きょう、NEWSポストセブンに、こども電話相談室 素朴な疑問よりも重たい人生相談が増加という記事が出ました。安室奈美恵の「洗脳」、精子だったころまで出てくる「胎内記憶」、竹内久美子の新連載と、心理学者がよくない反応を示しそうな話題も多い女性セブン 9月4日号(小学館)からの、意外に心理学とからむ部分の抜粋です。
専門家が組んでいるのかもしれませんが、「ちょっと聞いてョ!おもいッきり生電話」のようなショーには走らない、古典的なカウンセリングのかたちがうかがえます。「まずとことん話を聞くことから」「わかったつもりにならずに『それってこういうことなの?』と確認」「相手の気持ちに寄り添って、本当につらかったんだねと同調」、そして「答えは相談者が出すことなので、ぼくたちが出しちゃいけない。」ときます。「昔、近所にいた“おせっかいおばさん”の代わりが必要とされている」そうですが、いまは学校にカウンセラーが入り、先生方にカウンセリング・マインドを学んだ人も多くなったはずです。まだカウンセラー不足なのか、カウンセラーの力不足なのか、いずれにしてもその補足になるのなら、ありがたいことです。
「相談内容は、「いじめられているのに学校も親もわかってくれない、死にたい」「両親がケンカばかりしていてつらい」という人生相談が圧倒的に多くなった。」、番組リニューアルのねらいどおりといえばそれまでですが、時代の流れを感じます。多少の読み書きさえできれば、ネットの力で、正しさやわかりやすさはともかくとしても、一般的な事実についてははるかに手に入りやすくなりました。ですので、知りたいことの専門家がスタジオに来る週に、知識を声で教わる時代ではなくなったのです。ですが、聞きたいことがなくなったわけではありません。一般的、客観的な事実ではなく、私的な世界、自分の問題について聞きたい、相談したいという欲求へとシフトしたわけです。
この感覚の変化は、若者にとっての学問や学び、教養、そしてそれらを提供する大学のあり方ともかかわってくるところです。センス入門(松浦弥太郎著、筑摩書房)が、「「知らないこと」の格差は、じつは意外と大きいものです。」としたような一般的な教養、まさに「一般教養」が大学教育で日陰に追いやられるようになって久しいですが、広く知りたいという欲求、世界やものごとがわかり、わかったことからさらに世界やものごとが見えてくるよろこびは、かつてはもっと強かったのだろうと思うことがあります。実学志向ということばがありますが、自分にとって直接に役にたつこと、自分にとって役にたつと自分の頭で思えることと、そこに直接には含まれないが結びついている「最近接領域」との間にさえ、大きな関心の落差が感じられることもあります。
大学教育の心理学も、そのような中で困惑しているようなところがあります。きっかけは、親のこと、学校でのことといった、身近で私的なものであっても、こころについて知りたい、心理学を学びたいという思いに進めば、こたえることができます。ですが、広く共有される学問には向かわず、あくまで自分のことに向かった状態ですと、何を学ぶかといえば心理学であっても、ミスマッチを起こすことになります。かつての若者であれば、そういう自分のこと、人生のことは、文学から学びつつ、友人とも議論を交わしつつ、結果的には自分で考えたものだったようです。今日では、ドストエフスキーもヘッセも、重くて好きになれなかったどころか、あるいは太宰治でもカフカでも、どのくらい重いかさえ知らない人がいくらでもいそうです。東京工業大学のウェブサイトの2014年春、退職教員インタビューには、団塊の世代に属する退職者が、大学進学時を「当時、理学部と言えば、素粒子が花形。かたや、文学部は人間の心の中ばかりのぞき込んでいると当時の私には思えました。」とふり返るところがありますが、文学部がこころの探究というイメージは、理解しにくくなりました。もちろん、文学部に心理学科はあっても、英文、仏文が花形で心理は色物であったようですし、いま以上にネズミの実験で折れ線グラフを書く分野でした。それがいつの間にか、花形は色あせていき、文学がこたえてきたテーマは、ミスマッチなのに心理に流れてきたようです。文系の王道の黄昏は、最近の話題では、私文を得意とした代々木ゼミナールの「業態転換」を連想させます。そして、国立大から教員養成系・人文社会科学系は追い出されるかもしれないにあるように、文科省は大規模な文系再編、リストラクチャリングに乗りだしそうです。