやき /佐賀という記事が出ました。

Googleのサジェスト検索では、「みやき町」と入れると「みやき町 ランチ」の次にもう「みやき町社会福祉協議会」が出てきて、何らかの町の特性を反映していると考えるべきところでしょうか。その社協のイメージキャラクターの、「採用作品制作者の表彰式」の記事です。ですが、採用にいたらなかった寺田輝雄、下川嘉子の両名も、この式で表彰を受けたような気もします。名前の挙がった受賞者3名に、旧三根町地域からは誰も入りませんでしたが、1わくずつをふるような配慮をしなくても、合併後もう問題なくうち解けた地域なのでしょう。

採用となった「おもいやリス」は、社協のウェブサイトで見た人もいると思います。あのサイトは、ゆるキャラ的なものに満ちていますが、「みやき町社会福祉協議会のイメージキャラクターが決まりました!」とあるリンクは、その「おもいやリス」と公式サイトのロゴとを合わせ、余白をたっぷりとったPDFにつながり、私は少しおどろいてしまいました。ネーミングは、ただいま受付中のいきいき茨城ゆめ国体マスコットキャラクター愛称募集で、プロフィールの1点目を見た瞬間に「イバラッキー」とつけたくなってしまった私から見ても安直に感じますが、おぼえやすいのはよいと思います。デザインは、本来の意味でのゆるキャラに立ちかえるようで、好感が持てます。以前に大洗観光の持ちなおしの記事で取りあげたアライッペのような、近年の「キモかわ」ねらいではなく、くまモンのようなプロの計算で人気が約束されたつくりでもありません。そういえば、コサインなんて人生に関係ないと思った人のための数学のはなし(タテノカズヒロ著、中央公論新社)は、人気の出ないゆるキャラに、よい数比を使うことを提案していました。

用途ですが、「最優秀作品はのぼり旗などに印刷され、協議会の町民への周知のために使われる。」とのことです。着ぐるみ化でさらにゆるさが高まるたのしみは期待できないようですが、横向きのこのポーズのみで使うのが、無難でしょう。3次元になると、ひこにゃんの「5年抗争」もありましたし、権利関係でもめ事が起こりやすくなって、興ざめのおそれも生じます。それで思い出したのですが、Togetterにきょう出た記事、【C86】コミケスタッフが無許可で連装砲ちゃんグッズ販売→炎上【艦これ】 #C86 #艦これの騒動は、青紙でおしまいになるのでしょうか。

認知症高齢者の日常生活自立度と孤独死3万人説

きょう、現代ビジネスに、「人生の最期は、家でひとりで」の時代がやってくる 『孤独死のリアル』著者・結城康博インタビューという記事が出ました。サイト運営者である講談社が出した、孤独死のリアル(結城康博著)の著者へのインタビュー記事です。

インタビュアー側が、年に3万人の孤独死という数を出して、それに「だから、実数のデータはまだなく、3万人というのは推計値です(ニッセイ基礎研究所の2011年3月の調査データをもとに推計)。」との回答がつきます。あくまで推計値なのはそのとおりなのですが、この書き方は適切ではないように思います。まず、その調査データとはおそらく、ニッセイ基礎研究所のセルフ・ネグレクトと孤立死に関する実態把握と地域支援のあり方に関する調査研究報告書のもののことだと考えられますので、ちょうど震災のタイミングにあたる「2011年3月の調査データ」ではありません。東京都監察医務院が出した東京都23区における孤独死の実態の2009年時点のものを用いた分析ですし、この研究所が収集してきたデータでもありません。報告書が2011年3月付となっていて、実際の公表は4月だったようですが、それを書いてしまったのでしょう。また、「調査データをもとに推計」とはあっても、ニッセイ基礎研究所がオリジナルで出したのはデータそのものではなく、そこからの推計値ですので、その推計からさらに著者が独自に推計したとは考えにくいと思います。研究所の推計値は、「孤立死の基準としてはやや厳しい(孤立死を過大評価する可能性がある)水準」を採用しての上位推計でも2万6千人台、中位推計ですと1万5千人台、「3万人というのは推計値」の約半分にすぎません。インパクトを考えて、大きく表現することを意識したのでしょうか。そういえば、他者の苦痛へのまなざし(S. ソンタグ著、みすず書房)には、広島では「数秒のうちに七万二千人の市民が灰となった」、南京では「四十万人近くの中国人を虐殺」とありました。

「いま「道に迷う」「金銭管理にミスが目立つ」などの日常自立度Ⅱ以上の認知症高齢者は300万人以上、65歳以上の10人に1人といいます。」とあります。これはおそらく、「認知症高齢者の日常生活自立度」のことだと思いますが、ここは私は前から気になっているところです。この日常生活自立度は、数が大きくなるほど自立度が低い方向につくってあるので、混乱をまねく概念です。「日常自立度Ⅱ以上」と書かれても、自立度が一定以上に高い方向ではなく、逆になるのです。数字が小さいほど重い、労災保険の障害等級や障害者手帳の等級とは逆ですが、要介護度の判定につながるものですので、要介護度と同じ向きにしたのでしょうか。名前を「日常生活非自立度」とでもあらためれば早いのですが、否定の意味の字が入るのはわかりにくいかもしれません。ビッグファイブのNを「情緒不安定性」とはせず、逆に読んで「情緒安定性」とした性格は五次元だった 性格心理学入門(村上宣寛・村上千恵子著、培風館)を思い出しました。

「その点で、本書でも、読売新聞やヤクルトなどの例を取り上げていますが、自治体が民間企業と組んで、配達先の独り暮らし高齢者を業務として見守ってもらう、というサービスを取り入れるのは有効です。」とあります。以前に高岡市と新聞販売店との協定の記事で紹介したものは、この「業務として」に入るでしょうか。

「孤独死対策には、公的サービスや職員を増やす、地域包括支援センターを充実させる、など「公助」を増やすべき」という主張を、皆さんはどう考えますでしょうか。当然の正論ととる人も、だからこそありきたりすぎて価値を感じないという人もいるでしょうし、よくも悪くも元公務員だという見方もあるかもしれません。その一方で、最後は「私の実感は、「孤独死しても2、3日以内に発見してもらえる人間関係と環境をつくっておこう」ということです。そう意識して生活していれば、ほんとうに困ったときには、誰かが助けてくれるようになるものなのです。」と、互助や個人の意識へと還元して締めます。このあたりに関連するところでは、この本より半年早く出た、孤独死のすすめ(新谷忠彦著、幻冬舎)の独特の主張があります。孤独死をここまで前向きにとらえるのは異例で、「元気な日本を復活させるためには国民が「おねだり」をやめること、すなわち、孤独死を覚悟することが唯一の道である、というのが私の基本的な考えです。」とします。そして、行政や他人はあてにならないと斬り、安倍「三本の矢」批判、大学教育の無料化、所得税の不公平性、フリーターの「アクティブ」「パッシブ」の2類型化など、さまざまな話題を展開しながら、個人主義の確立をうったえます。

東員町の福祉ふれあい体験祭とダンスの写真

きょう、東員町のウェブサイトに、福祉ふれあい体験祭が行われましたという記事が出ました。「見て!聞いて!ふれあって!福祉ふれあい体験祭」がタイトルのようにも見えますが、公式には「福祉ふれあい体験祭が行われました」のほうが正しい記事タイトルなのだと思います。

「この祭は、体験を通して、日ごろから災害時等の支えあいに備えようと東員町社会福祉協議会が主催して開いたもので、車椅子や高齢者疑似体験、AEDなどの体験コーナーやパネル展示コーナーが設けられ啓発を行っていました。」とあります。ですが、その東員町社会福祉協議会のウェブサイトのお知らせ、福祉ふれあい体験祭 ~25年度東員町災害ボランティアセンター啓発事業~を見ると、その社協も、筆頭ですが協賛の一員にすぎず、主催者ではなさそうに見えます。以前に中央慈善協会の改称の記事で触れたような歴史的背景をもつ社協は、あくまで民間団体で、町とそこの社協とは別なのですが、それでもこういうところでずれるのは奇妙です。町のサイトでは、文末がひとごとのような表現なのも、別団体とはいっても気になるところです。

記事の写真は、社協のお知らせでは「その他」にさえ名前のない出し物のものです。本文で段落をわけたことからは、同じ会場であった、無関係な発表会の可能性も考えられます。ですが、体験祭の記事に、無関係なイベントの写真だけを載せるのも奇妙です。あの会場でお昼前でしたら、体験祭の時間帯のはずなのです。一方、正面のよい位置からではないところには、小さなデジカメではあっても、立場とカメラとを持った人とは思えない謙虚さがうかがえて、私はよい印象を受けました。ここは、昔のカメラの地位からの低下とみると、議論がわかれそうなところです。そういえば、山陰中央新報のウェブサイトにきょう出た記事、進化するケータイ/スマホ依存に要注意は、島根県ひとすじの方が、今日の情報機器、電子機器への批判精神、嫌悪感のあふれる論考から、「「昔のいいもの」を再評価すること」を求めるものでした。

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