生駒 忍

記事一覧

青年期平穏説と距離感が分からない親への助言

きょう、ヨミドクターに、実は話したい心…思春期 パパは傾聴・共感という記事が出ました。

「中学2年の娘がいる千葉県市川市の会社員男性(49)は3年前、娘が急に自分を遠ざけるようになって戸惑った。」そうです。そして、「反抗期が来るのかなど、思春期の娘がどう変化していくか不安だという。」とあります。もう、青年期平穏説も新しい考え方ではなくなっていますし、そのくらいで、もう反抗期は来たと理解してよいように、私は思います。世代からすると、積木くずし 親と子の二百日戦争(穂積隆信著、アートン)のようなイメージを持っているのでしょうか。同じころに出た孤立化する子どもたち(深谷昌志著、日本放送出版協会)でも、第二反抗期はゆるやかになり、そして消滅もと指摘されています。

アドバイスは、平易でわかりやすいものです。「子どもとの距離感がよく分からない人は、話しかけられたら聞く、というスタンスで」とあるのも、親切です。いろいろな対象者にあわせたアドバイスは、ひろがりがあってよいと思います。

ひろがりで思い出したのが、DreamNewsにきょう出た記事、認知心理学の広がりと深み「有斐閣 認知心理学ハンドブック」(iOS版)がiOS 8に対応!です。認知心理学がさらにひろく学ばれるようになるのなら、ありがたいことです。ですが、3か月前のミラーとスパーリングの論文の記事で指摘したところは、そのままのようですので、引きつづき気をつけてください。

安藤美姫の「第三の男」と救われたモロゾフ

きょう、Business Journalに、安藤美姫、未婚出産の父親として、フィギュア界で囁かれる“第3の”日本人?という記事が出ました。

「“第3の”日本人」といっても、どちらが1でどちらが2かは知りませんが、モロゾフは日本人ではありません。不必要に日本人とは書かずに、ふつうはこういう場合、「男」くらいにしそうなものですが、それでは他人を替え玉で死なせて身をかくした闇の売人のようで、重すぎると考えたのでしょうか。あるいは、命果てるまで(ユニコーン)を連想する人は、やや遠いですのであまりいないとは思いますが、ショーとラブホテルという重ねあわせも、安藤のこの話題には、何だかえげつない気がします。

正直なところ、内容はさほど新しいことでもないように、私は感じました。「スポーツイベント会社社長のA氏(仮名)」のことは、「A氏といえば、モロゾフや南里とともに「父親ではないか」とかつてから一部で報じられてきた人物だ。」とあるように、テレビではいまも言えないようですが、あちこちでもう知られているとおりです。もちろん、モロゾフも南里も父親でない可能性は、Business Journalに1年4か月前に出た記事、安藤美姫出産告白、父親はモロゾフ?南里?公表されないワケ…モロゾフ中絶依頼説もにもすでに書いています。J-CASTの記事、錯乱? あの東スポに“マジレス”の安藤美姫、いったい何が起こったのかにあるように、安藤側がそこだけ否定に走った迷走も、ずいぶん前のことのような気がします。新しいのは、「最近見た人によると、娘さんの顔がはっきりと日本人の顔つきだった」、「「顔つきが日本人」という情報は関係者の間に広まり」といったところです。これでモロゾフのほうは、何度否定してもうたがわれ続けた大迷惑から抜けられそうです。大迷惑(ユニコーン)では、「誰が僕を救ってくれるの」と歌われましたが、ひどい迷惑から救いだしたのもまた、うたがいを呼んだ子どもだったのでした。

「10月には自身初の写真集となる『My Way 安藤美姫写真集』(集英社)が発売され、安藤の貴重なプライベートショットも収められているという。」という書き方ですが、もう11月ですし、発売からもう1か月以上が過ぎています。おとといに放送されたテレビ番組の話題も登場しますので、掲載までに日にちを要した原稿とも思えません。そこには興味がありませんという意思表示でしょうか。

そのテレビ番組で、安藤は、「娘にもフィギュア選手になってほしいという気持ちを語った」そうです。もちろん、日刊ゲンダイのウェブサイトに1か月前に出た記事、桑田真澄ジュニアがプロ志望届 スカウトが一笑に付した実力のようになっては、両親が悲しみますので、「安藤自身が実現できなかった五輪金メダル獲得という夢」が期待されるでしょうし、そのため力がつき果ててしまうかもしれません。あるいは、「娘が果たす日」は、「果てる」の他動詞としての「果たす」ほうになるかもと、心配なところがあります。大沢樹生・喜多嶋舞の長男のようになって、父親のことを洗いざらい話したら、タレント活動で食べている安藤は、大迷惑どころではなくなるでしょう。

通勤電車での恋と「ひるまえ川柳」での色対比

きょう、Glittyに、通勤電車の恋は必然だった!? 相手の心を引きつけるアメと「ムシ」のモテ法則という記事が出ました。

「通勤電車の恋がはじまる理由」を、「これはいつも見かけている人なのにときどき姿が見えない日があることで、「今日はどうしたんだろう?」「あの人の顔を見たかったな...」と気になってだんだん好きになってしまう、という心の作用が働いているから」だとします。そして、「通勤電車のトキメキは、心理学の用語で「間欠強化」というものにあてはまります。」としますが、あてはまらないと思います。通勤時に、気になる人がいたりいなかったりするうちに、電車に乗ることがやめられなくなってしまうのであれば、そこは部分強化、間欠強化だといえますが、強化子自体が強化を受けるのではありません。

むしろ、部分強化は、全強化よりも学習効率は悪いです。部分強化の強みは、学習されると、その後に強化子が得られない状態が続いても、なかなか消去されないところにあります。ギャンブルで、あたる快感のとりこになって、負けつづけても抜けられなくなり、あちこちからの借金、会社のお金の横領、保護費とつぎ込み続ける人生にはまるのは、これです。勝つように、負けないようにねらうことが後まわしになって、つぎ込むこと自体にはまる危険もあります。月刊FX攻略.com 2013年12月号(シンセイ)で、為替鬼という人が、「自分で決めた売買ルールを守れず、チャンスを待てずに、エントリーしてしまう、いわゆる「ポジポジ病」」として紹介したものがそうです。

「このアメとムシ法則を使えば、好きな人とのハートもゲットできそう。」とあります。あとのほうの「と」はよけいで、つい、混迷している大阪都構想を連想してしまいました。「好きな人や彼から気になる存在になれるかも」ともありますし、この筆者に「女子」ということばを使ってよいどうかはともかくとしても、助詞の使い方が気になる文章です。

気で思い出したのが、きょうのお昼はじょんのび くらし情報便の「ひるまえ川柳」です。あの句に対して、赤と青との対比が評価されていましたが、私は「気」まで含めて、赤・青・黄の3色の組みあわせではないかと思い、気になりました。皆さんは、どのようにとりましたでしょうか。

いじめ被害者の居場所感のなさと友だち親子

きょう、JIJICOに、いじめ20万件時代を生き抜く子どもの心理という記事が出ました。

文科省のいじめ対策Q&Aを取りあげ、「この中で、「いじめはなぜ起こるのか」との問いに対し「不満やストレスのはけ口として起こりがちです」との回答が見つけられます。しかし、私は「いじめをする側」が幸せではない環境にあり、自己肯定感が低いからだと考えています。」とあります。自己肯定感との関連も、もちろん理解できるのですが、「しかし」として、文科省の指摘を否定するような書き方なのは、なぜでしょうか。いじめ加害者にきびしく対応すると、「根本の不満、ストレスは解消していないので、またどこかで別の形でいじめが起きる可能性が」とし、自分の提案について、「家庭、学校、会社などで実践されれば 不満やストレスが減り、日本からいじめを減らすことにつながる」と主張するのでしたら、ストレス原因説にはむしろ、肯定的であってよいはずです。うらみやねじれた気持ちがあって、お上には逆らいたいのでしょうか。そういえば、毎日新聞のウェブサイトにきょう出た記事、PC遠隔操作:被告「権力に漠然とした怒りあった」と動機によれば、大手エンタテイメント企業の業務妨害や児童殺害予告などの前科で実刑を受けているあの犯人は、「権力に漠然とした怒りがあった。警察を右往左往させることで恨みを晴らした」と主張しているそうです。

「また、私もトラウマ治療を行う中、「いじめられた体験」を「過去のものにしたい記憶」として挙げる人は少なからず存在します。」、ねじれた文ですが、言いたいことの見当はつきます。トラウマ的な記憶が、いつまでも「現在の作用」であり続ける現象については、認知心理学の新展開 言語と記憶(川崎惠里子編、ナカニシヤ出版)で、記憶のソースモニタリングと関連づけて触れました。

「いじめに関わる子どもはどこにも居場所がないと感じている」として、加害者、被害者の両方に、居場所のなさがあるとします。加害者側にもこのような論を向けることは、あまり多くはありません。被害者側については、たくさんあります。今いじめられている君へ カウンセラー50人からの手紙(松原達哉編、教育開発研究所)にも、居場所への言及があちこちにあります。なお、その中で、タイトルにまで含まれているのは、「心の居場所をつくろう」の2ページのみですが、その内容は、フォーカシングの技法を子ども向けに説明したもので、ややイメージが異なります。

いじめ予防には、「民主主義の理念「ひとりひとりが人としては対等の価値がある」を意識し、それを態度、行動に移すのです。具体的には、子どもに「大切な友人」に対応するように接します。」、これはユニークです。それが正しいとしても、一般には、いわゆる友だち親子の心理的問題を考えると、不安なところがあります。また、思春期の親子関係を取り戻す 子どもの心を引き寄せる「愛着脳」(G. ニューフェルド・G. マテ著、福村出版)は、親子の愛着と仲間指向性を論じる中で、第10章でいじめを取りあげています。

産地のラベルにこだわるB層と植木等の明るさ

きょう、産経ニュースに、「ミシュラン」外され…「虚偽表示1年」で“バカ正直”目指した業界は信頼取り戻せたかという記事が出ました。

「「消費者が『ブランド名』や『高級だけど安いもの』に食いつく限り、いたちごっこ」と指摘する専門家もいる。」、同感です。さらに言えば、食いついた上に、だまされたことに気づけないレベルの人がたくさんいることが、本質的な問題です。偽装表示で一度はお店に誘導できても、二度と来ない、ほかの人にもすすめないのであれば、続けにくいでしょう。週刊新潮 11月6日号(新潮社)で適菜収が、「自分の舌に自信がないB層は、「産地」に異常にこだわります。」と書いたように、産地によるおいしさのちがいがわかる舌を持っていない人は、産地を気にする意味がないのに、自分はおいしいものを食べたのだということにしたいために、産地のラベルをほしがるのであれば、お店はお客のほしいもの、ラベルそのものを提供したくなるのもわかります。もちろん、ラベルの影響は、食に限らず、さまざまな感性評価に起こることですし、ばれない限りはおいしいと感じていられるのだから、本人もお店もしあわせでいられるように、ばらさないでおこうという考え方もあるでしょう。サンタクロースはいると子どもが信じていることで親子とも手にできるしあわせが、不用意に触れたメディアにこわされてしまったという、よくあるお話に近いでしょうか。ですが、サンタクロースの存在とは異なり、食の偽装表示は、本質的に不正なのです。

業界関係者が、「「消費者も安易に『安くて高級なもの』や、不必要なほどの華美なメニューに惑わされないように気をつけてほしい」と呼びかけている。」ともあります。偽装はいけないと言うのは簡単ですが、消費者がかしこくなることが、偽装をなくす力になるのです。安さには、本来は相当な犠牲をともなうことを知るべきでしょう。同じく産経ニュースにきょう出た記事、ネットで牛丼の作り方を聞く!? 「ワンオペ」の本当の恐ろしさの、クレイジーな世界を見てください。それにくらべれば、「コストを抑えるために表記と違う安い食材を使用しているのを調理場のほぼ全員が知っていたにもかかわらず、「問題だとは思わなかった」という認識不足もはびこっていた。」と、だましとして良心をいためることさえなく、労働者の犠牲なしに安く見せるやり方で、お客が満足してしまうのであれば、やはり誰も損せず、おたがいにしあわせで問題なしでしょうか。そういえば、結成50周年 クレイジーキャッツ コンプリートシングルス HARAHORO盤では2枚目の18曲目、「笑って笑って幸せに」で、谷啓は「あなたがいるから僕がある」と、1枚目の17曲目では、79年版ですが、植木等が「分かっちゃいるけどやめらえねぇ」と歌うのでした。

その植木を尊敬している人物が、植木に続きました。きょう発令された平成26年秋の褒章で、歌手の桑田佳祐が、紫綬褒章を受章しました。受章にあたってのコメントには、「大衆芸能を導いて来られた数多の偉大なる先達たち」への感謝があり、21年前に受章した植木も、そこに含めたことは明らかです。植木は、いわゆるクレイジー映画での役柄から、根っこから明るく調子のよいイメージで見られがちですが、ただの歌詩じゃねえかこんなもん(桑田佳祐著、新潮社)は、「あの笑顔には深みがある。」としました。東宝 昭和の爆笑喜劇DVDマガジン 創刊号(講談社)には、加藤茶が「加藤、ぼくの明るさはつくっているんだよ」と明かされたお話がありましたが、皆さんには、あの笑顔はどう見えていますでしょうか。