生駒 忍

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テレビの予定調和と放送事故を期待させる紅白

きょう、BLOGOSに、V6井ノ原さんのセクハラに対する発言がネットで反響を呼んだ2つの理由 - カツセマサヒコという記事が出ました。NHK総合テレビで15日に放送された「朝イチ」での発言に対する、ネット上の反応に関する考察です。

「同番組の調査によると、「セクハラ被害は40代~60代の女性が一番受けている」ということが明らかになり、その理由として「歳を重ねた人はセクハラされても騒がないだろう」という加害者の心理があるのではないかという仮説が立てられた。」とのことです。加害者は、相手の年齢や、それと共変する婚姻関係の有無などには関係なく、女性ならあとは誰でもよいのだという前提をおけば、この仮説をあつかえそうですが、どうでしょうか。なお、その逆に、加害者側の年齢が判断にかかわることも、あるかもしれません。週刊ポスト 10月24日号(小学館)は、有名な安城学園高等学校吹奏楽部のセクハラ騒動に関して、「おじいさんは許される」という主張があったことを明かしました。
  
「テレビ番組特有の「予定調和」に疑問を抱く人たちも」、これは特有なのでしょうか。ほかにはない特有のところが、ここで具体的には示されませんでした。おとといの記事で取りあげたような、ストーリーをととのえようとする傾向は、マスメディアによく見られますが、新聞やラジオなどのほかのメディアのやり方にはない、テレビ番組だけがもつ予定調和、どのようなものでしょうか。

「「いじられても大丈夫なキャラクターだから、許されるだろう」と高をくくるのは間違いであり、無自覚のうちに親しい人との関係が「加害者・被害者」に変わっているケースもありえる。」、「大丈夫」の定義によっては、おかしなことになります。被害を生じることはないという意味であれば、ゆるすかどうか以前に、被害は論理的に否定されます。もちろん、そういうキャラクターではないのに、そういうキャラクターだとその人が思っているだけなのでしたら、被害が生じる可能性は高まることでしょう。

「井ノ原さんの発言により、決められた台本に沿って進行されるのがデフォルトとされるテレビ番組に番狂わせが起き、その結果、奇しくも番組が最も伝えたかったであろう「黙認されたセクハラに気付かせること」を番組自らが反面教師となって実演することになってしまった」、ここは指摘されたとおり、いかにもネット好きの人々が好みそうな要素だと思います。発信者側の材料で発信者にダメージが生じる展開は、前世紀末のアングラ系掲示板で流行した「お前もな」あたりからすでに、ネットの世界で好まれるパターンです。その後に、ブーメランという表現が、あざ笑う意味あいをこめて、広く使われるようになりました。また、「放送事故」も、ネットの世界で、人気があるようです。かなり拡大解釈されて、テレビなら予定調和であるべきという前提をおいて、その美しい調和のストーリーにあわない事象を見かけると、放送事故レベルなどと評するところも、見かけるようになりました。

むしろ、テレビのほうから、事故を期待させて注目を集める「ブーメラン」も、投げられるようになってきました。目先の注目にはこだわらないNHKであっても、例外的に視聴率が強く問われる紅白歌合戦には、ここ数年、そういうしかけ方を感じます。リハーサル中の事故を出して、早着がえで失敗した、バックバンドがミスをして歌手ともめたなどと流すのもそうでしょう。また、笑福亭鶴瓶には、開始早々に「ポロリ」の提示をともなわせましたし、ゴールデンボンバーの初出場時の会見では、脈絡のない品のない発言で、ハプニングを連想させました。ゴールデンボンバーだけでなく、泉谷しげる、桑田佳祐、ひさびさの長渕剛といった、何かやってしまうのではという期待を刺激しやすいアーティストが、各回の目玉として前面に出されがちですし、今年の紅組司会に決まった吉高由里子にも、そういう意味あいを感じます。週刊ポスト 10月31日号(小学館)は、表紙は仲間由紀恵なのですが、NHK関係者による、「過去4回、紅白で司会の経験がある仲間さんに比べ、吉高さんは『今年の顔』であるのは間違いないが、生放送で何をするかわからない」という発言を載せました。もしかすると、昨年の紅白への、特にネット上での反応を独占した綾瀬はるかも、実はねらいどおりで、予想をはるかに上まわる予定調和だったのかもしれません。

音楽中心音楽療法と傾聴技法としての感情反映

きょう、マイナビウーマンに、心に傷を持っている人に対して行う、適切な対応は?「人間中心療法」という記事が出ました。

「人間中心療法」という表現は、あまり使われないもので、より一般には、パーソン・センタード・アプローチ、PCAと呼ばれます。「療法」では、病気の治療というイメージが出やすいですし、「人間中心」も、背景を知らないと、心理療法ならあたりまえのことを、わざわざ名前にするのは無意味だと感じる人が出そうです。これに似た名前として、音楽療法の世界には、「音楽中心音楽療法」という考え方が現れていて、音楽療法なのだから音楽が中心であたりまえではないかと思った人も、本来は音楽ではなく、療法である以上は人間が中心になるべきと思った人も、それぞれいると思います。ですが、21世紀の音楽入門 7(教育芸術社)で小沼純一が、「昨今、環境についての考えも広く浸透してきており、人文科学のみならず、「人間中心主義」を批判する立場もさまざまにでてきましたが、芸術、アートにおいて、そうした発想はまだでてきていないようです。」と指摘したのと同様に、音楽療法で、積極的に人間を中心からはずすという立場も、考えにくいでしょう。皆さんは、音楽療法の中心、主人はどちらだと思いますでしょうか。もちろん、音楽中心音楽療法は、そんな単純なところで終始するお話ではありません。音楽中心音楽療法(K. エイゲン著、音楽の友社)を読みましょう。

「そのままではさらに孤立し、対人恐怖を抱えてしまう可能性もある」、一般にはこの逆、対人恐怖から孤立、孤独へという因果関係のほうが、より自然でしょう。うつ病とアルコール依存の関係の記事で触れたような悪循環も、もしあったとしても、そこまでは強くないと思います。

「アメリカ合衆国の臨床心理学者カール・ロジャーズは「非指示的療法」という心理療法を使っていました。」、あまり書かれないような表現がいろいろと入っていますが、「ロジャース」ではなくロジャーズと書いたのは、よいと思います。ちなみに、「ロージァズ」は、今日では一般的ではないでしょう。

その技法は、「繰り返しや感情の反射などを使ったカウンセラー技術であり、相手の悩みを軽減する方法」とされ、これはいろいろと、落ちつきません。「感情の反射」は、まちがいではありませんが、基礎心理学での反射との弁別を意識して、私なら反映と書きたいところです。ロジャーズ派に限局された立場ではないのですが、カウンセリングテクニック入門(大谷彰著、二瓶社)では、傾聴技法の2番目に、「感情反映」があります。「相手の感情を反射する」「相手が言葉にできない感情を言葉にして返してあげる」の区別として、反射と反映とで呼びわけたいという発想もあると思いますが、後者は「できない」ところをあつかう点で、感情反映とは区別され、カウンセリングテクニック入門での「クライアント自身が気づいていない気持ちや考え、触れたくない事柄に対して、いわばメスを入れる技術」、「クライアントの気づいていない感情や思考・行動・言動の矛盾に焦点を当てる技法」、つまり活動技法に近いでしょう。

「無条件の肯定的関心」「共感的理解」「自己一致」、基本的な概念ですし、「普段私たちが日常的に取り入れていくことも可能」と呼びかけるのならなおさら、かんたんにでもよいので、ぜひ説明してほしかったところです。「人がそこにいること」という、第一条件にも届かないものへの、文字どおりの理解はあるようですが、3要件はむずかしかったのでしょうか。

朝日新聞お泊まりデイ報道の問題と味覚地図説

きょう、J-CASTに、「ストーリーが予め出来ている」取材にどう対応するか 大手新聞の事例からという記事が出ました。

「メディアが取材前から色メガネで取材対象をとらえる。あるいは、ストーリーが予め出来上がっていて、そこにはめ込むので事実が伝わらない。」ことの、実例と対策とを取りあげています。キダ・タローの佐村河内批判の記事で取りあげた、「芸人の弟子」「足に障害」「日本一周」の美談のように、そもそも事実でないことが伝えられることさえあります。吉田清治「強制連行」証言問題もそうでしょう。あるいは、中田英寿の「君が代」発言も、後に中田英寿 鼓動(小松成美著、幻冬舎)で明かされたように、「記者との雑談のようなやりとりの中で」の「心にある真意とは別な言葉」を、「記事には書かないでください」とくぎを刺したにもかかわらず、インタビューでの回答のように書かれたものでした。中田は記事にされたのを読んで、「朝日新聞の記者が、「君が代」や日本人観について、何らかの物議を醸し出すために」行ったと思ったそうで、地獄ランキングの記事でも触れた表現があることはともかくとしても、気づいたときにはもう、取りかえしがつかなくなっていたのでした。

ここで主な話題にされた記事も、朝日新聞のものです。一応、直接には名前を出さないようにしてはありますが、連載タイトル名で、明かしているようなものです。「このタイトルだけを見ても、筆者は偏向の印象を受ける。」と書きたかったために、ここはかくせなかったのでしょうか。そのうち、問題視した「民間企業トップのインタビューが掲載」されたのは、反響編 お泊まりデイ「もうけ優先」「欠かせぬ救世主」です。私は、「措置控え」の説明についても、これが「措置」の定義と思われては困りますし、養護老人ホームなら全額を市町村が持ち、利用者負担は発生しないように誤解しそうな書き方なのも、不適切だと思います。「横浜市の女性(46)」の反論を取材して、公平性をうかがわせながらも、「お泊まりデイ事業所の8割はきちんと世話をしているとみる。」と、根拠不明の数字が登場して、2割も悪いところがありそうに見えるのも、気になりました。この人を探しだして確認することができないように、意図的に匿名にしたのではないとは思いますが、きちんとした世話をしている事業所は何割でしょうか、と質問して、8割と返ってきたのではなさそうな気もします。

「インターネット上に情報が散乱している現在、新聞は情緒的に流されるのではなく、物事の裏に潜む真実と、どうしたら良くなるかの処方箋を取材によって明らかにしてほしい。」、これは正論でしょう。ですが、いつの時代の意味かはともかくとしても、「確信犯」として、仮説にそったストーリー、読者の期待にそう読みやすいストーリーで、「物事の裏に潜む真実」を伝えているのだという見方もできるでしょう。働かないアリに意義がある(長谷川英祐著、メディアファクトリー)の終章にあるような、科学者、研究者の考え方とは、根本が別なのだからと、割りきったほうがよいのかもしれません。

もちろん、新聞を含め、マスメディアが科学の知見に関心をもち、取りあげていることは知っていますし、ありがたいことです。ですが、ストーリー優先は、あちらの文化として、さけきれないもののようです。きのう書いた記事で取りあげたもので、動画中では言っていないことが、かっこ書きで発言したかのように書かれたものも、そこに関連するように思います。また、NHK NEWSWEBにきょう出た記事、子どもの味覚に“異変”が、その詳報のようなかたちで出ましたが、最後に登場する「どう育てる子どもの味覚」には、「どうしたら良くなるかの処方箋」のつもりなのだとは思いますが、困惑しました。臨川小学校での実践の写真に、いわゆる味覚地図が登場しているのです。それぞれの閾値が舌の場所にかかわらず均一であるわけではありませんが、このような味覚地図説は、本質的には否定されています。画面には「味覚育てる」とあるのに、むしろ疑似科学を育ててしまうようで、とても残念です。

味覚に問題のある子どもの食と橋下・桜井会談

きょう、NHK NEWSWEBに、30%余の子ども 味覚認識できずという記事が出ました。

「「甘み」や「苦み」など基本となる4つの味覚を認識できるかどうか調査」したとのことで、5原味説の立場でないのは、日本人のノーベル物理学賞が話題になったところだけに、日本人としてやや残念に思いました。ですが、動画では、選択肢には「うまい(うまみ)」も入っていたように見えます。実際にはあてはまるもののないフィラーとして、選択肢に入れただけだったのでしょうか。あるいは、これも本来の研究対象には入っていて、ところがおそらく、単においしく感じたもの、好きなものの味だったときに「うまい」につけてしまうなどの混乱があって、検討対象から事後的に落としたような気もします。

文中には、植野正之・東京医科歯科大学准教授が、「子どものたちの味覚を育てることが必要だ」と言ったように書かれていますが、動画で見ると、確認できません。カットされたところで発言したのかもしれませんが、映像の書きおこしにはなっていないことには、注意が必要です。そういえば、BLOGOSにきょう出た記事、橋下市長と在特会桜井会長が会談は、あの短さですが、一部で微妙に発言内容が変わって書かれていたりもするようで、念のため動画で実際のやり取りを見ておくのが安心ではあると思います。それでも、少し見るだけでとてもつかれる応酬で、両者が立ちあがって一触即発となったところまで見れば、あとは感覚的にはもう、遠慮したいところです。つい、中國新聞アルファにきょう出た記事、いじめ問題 手を出す子にどう対応にある、「広島県教委は、けんかの際に言葉で反論できず、つい手が出てしまうケースが多いようだという。」を思い出してしまいました。

さて、「味覚を認識できなかった子どもはジュースを毎日飲んでいたり、野菜の摂取が少なかったりしたほか、ファストフードなどの加工食品を好む傾向も見られた」とのことです。そういった食べものを好むのであれば、甘味や塩味の感覚が消失していることはなく、閾値が弱っているのだろうと思います。自然な味わいのものになじむことは、昔から変わらない、ゆたかな伝統の味の世界を失わないためにも、小さいうちから意識すべきところでしょう。ですが、いまの大人が、どれほど自然な味になじんで育ったかというと、どうでしょうか。うまい棒は、なぜうまいのか? 国民的ロングセラーの秘密(チームうまい棒著、日本実業出版社)には、「駄菓子バーで大人が盛り上がるのは、「駄菓子」が変わらないおかげだったな。」とあります。

親が中学生に飲酒させる文化と片岡愛之助

きょう、丹波新聞のウェブサイトに、飲酒頻度高い傾向 未成年の飲酒も容認 丹波地域という記事が出ました。

「成人は、 篠山市は6自治会の286件、 丹波市は特定健診などの受診者から896件の回答を集めた。」 というデータで、丹波地域での割合を論じるのは、やや不安なところがあります。抽出方法はしかたがないとしても、両市は人口比で2:3程度ですので、今回の人数比で合算して比率を出せば、丹波市のほうの特性に強く引っぱられてしまいます。

「成人を対象に飲酒頻度を尋ねた項目では、 「週5日以上」 と答えた人の割合が30・5%で、 全国の24・2%より高かった。」、この比率がグラフから直接には読みとれないので、少し困惑しました。上のグラフの「習慣的に飲んでいる」40.9%に、下の「週5~6日」24.6%と「毎日」50.0%とを足した74.6%をかけることで、同じ値が得られます。

そのグラフですが、円グラフでもまちがいではないのですが、帯グラフにできると、よりよかったように思います。「習慣的に飲んでいる人のうち」という取りだし方を、その部分を広げて次の帯グラフとしたような表現にすると、対応がわかりやすくなるでしょう。レイアウトのつごうでこうなったのでしょうか。

中学生の調査では、未成年飲酒の蔓延が明らかになり、「きっかけは 「家族が飲んでいる、 またはすすめられた」 が32・4%で最も多く、 入手方法も 「家にあった」 「親から」 が8割以上を占めた。」とあります。アサヒ芸能 7月10日号(徳間書店)には、「酒類の宣伝広告をテレビなどで流す国は日本くらいです。」とありますし、わが国ではしばしば、マスメディアの影響が言われますが、家の中からというのでは、「重点的に住民に啓発していく」としか言えないでしょう。あるいは、丹波杜氏を出した土地ですので、そういう文化として、大目に見るべきでしょうか。永六輔の尺貫法復権運動や、蘇民祭の全裸問題のように、伝統文化と法規制とのかかわりとなると、むずかしいところとなります。

「丹波地域は、 自殺率が全県より高いというデータがあり、 自殺既遂者の約2割にアルコール問題があるため、 自殺予防にもアルコール問題対策が重要という。」、論理のつなぎ方はともかくとしても、前段の自殺率について、少し調べてみました。丹波の健康と福祉2014にある最新の数値は、平成24年のデータで死因の2.3%が自殺というものです。では、県全体ではどうでしょうか。兵庫県の平成24年保健統計年報では、平成24年は死亡総数53657人に対して、自殺は1035人、1.9%となります。つまり、高いことは事実です。ですが、全国ではというと、平成24年(2012)人口動態統計(確定数)の概況によれば、2.1%ですので、むしろ兵庫県がやや低いようです。また、先ほどの丹波の健康と福祉2014では、平成24年の自殺者33人は、そこにある年では最多で、全国的にはもっと自殺率の高かった平成22年には、丹波では死因の10位以内に入っていないなど、標本が小さいことによるゆれがあるようです。ですので、自殺対策、アルコール問題対策はもちろん重要なのですが、重大な数値ではないかもしれません。

「毎日の飲酒は肝臓に負担がかかることから、 同事務所は 「週に2回程度は休肝日をつくって」 と注意を促す。」、これは丹波地区に関係なく、気をつけたほうがよいところです。からだが欲するところにしたがうのが、からだに最良の選択だという考え方もあるとは思いますし、Tarzan 8月28日号(マガジンハウス)の片岡愛之助のように、あまのじゃくな食べ方を決めてバランスをとるのもやり過ぎに思えますが、嗜好品には注意が必要なのです。