きょう、現代ビジネスに、「人生の最期は、家でひとりで」の時代がやってくる 『孤独死のリアル』著者・結城康博インタビューという記事が出ました。サイト運営者である講談社が出した、孤独死のリアル(結城康博著)の著者へのインタビュー記事です。
インタビュアー側が、年に3万人の孤独死という数を出して、それに「だから、実数のデータはまだなく、3万人というのは推計値です(ニッセイ基礎研究所の2011年3月の調査データをもとに推計)。」との回答がつきます。あくまで推計値なのはそのとおりなのですが、この書き方は適切ではないように思います。まず、その調査データとはおそらく、ニッセイ基礎研究所のセルフ・ネグレクトと孤立死に関する実態把握と地域支援のあり方に関する調査研究報告書のもののことだと考えられますので、ちょうど震災のタイミングにあたる「2011年3月の調査データ」ではありません。東京都監察医務院が出した東京都23区における孤独死の実態の2009年時点のものを用いた分析ですし、この研究所が収集してきたデータでもありません。報告書が2011年3月付となっていて、実際の公表は4月だったようですが、それを書いてしまったのでしょう。また、「調査データをもとに推計」とはあっても、ニッセイ基礎研究所がオリジナルで出したのはデータそのものではなく、そこからの推計値ですので、その推計からさらに著者が独自に推計したとは考えにくいと思います。研究所の推計値は、「孤立死の基準としてはやや厳しい(孤立死を過大評価する可能性がある)水準」を採用しての上位推計でも2万6千人台、中位推計ですと1万5千人台、「3万人というのは推計値」の約半分にすぎません。インパクトを考えて、大きく表現することを意識したのでしょうか。そういえば、他者の苦痛へのまなざし(S. ソンタグ著、みすず書房)には、広島では「数秒のうちに七万二千人の市民が灰となった」、南京では「四十万人近くの中国人を虐殺」とありました。
「いま「道に迷う」「金銭管理にミスが目立つ」などの日常自立度Ⅱ以上の認知症高齢者は300万人以上、65歳以上の10人に1人といいます。」とあります。これはおそらく、「認知症高齢者の日常生活自立度」のことだと思いますが、ここは私は前から気になっているところです。この日常生活自立度は、数が大きくなるほど自立度が低い方向につくってあるので、混乱をまねく概念です。「日常自立度Ⅱ以上」と書かれても、自立度が一定以上に高い方向ではなく、逆になるのです。数字が小さいほど重い、労災保険の障害等級や障害者手帳の等級とは逆ですが、要介護度の判定につながるものですので、要介護度と同じ向きにしたのでしょうか。名前を「日常生活非自立度」とでもあらためれば早いのですが、否定の意味の字が入るのはわかりにくいかもしれません。ビッグファイブのNを「情緒不安定性」とはせず、逆に読んで「情緒安定性」とした性格は五次元だった 性格心理学入門(村上宣寛・村上千恵子著、培風館)を思い出しました。
「その点で、本書でも、読売新聞やヤクルトなどの例を取り上げていますが、自治体が民間企業と組んで、配達先の独り暮らし高齢者を業務として見守ってもらう、というサービスを取り入れるのは有効です。」とあります。以前に高岡市と新聞販売店との協定の記事で紹介したものは、この「業務として」に入るでしょうか。
「孤独死対策には、公的サービスや職員を増やす、地域包括支援センターを充実させる、など「公助」を増やすべき」という主張を、皆さんはどう考えますでしょうか。当然の正論ととる人も、だからこそありきたりすぎて価値を感じないという人もいるでしょうし、よくも悪くも元公務員だという見方もあるかもしれません。その一方で、最後は「私の実感は、「孤独死しても2、3日以内に発見してもらえる人間関係と環境をつくっておこう」ということです。そう意識して生活していれば、ほんとうに困ったときには、誰かが助けてくれるようになるものなのです。」と、互助や個人の意識へと還元して締めます。このあたりに関連するところでは、この本より半年早く出た、孤独死のすすめ(新谷忠彦著、幻冬舎)の独特の主張があります。孤独死をここまで前向きにとらえるのは異例で、「元気な日本を復活させるためには国民が「おねだり」をやめること、すなわち、孤独死を覚悟することが唯一の道である、というのが私の基本的な考えです。」とします。そして、行政や他人はあてにならないと斬り、安倍「三本の矢」批判、大学教育の無料化、所得税の不公平性、フリーターの「アクティブ」「パッシブ」の2類型化など、さまざまな話題を展開しながら、個人主義の確立をうったえます。