生駒 忍

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インコが回る行動の理由と安井順平の表現

きょう、Pouchに、【なぜなのか】コーヒーをかき混ぜるとマグカップの周りを “ぐるぐる” まわっちゃうオカメインコという記事が出ました。「オカメインコのオージーくん の動画」の紹介です。

「音に反応する説」と「餌と関連している説」との2説が示されます。ごく大まかにみれば、前者は生得、後者は学習という理解でしょうか。生得かどうかは、先天性の個体差を含めるとややこしいのですが、学習の面はあるでしょう。心理学の授業では、ハトの実験しか紹介されないかもしれませんが、迷信的行動です。「飼い主さんは朝起きると自分のインスタントコーヒーを作ってから、オージーくんに餌をあげていた。」という仮定が正しい場合はもちろんですし、高次強化で考えてもよいでしょう。インコ語レッスン帖 もっともっとインコに愛されたいあなたへ(磯崎哲也監修、大泉書店)のQ35にも近いと思います。

最後は、「真相を知っているのは、今は亡きオージーくんだけなのでした。」と締めます。「最後の一撃」ものの記事で取りあげたようなものとはまた異なりますが、見ながら勝手にしていたイメージが、つまずいた人もいそうです。ぐるぐると回っても、命は有限なのです。それでも、もし真相を聞けるとしたら、聞いてみたかったところです。あるいは、向こうから説明してきたかもしれません。

それで思い出したのが、女子SPA!にきょう出た記事、究極の“自意識あるある”とは? 地下室でニコ生を配信する40歳ニートを安井順平が熱演です。「引きこもって、ニコ生の視聴者に対して「俺がなぜ引きこもっているか説明してやる!」と配信するんです。」という舞台のお話です。みなさんは、初演で見ていますでしょうか。見ていても、また見に行きますでしょうか。なお、ここには「聖帝ロシア時代」という表現が登場します。マイナビウーマンにきょう出た記事、コンニャクを保存する3つの方法にある「コンニャクの保存法方に関する雑学」のような、単なる文字の前後ではありません。「法方」では、移調の限られた旋法のようですが、アナグラムに見えません。安井順平が先に使い、尾崎ムギ子というインタビュアーも、どちらも「聖帝ロシア時代」と言っていますので、「僕はニコ生どころかツイッターもやっていないんですけど。「こう思われるんじゃないか?」とか、考えちゃうんですよ。」という安井が、考えがあって使った表現とも考えられます。聖帝というはるかに高潔なひびきが、「自意識過剰な男の話」、「40歳ニート男の地下室でのモノローグ」との落差を際だたせます。「「君だけじゃないよ、もっと酷いやついるよ」という勇気を与えられたらなと思います。」という作品なのです。そういえば、Amazon.co.jpでたいへんに評価の高い、ぐでたまぴあ(ぴあ)でAmyは、「「自分よりダメなやつがいる」と思って安心できるところが魅力だと思っています。」と自作を評していました。

紅白のイセエビと岩に接着された仏像の頭

きょう、伊勢新聞のウェブサイトに、「紅白」のイセエビ 鳥羽水族館で展示 白いナマコもという記事が出ました。

イセエビのほうは、「体の腹節と呼ばれる部分の中央から右半分が白色になっている。」、これはめずらしいです。左右色ちがいの顔の絵をかく心理の記事で取りあげたように、生き物の左右の色が分かれることは、さまざまな種で、まれに起こることです。ですが、そのうち腹節だけというパターンは、さらにめずらしいと思います。正月を前に、その前には紅白歌合戦もありますが、縁起がよいととりたいところです。左右ぴったり分かれるかたちには、本来はないことなのに、正しさを感じます。そういえば、子どもの発達とテレビ(村野井均著、かもがわ出版)は、戦隊ものの悪役は「左右アンバランスな姿」だと指摘していました。

アンバランスで思い出したのが、奈良新聞のウェブサイトにきょう出た記事、仏頭岩 住民も困惑 - 明日香村稲渕です。「川原の石」という表現もありますが、「川原にあるこけむした大きな岩の頂点に、石仏の頭部がコンクリートで接着されている。」、このおかしなバランスに、頭をひねってしまいます。見たところ、観音菩薩像のような頭ですが、観音経に「十方諸国土 無刹不現身」とはあっても、こんなところに現れては、誰もがおどろくはずです。

血のイメージと情報発信をあまりしない看護師

きょう、ハフィントンポスト日本版に、未来の看護師を潰さないで!乖離する看護師のイメージと現実という記事が出ました。転載元のMRIC by 医療ガバナンス学会を見ていなかったので、私はこちらで初めて読みました。

若さと意欲とがにじみ出る文章に、看護師の卵の教育にかかわっている私は、元気をもらえた気持ちになりました。ですが、気になったのは、ねらいがとらえにくいところです。「縁あって様々な業種の方と話す機会があったが、自分が看護学部の学生であると名乗ると、看護師のイメージで話をされることが多々あった。」とあるので、看護師のイメージをまだ看護師ではない学生に向けてほしくないのかと思いましたが、そうではありません。「看護師のイメージと実際に自分が学び目指している看護師像に大きなギャップが存在していることに危機感を感じ」というので、イメージと現実ではなく、イメージどうしの対比で、当為自己と理想自己との不一致にやや似た、外から向けられたイメージと自分が目指すイメージとのずれを論じたいのかとも思いましたが、それも違うようです。筆者は、職業としても資格の保有でも看護師とはいえませんので、外の人と中の人との対比でもなく、外の人どうしで、より中に近いかどうかでのずれのお話になっていきます。そして、最後の段落では、「大学で4年間学んだ今の私にこそ、高校の先生や予備校の先生に看護師とは如何なるものか伝えることができるのだと考えている。」とされます。

自分よりも外にいる人がもつイメージが列挙されていきますが、「医療ドラマで良く出てくる「注射」や「血」のイメージ」、ドラマにも出てくることはそのとおりではあっても、特に血については、現実に比べればむしろ、ずっと少ないはずです。もちろん、眼科や耳鼻科のように、眼底出血や鼻血は見かけるにしても、ほとんど血を見ずにすごせる診療科もありますが、医療ドラマの王道である救急ものでは、スポンサーのつごうで交通事故があつかいにくいという説はともかくとしても、どんどん血が出ていくはずの医療場面を、それを映さずに表現しがちであるように思います。

「ひとつ体験談をご紹介したい。」から続くお話が、たくさんのエピソードの羅列なのですが、直接、間接にかかわらず、自分ひとりの体験として、ひとつと数えたのでしょうか。一番問題性が明確な「どうせお前ら医者と結婚したいんだろ。」が、一番不確かなエピソードなのも気になります。そして、もう一歩踏みこんでほしかったのは、「よくわからない同情と声援」、「妙な尊敬や応援」のところです。その違和感には違和感はありませんが、どの人も悪意はないと思われますので、こういうときにはどう考えて、どう言ってほしいのかを具体的に示してもらえると、今後の人のためになったと思います。こう求めると、ふつうに接してほしいだけ、と返ってきそうな気がしますが、一般の人の「ふつう」に、おそらく看護師は入っていません。少なくとも、人生の先輩に「きっと直接看護師と関わったことがないからそういうことを言うのだろう。」と言う筆者は、「ふつう」の人々と看護師との距離は理解できるものと思います。ふつうでないことに関する、悪意のない「ふつう」の反応が、あれなのです。

むしろ、体験談ひとつということでは、「老年の実習で認知症の患者さんを受け持たせて頂いた時のこと」のほうが、しっかりと紹介されています。本質的ではないのですが、気になったのは、「回想法という心理療法を用いて世界地図を紙に印刷したものを病棟のベッドサイドで彼に見せ」というところです。氷見市立博物館の回想法の記事で触れたような定義でも、「貿易会社に勤められ世界を行き来していた」その患者には世界地図が民具、生活用具であると考えれば、これは回想法と呼べそうなのですが、世界地図はわざわざことわらなくても、「紙に印刷したもの」ではないでしょうか。古くはマッパ・ムンディなど、紙ではない地図もつくられてきましたが、もう例外的だと思います。それとも、デジタルネイティブの世界では、地図は物質的存在ではなく、本質はデータなのでしょうか。

「看護学部で学んだ後も、将来の選択肢は多様である。」として、国家試験に受からずやむなくという可能性は別にしても、看護師そのもののお仕事以外の方向性も広いことがアピールされました。そこに、第11回子ども学会議のシンポジウムの、質疑で聞いたお話を思い出しました。ある地方大学の、福祉系学部の教員が、自身の職場の感覚に違和感を表明していたのですが、それは学生の就職に関して、公務員の福祉職や福祉団体に入るのがよいこととされて、一般企業で福祉マインドを生かしたいというようなはたらき方は、その下のように考えられているということです。高い知識や理解を持ったのだから、王道で世の中に還元する生き方をしなさいということなのでしょうか。ふと、やきもの検定の不適切出題の記事でも触れた鈴木秀明という資格マニアのツイート、しかしあれですよね、「東大卒の立派な頭脳をもっと世のために活かせよ」みたいなこという人を思い出しました。

「現在、多くの健康情報がインターネット上に溢れている。それらの多くに、看護学部で学ぶ内容も含まれてはいるにも関わらず、看護師が発信したと分かるものは少ない。」、この指摘は興味深いと思います。医師には、うつ病とアルコール依存の記事で取りあげた記事での監修のような場合も含めて、さまざまなかたちでの発信がみとめられますが、看護師は、意外に見かけません。パラメディカルからコメディカルへと呼称が変わっても、医師との社会的信用の差は大きいのでしょうか。それとも、そんな活動にはとても手が回らないという、筆者が否定したがっている激務の傍証なのでしょうか。人数を見れば、医師よりも看護師のほうが、はるかに多いのです。

その人数のことが、コメントに登場します。「看護師は、200万人もいるメジャーな職業なので、まだましな方です。」とありますが、これは適切ではありません。平成25年 看護関係統計資料集(日本看護協会出版会)にある最新の数値は、看護師の就業者数は2012年末で107万人弱、ちなみに准看護師は38万人弱です。「メジャーな職業」かどうかは、先ほどの「ふつう」の議論とも関連し、むずかしいところですが、200万人は明らかに誇張、あるいはもう、うそだといってもよいくらいです。誰がこんなうそをと思い、名前を見ると、見おぼえがあります。取りやすい資格の記事で、准看が「最低でも年収400万円くらい」という、この人の事実でない発言を取りあげていました。数字が苦手な方なのでしょうか。今回の記事でも、「大学生活での経験の多くは、自分自身の人生についても考える機会にもなり、有意義」という「個人の感想」だけでなく、2段落目でエビデンスを並べて示したことまで、エビデンスなしに価値が落ちて見えるようなコメントをつけました。どんなに効果のエビデンスが積みあがっても、どこまでいってもただの「量」で、必要かどうかという「質」の立証にはならないという論理なのでしょうか。気になるところはあっても、よい視点の記事だっただけに、このコメントはよけいに残念です。はてな匿名ダイアリーの記事、大衆や世間がどんどん馬鹿に思え嫌いになってくを思い出しました。

高知県の捨て猫集団の問題とイルカ漁業非難

きょう、高知新聞のウェブサイトに、捨て猫集団に苦慮 高知県室戸岬の駐車場、四万十市の県道沿いという記事が出ました。

場所は、「高知県室戸市の室戸岬と四万十市の県道沿いの駐車場など」とあって、室戸岬「や」ではありませんので、「四万十市の県道沿いの駐車場」のほかに、四万十市内の別の場所か、四万十市内の県道ぞいで駐車場以外の場所もという意味を込めてあります。読んでいくと、室戸岬のほうは展望台駐車場が取りあげられ、四万十市のほうは駐車場の取材はなく、「車の待避所付近」です。マピオンで見ると配色に不連続がある、四万十市蕨岡甲あたりだと思いますが、どうでしょうか。キノコや昆虫の採集が好きな方が、待避所を駐車場のように使って迷惑をかける例があることを思い出します。

室戸岬のほうは、観光に来た人がわざわざ、市に苦情を入れるほどこわい状態のようです。ですが、野良猫の問題は、このニュースが特殊なわけではなく、あちこちで起こって、しかもとてもめんどうなテーマです。きらうほうは、庭やベランダを荒らされ、車も盆栽も傷つけられ、ところかまわず排便されといった実害が背景にあっても、好きなほうはかわいそうだから、かわいいからでうち消して、感情的な水かけ論に変換される展開になりがちです。ご近所に、話が通じずもう注意する人もいなくなった「ネコ屋敷」や「ネコおじさん」は、思いあたりませんでしょうか。

しかも、ウォール・ストリート・ジャーナル日本版にきょう出た記事、飼い猫に噛まれると深刻な感染症にも―あまり知られていないリスクにあるように、ネコは感染症をうつします。ネコとの接触にこころのいやしを感じる人も多いですが、現実には逆に、統合失調症などの精神疾患との関連も示されています。記事タイトルには「飼い猫」とありますが、読めばわかるように、「適切に警戒していれば健康上のリスクを最小限に抑えることができる」一方で、野良猫が起こす健康被害は飼い猫の比ではないことが推測できます。

また、ネコの問題が議論しにくいのは、ネコが好きな人は動物愛護精神の人だけではなく、動物種によって態度を変える人がかなりいることも一因でしょう。ベジタリアンとして動物愛護のすじを通すなら、むしろ敬服するところもありますが、たとえばありがとう! わさびちゃん(わさびちゃん著、小学館)に対するAmazon.co.jpでの星ひとつレビューへの本気の反発を見ると、これもある意味でスピーシズムに入るのではないかと思うほどです。動物への普遍の愛ではなく、ネコはかわいいから「猫かわいがり」なのでしょう。しかも、ネコはかわいいから偏愛すべき、を普遍であるべきと信じるようすがあったりもします。素朴で根はいい人だったりすると、よけいに困惑します。

その意味では、一部アメリカ人のイルカ漁業非難にも、あの感情に近いところがあるように思います。J-CASTにきょう出た記事、牛やブタはよくてなぜイルカは悪いのか 「ワイヤード」イタリア版に異色批判記事からわかるように、世界中が非難一色なのではなく、アメリカ=世界でもありません。ですが、駐日大使が非難発言をする、異例の事態が起きたことは、ご存じのとおりです。zakzakにきのう出た記事、ケネディ大使 籾井会長、百田委員の発言を理由にNHKの取材に難色の報道によれば、ケネディ大使がNHKの取材をさける異例の事態も、あの発言由来の可能性があるようです。なお、この記事の最後に登場する、「ある識者」の発言の伝聞ですが、これはおそらく、JBPressの記事、キャロライン・ケネディに駐日大使は務まるのか 実力不足は明らか、「日本を侮辱する人事」との声もにあるもののことでしょう。きょう、そのJBPressで同じ筆者は、なぜオバマ政権の大使は「無知」なのか 米国の外交に暗雲をもたらす選挙功労人事として、ケネディひとりにとどまらない、オバマ政権のお金しだいの人事の問題を論じています。

最近の心理学は動物の感情の有無を扱いますか

たまたま、別のことを検索している中で、「最近の心理学では、犬や猿などの動物にも、感情があるのではないかという研究が行なわれていて、ある程度それが認識されようとしている。」という文が引っかかりました。新宮の氷屋のおっちゃんですというブログの、7月6日今日は何の日という記事の、下のほうに出てきます。明らかに学界の外にいるこういった方が、「最近の心理学」を勉強しているようなことを書いているところには、何であれありがたいような、そして面はゆいような感じを受けることがありますが、いかがでしょうか。

この記事で、「最近の心理学」が書かれたすぐ上には、民話のコーナーがあります。いろいろなパターンのある織姫と天の川の伝説のうち、白鳥処女説話型ですが、たとえば天人女房(童話館出版)にはあるような、天の国に入っての試練の物語がないタイプのものが載っています。その上で、細かい筋に気になるところがあったので、試しに検索してみたところ、福娘童話集にある7月6日の世界の昔話と、そっくりだとわかりました。最後の「おしまい」まで、そして冒頭のやや滝平二郎風の画像まで、同じです。

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