生駒 忍

記事一覧

待ち時間に対するダブルスタンダードと人生観

きょう、マイナビニュースに、現役薬剤師に質問! 患者からの困った注文は「早くして」が最多という記事が出ました。

画像のキャプションには、「患者さんからよくある困った意見といえばなんですか」とあり、タイトルにある「患者からの困った注文」とは、やや表現が異なります。本文では、間をとったのか、「患者からよくある質問で困った意見」です。そして、4位を見ると、「薬の説明を聞かない」ですので、意見とも注文とも、質問とも言いにくく、困惑しました。これはむしろ、薬剤師のほうから、注文、意見したくなることだと思います。

1位は、タイトルと本文とでは「早くして」、画像では「早くして!」です。病院の待ち時間情報の記事で取りあげたような問題にくらべて、薬局などでは、そこまで待たされることは少ないように思います。それでも、困らせるほどに、ぶつけてくる人がいるのでしょう。認知的不協和とプラシーボ効果の合わせ技で、待たされたほうが薬がよく効くようになっているかもしれませんが、患者側にそう言うわけにはいきません。ぐあいの悪い人が多いでしょうし、薬局のつくりから考えても、Mac Fan 2015年1月号(マイナビ)にある、待つかわりに歩かせる設計でクレームを減らしたヒューストン空港の作戦はなじみません。待ち時間革命(前田泉著、日本評論社)は、病院の待ち時間の問題と対策を論じる中で、「人はいつから待てなくなったのか」を取りあげましたが、もう薬局の待ち時間程度でも、クレームが当然の時代になってきたのでしょうか。それとも、病院を出て薬局に入ると待ち時間の感覚が別ものになる、ダブルスタンダードの問題とみるべきでしょうか。

記事のうしろについた「【wikiで調べる】」には、「人生観」が入っていて、こんなちっぽけな時間や注文のことに大げさな、と思ってしまいました。これは一応、「「現役薬剤師の業務、生活、人生観に関する実態調査」の結果」の記事なのでした。

合わない人とつきあうメリットと適度な距離感

きょう、It Mamaに、ママ友関係をすっきり断捨離!「自分に適さない」ママ友の見極め方という記事が出ました。「ママ友」とのおつきあいのなやみを絶つことを論じたものです。

「最初は「できるだけ悪口などを言わず、みんなと温和にやっていこう」とがんばって皆と仲良くしてみても、どうしても反りの会わない人は誰にだって一人や二人は出てきます。」、誤字はともかくとしても、これはやはり、「人の個性の数だけ価値観の違いがあるというもの、仕方のないこと」とされます。ですが、できるだけと言わず、悪口を誰にも言わずにいられる可能性も、いくつか考えられます。たとえば、がまんする、穴にはき出して葦に言わせる、三帰誓願にいたるといったものです。教育の法 信仰と実学の間で(大川隆法著、幸福の科学出版)には、「幸福の科学の教えを学ぶと「嘘をついてはいけない」「言葉を正しなさい」などと教わるので、嘘や悪口が言えなくなります。」とあります。

「むしろ、せっかくの楽しい子育てライフを“付き合い”という枠に収まろうと、がんばって価値の合わないグループに属して窮屈な思いを続けることは何のメリットになりません。」、おかしな文になってはいますが、多くの人がおかしな指摘ではないと考え、そんなつきあいはおかしいと言いそうです。それでも、それでも続けてしまうことには、メリットがないわけではない可能性を考えたいところです。みんなママのせい? 子育てが苦しくなったら読む本(大日向雅美著、静山社)の事例11のような、それでも友だちがほしいのでというパターンは、かなりあるはずです。「若いママにありがちな考えで、忘れてはならないのは、ママ友の人数と充実度は決して比例しません。」、これもおかしな文で、内容はおかしなものではないのですが、友だちの人数はほしくなくても、とにかく誰かほしいということはあるでしょう。なお、まずはそういう試練に身を投じることが、結果的にしあわせを生むことも、あるかもしれません。つらい過去の利点の記事で取りあげたような効果です。あるいは、恋学にきょう出た記事、どぶすなセックスはお断りVol.12 20代で経験しとくべき人生経験。の、「最初が強烈だと、後が楽ちん理論。」です。

それでも、苦労はさけたいのが人間です。「理想なのは“お互いに依存しすぎず適度な距離感を持ち、基本的に善意で成り立っている関係”」、そのとおりだと思います。ストレッサーを減らす方法の記事で取りあげた「適度のストレス」の定義のようなこともありますが、適度はその意味からすでに、よいことです。具体的にどのくらいが適度なのかは、書かれていません。「人間関係もほどほどに」とすすめるところがあるくらいです。そうこだわらずに、適度というよりは、適当にやっていくのがよいでしょうか。デジタル大辞泉の3番目の意味での「適当」であるくらいが、結果的に2番目の意味での「適当」になって、それが1番目の意味での「適当」なのかもしれません。

適当で思い出したのが、nanapiにきょう出た記事、何にでも使える「山椒そぼろ」の作り方です。材料の分量として、「山椒:10振りぐらい」とあり、びん入りの粉末タイプが前提である現実感も注意を引きましたが、STEP6で、「山椒の量は10振りぐらいと書きましたが適当でかまいません。」とされます。また、「大根葉:90g」とあって、こちらはより正確な数値での指定なのですが、こちらはSTEP1よりも前に、「大根葉の量はどれだけあってもかまいません。」とされます。だまされたと思って試してほしい 料理の新常識(宝島社)にある、「料理は非常に細かく、材料は0・0g単位まで細かく測ります。」というような考え方に、ときどきゆさぶりをかける、小粒ですがぴりりと辛いレシピです。

学食の居場所としての意味とアナゴの刺身

きょう、産経ニュースに、「もう1人でも怖くない」 大学公認“ぼっち席”学食に広がるという記事が出ました。「大テーブルに相席が基本だった大学の学生食堂で「ぼっち席」と呼ばれる1人用の席が広がっている。」ことについて、その実際を取りあげたものです。

大東文化大の場合は、「学生の保護者が所属する父母会から「学食のテーブルが部活やサークルの集団に占領されている。個人利用の席を確保してほしい」という要望を受けてのことだ。」そうです。私が学んだところにはなかったこともあって、あのなわばり的な感覚は、奇妙に感じるところがあります。Finding Japan by walking around in Senshuというサイトがあって、内容は専修大の卒業研究のようですが、そういうサークルに属していると、居場所として意味があることを示しています。ですが、この父母会のような意見に対しては、そういうサークルの成員がどう答えるのかも、私としては関心があります。不公正な慣行だと自覚していて、口ごもるのでしょうか。それとも、この学校の伝統、いやならよそへ行けばいい、座りたい席があるならそこをなわばりにするサークルに入ればいいと、突きはなすのでしょうか。

「また、1人で食べるのを見られたくないとトイレの個室で昼食を食べる「便所めし」が話題になることもある。」、この前後の段落は大東文化大のことですが、ここは一般論だと思います。また、気になったのは、表記です。一般的な書き方は「便所飯」で、日本語版ウィキペディアでいまは削除された記事も、そうだったと思います。目をしのんでという意味で、忍者めしを連想しました。

神戸大の場合は、「食事は、わいわい話しながらするもので、仕切りをつけるのは好ましくない」と、教員からの反対意見もあったそうで、世代差があるようにも見えます。ですが、わが国ではむしろ、高齢世代のほうで、「わいわい話しながらする」ことへの違和感、場合によっては反感があるかもしれません。崩食と放食 NHK日本人の食生活調査から(NHK放送文化研究所世論調査部編、NHK出版)は、食のしつけの中でも、「食事中は静かにする」に、その方向で大きな世代差があることを示しました。

最後に、東工大の場合ですが、専務理事が、「視線を合わせず、1人で静かに食べたいという傾向は以前からあり、時代の流れ。」と、前からなのか、最近の流れなのか、わかりにくい発言をしています。「今後は、できるだけ学生のニーズにあった席づくりを考えたい」と言ったのは、前からなのになぜ今ごろにという疑問に、大学の考えのほうが変わったところだからという答えを示したと読むところでしょうか。

なぜ今ごろにということで思い出したのが、マイナビウーマンにきょう出た記事、ウナギの刺し身がないのはなぜ?です。「土用の丑の日に思わず食べたくなるものといえばウナギ。」と書き出されて、なぜ今ごろにこの話題なのかと思いました。「ウナギは高たんぱくで消化が良いことから、夏バテ予防の定番としてよく食べられていますが、夏のウナギは味があまりよくないのだとか。」とありますが、マイナビウーマンの記事、意外と知らない知識「天然うなぎの旬は秋から冬」にあるような旬も、もう過ぎました。ちなみに、「ちなみに血液をすべて抜いて、酢でしめれば刺し身で食べることも可能であり、一部料理店などで振る舞われています。ちなみにこの毒はアナゴやハモなども持っているので注意しましょう。」とあるのは、まちがいではありませんが、アナゴのほうは、酢じめにしない刺身で、食べたことがあります。すが井 本店でです。WooRisに1年半前に出た記事、調理時に要注意!生の「ウナギ」には猛毒がある!?には、「生は危険ということで、お店でウナギやアナゴが刺身で出てくることはほぼありません。」とあり、「ほぼ」です。

自分の頭で考えたくない大学生と安定志向

きょう、東洋経済ONLINEに、津田大介氏「今の若者はゼロイチで考えすぎ」 ”減点型社会”が若者を変えた?という記事が出ました。「若者研究家の原田曜平氏と津田氏の対談を、前・後編の2回にわたってお届けします。」という企画の、前編です。

「津田さんをツイッターでフォローしたりメルマガを購読したりするのは、どのような人たちなのでしょうか。」と問われて、「おそらく自分の頭で考えたいと思っているまじめな人が多いのではないでしょうか。」、これが実は、今回の最後のほうの話題との対比になっています。それと同時に、こちらもネットの有名人の、自分のアタマで考えよう(ちきりん著、ダイヤモンド社)を出した「おちゃらけ」ブロガーを連想させるものでもあります。そういえば、DVの件数と意識の記事で触れたものもありました。

「今の若者」について津田は、「まじめですよ。今はみんな授業に出ますからね。」とします。これはもちろん、きちんと出席することが、「僕らが学生だった頃は、日本がこんなに沈むなんて思っていなかったし、そんな問いすらありませんでしたからね。」という時代よりも、大学に必要となったことが大きいでしょう。ですが、出席点はなくなりました。

「以前、ある大学でメディアリテラシーについて教えたときに、「ニュース報道が信じられず、ネットにしか真実がないと思っている」と話す学生がいました。」という話題が登場します。こういう、あるいはココナッツオイル健康法(B. ファイフ著、WAVE出版)の、「私なら、大豆業界のプロパガンダより、事実を信頼する。」のような方向性も、視点のひとつとして組みあわせていくのはよいのですが、そうでないのは問題です。「デマとデマじゃないものの中間に真実がある」ようなとり方ができず、「つねに「1か0」を求める子が増えているような気が」という指摘になります。

そして、「学生が「そんなわからないことを報道されても困る。わかったことだけ報道してくれ」って言う」、「要するに、自分で考えたくないっていうことの裏返しだと思うんですけどね。」、これはよくわかります。授業の中で、複数の説を並列的に取りあげると、正しい答えはどれかを聞きだそうとされます。新書などで、最後に具体的なノウハウや明るい解決策を提案しない、問題や論点を提起して考えさせるところに主眼のあるタイプのものは、特にネット書店では、否定的な評価を浴びせられがちです。こども電話相談室の変化の記事で取りあげたように、教養や文学が好まれなくなったのも、必然なのでしょう。

「結局、社会が減点型の評価しかしないし、数字とかコンプライアンスとか、いろいろと制約要因が社会に増えていますから。」、その影響もあるとは思いますが、「しか」ではないと思います。たとえば、学校にはゆとり教育、新学力観、金子みすゞ的な個性尊重が入り、これらはむしろ、旧来的な客観テスト中心の教育にくらべれば、加点主義的な色あいがあり、数字のしばりも弱まります。そして、スクールカーストの闇 なぜ若者は便所飯をするのか(和田秀樹著、祥伝社)はこの学校の変容によって、キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像(土井隆義著、岩波書店)は価値の多元化によって、出るくいになることが極度におそれられるようになったとします。

「未来が不安だからといって、将来の夢が公務員とか、安定して高収入がいいとか、家賃収入で暮らしたいとか、まったく夢のない展望を中学生から聞かされると、ちょっといろいろ考えちゃいます」、同感です。この傾向は、年齢や学歴が上がってもあるようで、まだ東京で消耗してるの?の記事、京大出て大企業に就職とか何考えてるんですか?の挑発につながります。

「地図にない村」の3類型とBOØWYの誤り

きょう、TOCANAに、「地図にない村」が存在する3つの理由! 自殺、杉沢村、怪談…!!という記事が出ました。

「3つの理由」が「自殺、杉沢村、怪談」というわけではありませんが、「都市伝説として語られることの多い「地図にない村・集落」。」が生じるパターンを、3種類提示します。もちろん、「地図メーカーの単純な「印刷ミス」」は数えません。

まずは、「本来は取り壊されているはずの場所が残っている」で、例として「かつてダムの開発計画があった場所」があります。こういった予定の事象を、どの時点で反映させるかは、結局は作者の判断次第というところなのでしょう。地図が隠した「暗号」(今尾恵介著、講談社)の、「客観的な地図」などないという主張を思い出しました。ちなみに、砂防ダムでは、この例とは逆に、ダムの建設がすんでから、その中に集落がつくられてしまった例があります。産経ニュースの記事、京都市の砂防ダム内に集落 60年にわたり“不法占拠” 京都府、退去求めて本格対策へをご覧ください。

次は、「新しい道路・バイパスができたために打ち捨てられた集落」です。「このような場所は、もともと古くから人が住み着いているわけではないので、地名や地番は後からつけられています。それゆえ、彼らがいなくなれば「地名」も「地番」もアッサリとなくなります。」、これは適切ではないでしょう。少なくとも、いったん登記がされれば、その後に無人になっても、無番地にはなりません。3番目で、「たった1人でも、村に住んでいれば住所が存在するのですが、誰もいなくなった場所には、何らかの地名はありますが「住所」としての地名や地番はなくなります。」とあって、筆者の中でも、「地名」や「地番」の定義に混乱があるようです。そういえば、YOMIURI ONLINEにきょう出た記事、滞留メール80通、大みそかに突然送信…目黒区は、「送信」の定義が、記事中で混乱しているようでした。

その3番目は、「都市伝説でよく語られる「杉沢村伝説」と同じパターン」、これが「地図にない村」の典型でしょう。「事件によって、村の過疎化が急激に進み、消滅するケースですね。」「しかし、そこには「記憶」が残ります。」、こうして王道の都市伝説が生まれ、おもしろおかしく生きつづけます。ふと、天空の城ラピュタ(宮崎駿監督)でのシータのせりふ、「国が滅びたのに、王だけ生きてるなんてこっけいだわ。」が頭にうかびました。

シータで思い出したのが、デイリースポーツonlineにきょう出た記事、佐久間正英さん“遺作”アルバム発売へです。BOØWYが、よくある誤記の「BOφWY」とはまた異なるギリシャ文字を使って、「BOθWY」と書かれました。