きょう、佐賀新聞LIVEに、=結んで開いて 新聞と地域社会=(2) 情報弱者という記事が出ました。
「たそがれの時代」シリーズの記事、第2章(終) ながらえば[9]供養のかたち 肩の荷下ろし自ら選択で、寺院名も宗派も明かされずに紹介された永代供養のその後の取材から、高齢化問題を考える記事です。「掲載から半年が過ぎた今も、新聞の切り抜きを手に訪ねてくる人がいるという。」、これは伝聞のようにして責任から逃げながら、未来のことを書いたように見えるかもしれませんが、そうではないと思います。=読者と記者の交差点=たそがれの時代・私の視点を見ると、紙上での連載開始は、3月ではなく1月だそうですので、あの記事も、5月の掲載ではなさそうです。
「総務省の2013年の調査によると、パソコンでインターネットを利用している65歳以上の高齢者は5人に1人。残り4人は高度情報化社会の中で、「情報弱者」として取り残されていく可能性が高い。」、これは不適切です。まず、その総務省による通信利用動向調査は、抽出調査なので誤差やバイアスはあるとしても、わずか2割という結果には見えません。また、スマートフォンもフィーチャーフォンも、パソコン以上にかんたんにインターネットにつながりますので、パソコンではなくそちらで使っている高齢者もかなりいますし、可能性なら何とでも言えるとはいっても、スマホの人は取りのこされると判断するのは、無理があるでしょう。むしろ、若い人がパソコンを使わない時代がやってきています。INTERNET Watchに1週間前に出た記事、“若者のパソコン離れ”が急加速? 利用時間が1年で約3分の2に減少や、こちらはうたがう声も強いのですが、jiro6663というアカウントのツイート、あと衝撃のあまり何度かツイートしてますがメール機能。も、話題をよびました。週刊新潮 7月31日号(新潮社)で成毛眞は、「彼らはスマホに未来を感じているのではなく、スマホしか使えないのだ。」と指摘しています。ですが、画面が小さいと、老眼などのため、高齢者には使いにくいでしょう。タブレットの普及がのぞまれます。平成24年版 情報通信白書(総務省編、ぎょうせい)には、「現時点ではICTを利用していない高齢者は多いが、それは高齢者向けの機器・サービスが出ていないからであって、潜在需要はありうるのではないか。そして、タブレット端末は、使いやすさの点で、高齢者のICT利用を増加させる潜在的な可能性があるのではないか。」とあります。
太良町での、「65歳以上が人口の46・6%を占め、県内で最も高齢化が進んだこの町では、パソコンを扱えない高齢者に代わって、町の社会福祉協議会が地場スーパーのネット宅配の注文を行っている。」という取りくみが紹介されます。ネットスーパーの登場は、買い物弱者の解消におおいに貢献しましたが、情報弱者はそこに手が届かず、「時代から取り残されていく「弱者」」から抜けられない危険性があるとわかります。日経電子版に5か月前に出た記事、東芝、タブレットで高齢者支援 食事の出前注文ものような支援にも、同じことがいえます。せっかくつくったよいもので、あまり弱くない「弱者」はさらに弱くなくなる一方で、ほんとうの弱者は弱者のままという格差がつくられてしまうのです。
そのつくることに関して、先ほどのPC離れとも関連しますが、アゴラにおととい出た記事、「若者のパソコン離れ」が意味することが論じています。「パソコン、という「道具」は何かを「作る」ための装置なわけです。」、これに対して、「ネットを使って大衆に消費させるためのツールとして作られ、何かを「作る」ための機能をなくしたのが携帯電話やらスマホ」だとします。そして、若者がパソコンからはなれ、ただの「消費者」になることについて、「何かを「作る」可能性のある若い世代がスポイルされれば、新たに何かが生まれることが少なくなっていくのかもしれません。」と指摘します。BLOGOSにおととい出た記事、<ギターが売れないのは若者の貧困の象徴>ロックお金のかかる中流階級の趣味だった - 水留章は、mediagongらしいクオリティですが、その刺激によるところも含めて、コメント欄がにぎわっています。本質的には、サイゾー 2013年10月号(サイゾー)が、ヒップホップや「歌ってみた」との比較で指摘した、ロックの成熟、部活動化を考えるべきところでしょう。週刊ポスト 1月31日号(小学館)でビートたけしが言う、「成熟はブームの終わり」どころではなく、Hotel California(Eagles)ではありませんが、スピリッツはとうの昔に失われてしまったのです。ほかにも、興味深い論点はたくさんあるのですが、今日の若者が、情報機器によってつくる側からはなれたことに触れたコメントもあります。「誰もが演奏はできずとも、聞く側としてはプロ」、「国民1億人が評論家になりましたので、評論される方になりたい欲求はなくなった」といったものです。週刊新潮 9月25日号(新潮社)で成毛眞が、若者の車離れや映画離れに、みんな批評家ばかりになったことの影響を指摘したこととも関連しそうです。