生駒 忍

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血のイメージと情報発信をあまりしない看護師

きょう、ハフィントンポスト日本版に、未来の看護師を潰さないで!乖離する看護師のイメージと現実という記事が出ました。転載元のMRIC by 医療ガバナンス学会を見ていなかったので、私はこちらで初めて読みました。

若さと意欲とがにじみ出る文章に、看護師の卵の教育にかかわっている私は、元気をもらえた気持ちになりました。ですが、気になったのは、ねらいがとらえにくいところです。「縁あって様々な業種の方と話す機会があったが、自分が看護学部の学生であると名乗ると、看護師のイメージで話をされることが多々あった。」とあるので、看護師のイメージをまだ看護師ではない学生に向けてほしくないのかと思いましたが、そうではありません。「看護師のイメージと実際に自分が学び目指している看護師像に大きなギャップが存在していることに危機感を感じ」というので、イメージと現実ではなく、イメージどうしの対比で、当為自己と理想自己との不一致にやや似た、外から向けられたイメージと自分が目指すイメージとのずれを論じたいのかとも思いましたが、それも違うようです。筆者は、職業としても資格の保有でも看護師とはいえませんので、外の人と中の人との対比でもなく、外の人どうしで、より中に近いかどうかでのずれのお話になっていきます。そして、最後の段落では、「大学で4年間学んだ今の私にこそ、高校の先生や予備校の先生に看護師とは如何なるものか伝えることができるのだと考えている。」とされます。

自分よりも外にいる人がもつイメージが列挙されていきますが、「医療ドラマで良く出てくる「注射」や「血」のイメージ」、ドラマにも出てくることはそのとおりではあっても、特に血については、現実に比べればむしろ、ずっと少ないはずです。もちろん、眼科や耳鼻科のように、眼底出血や鼻血は見かけるにしても、ほとんど血を見ずにすごせる診療科もありますが、医療ドラマの王道である救急ものでは、スポンサーのつごうで交通事故があつかいにくいという説はともかくとしても、どんどん血が出ていくはずの医療場面を、それを映さずに表現しがちであるように思います。

「ひとつ体験談をご紹介したい。」から続くお話が、たくさんのエピソードの羅列なのですが、直接、間接にかかわらず、自分ひとりの体験として、ひとつと数えたのでしょうか。一番問題性が明確な「どうせお前ら医者と結婚したいんだろ。」が、一番不確かなエピソードなのも気になります。そして、もう一歩踏みこんでほしかったのは、「よくわからない同情と声援」、「妙な尊敬や応援」のところです。その違和感には違和感はありませんが、どの人も悪意はないと思われますので、こういうときにはどう考えて、どう言ってほしいのかを具体的に示してもらえると、今後の人のためになったと思います。こう求めると、ふつうに接してほしいだけ、と返ってきそうな気がしますが、一般の人の「ふつう」に、おそらく看護師は入っていません。少なくとも、人生の先輩に「きっと直接看護師と関わったことがないからそういうことを言うのだろう。」と言う筆者は、「ふつう」の人々と看護師との距離は理解できるものと思います。ふつうでないことに関する、悪意のない「ふつう」の反応が、あれなのです。

むしろ、体験談ひとつということでは、「老年の実習で認知症の患者さんを受け持たせて頂いた時のこと」のほうが、しっかりと紹介されています。本質的ではないのですが、気になったのは、「回想法という心理療法を用いて世界地図を紙に印刷したものを病棟のベッドサイドで彼に見せ」というところです。氷見市立博物館の回想法の記事で触れたような定義でも、「貿易会社に勤められ世界を行き来していた」その患者には世界地図が民具、生活用具であると考えれば、これは回想法と呼べそうなのですが、世界地図はわざわざことわらなくても、「紙に印刷したもの」ではないでしょうか。古くはマッパ・ムンディなど、紙ではない地図もつくられてきましたが、もう例外的だと思います。それとも、デジタルネイティブの世界では、地図は物質的存在ではなく、本質はデータなのでしょうか。

「看護学部で学んだ後も、将来の選択肢は多様である。」として、国家試験に受からずやむなくという可能性は別にしても、看護師そのもののお仕事以外の方向性も広いことがアピールされました。そこに、第11回子ども学会議のシンポジウムの、質疑で聞いたお話を思い出しました。ある地方大学の、福祉系学部の教員が、自身の職場の感覚に違和感を表明していたのですが、それは学生の就職に関して、公務員の福祉職や福祉団体に入るのがよいこととされて、一般企業で福祉マインドを生かしたいというようなはたらき方は、その下のように考えられているということです。高い知識や理解を持ったのだから、王道で世の中に還元する生き方をしなさいということなのでしょうか。ふと、やきもの検定の不適切出題の記事でも触れた鈴木秀明という資格マニアのツイート、しかしあれですよね、「東大卒の立派な頭脳をもっと世のために活かせよ」みたいなこという人を思い出しました。

「現在、多くの健康情報がインターネット上に溢れている。それらの多くに、看護学部で学ぶ内容も含まれてはいるにも関わらず、看護師が発信したと分かるものは少ない。」、この指摘は興味深いと思います。医師には、うつ病とアルコール依存の記事で取りあげた記事での監修のような場合も含めて、さまざまなかたちでの発信がみとめられますが、看護師は、意外に見かけません。パラメディカルからコメディカルへと呼称が変わっても、医師との社会的信用の差は大きいのでしょうか。それとも、そんな活動にはとても手が回らないという、筆者が否定したがっている激務の傍証なのでしょうか。人数を見れば、医師よりも看護師のほうが、はるかに多いのです。

その人数のことが、コメントに登場します。「看護師は、200万人もいるメジャーな職業なので、まだましな方です。」とありますが、これは適切ではありません。平成25年 看護関係統計資料集(日本看護協会出版会)にある最新の数値は、看護師の就業者数は2012年末で107万人弱、ちなみに准看護師は38万人弱です。「メジャーな職業」かどうかは、先ほどの「ふつう」の議論とも関連し、むずかしいところですが、200万人は明らかに誇張、あるいはもう、うそだといってもよいくらいです。誰がこんなうそをと思い、名前を見ると、見おぼえがあります。取りやすい資格の記事で、准看が「最低でも年収400万円くらい」という、この人の事実でない発言を取りあげていました。数字が苦手な方なのでしょうか。今回の記事でも、「大学生活での経験の多くは、自分自身の人生についても考える機会にもなり、有意義」という「個人の感想」だけでなく、2段落目でエビデンスを並べて示したことまで、エビデンスなしに価値が落ちて見えるようなコメントをつけました。どんなに効果のエビデンスが積みあがっても、どこまでいってもただの「量」で、必要かどうかという「質」の立証にはならないという論理なのでしょうか。気になるところはあっても、よい視点の記事だっただけに、このコメントはよけいに残念です。はてな匿名ダイアリーの記事、大衆や世間がどんどん馬鹿に思え嫌いになってくを思い出しました。