生駒 忍

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2012年度のDV相談件数は9万件弱です

きょう、ヒトメボコラムに、歪な愛情から逃れられない!? 法律から見るDVの範囲と対処法という記事が出ました。DV等の法的な位置づけと、対応のこつを述べています。重いですが広く知られてほしいことだけに、あのようなしきいの低いサイトで取りあげられたのは、ありがたいことだと思います。

ですが、私は読みだしてすぐ、授業でうそを教えてしまったのではないかと、少しあせってしまいました。「2012年度に配偶者暴力相談支援センターに寄せられた相談件数は、なんと77,334件にも及びます(内閣府男女共同参画局「配偶者暴力相談支援センターにおける配偶者からの暴力が関係する相談件数等の結果について」)。」とあったからです。急いで、配偶者暴力相談支援センターにおける配偶者からの暴力が関係する相談件数等の結果について(平成24年度分)を確認したところ、総数は89,490件でした。では、「77,334件」はどこから来たかというと、これの2年前のようです。平成22年度分は、タイトルに年度がつかず、配偶者暴力相談支援センターにおける配偶者からの暴力が関係する相談件数等の結果についてという名前で公表されていて、ヒトメボコラム記事での記述と対応します。下のけたを見て、平成22年度と2012年度とを混同してしまったのでしょうか。サービス心理学というブログがあって、残念ながら更新がやんでもう5年目に入りますが、そこの概数は2桁がちょうどよいという記事に対して、年については下に注意がかたよりがちということもありそうに思います。ちょうど100年ずれるまちがいは、意外とよく見かけるものです。30分でわかる尖閣と竹島(イースト・プレス)には、シーボルトの日本地図が1974年に公刊されたように書かれていますが、あれはこのような100年のずれに、シーボルト地図を取りいれたとされるミジョンの中国・朝鮮図との混同などが重なったものかもしれません。

「DVでもう1点、問題となるのは、ひどい暴力を受けているのに本人がDVであると自覚できていないケースが多いこと。」とあるのも、やや気になったところです。まず、DVという概念がない人には、どんなにDVを受けようとも、それをDVとは自覚しようがないはずですが、知識の啓蒙が有効なそういうパターンをイメージしているのでしょうか。それとも、配偶者暴力防止法1条の定義どおりかどうかはともかくとしても、DVの一般的な知識はあって、一方で自身に起きていることがそこにあてはまる質のものだという自覚はなぜかできないという、たとえば病態失認や、摂食障害や身体醜形障害にみられるボディ・イメージのゆがみに近いものでしょうか。あるいは、DVだと思えるひどい暴力を受けていても、愛されている場合はDVから除外される、というようなオリジナルなただし書きを創作してしまっているのでしょうか。少なくとも、オリジナルルールのない妥当なDVの知識があって、「ひどい暴力」が自覚できていれば、ここでいう「DVであると自覚できていないケース」にはなりにくいように思います。それとも、DVの知識と暴力の実体験とを、自分の頭の中で結びつけて考えることをしていないのでしょうか。そういえば、そろそろ全国に配本されたものと思いますが、ブッダが職場の上司だったら(F. メトカルフ・B.J. ギャラガー著、日本文芸社)という、「もしドラ」並にユニークなタイトルの本の中には、もしマッキンゼーの名刺を持っていたとしても、ブッダならば「自分の頭で考えよ」と言うはずだという一節があるはずです。この組みあわせは、日本の有名な「社会派」ブロガーを強く連想させますが、翻訳書のはずなのです。

その後で、アディーレの弁護士の発言の中に、「被害者は『自分は本当は愛されている、必要とされている』と錯覚し」とあります。今日の基礎心理学では、錯覚というと知覚に関する現象ですので、「誤解」や「かん違い」などにしてほしくもあるのですが、一般的な日本語として、「錯覚」がしっくりくる感じもわかります。心理学用語が外とずれるのは、「デマ」でも「自尊心」でもそうですし、「犯罪心理」や「音楽療法」にもそういう側面があります。実際には、心理学で扱っている錯覚の大半は視知覚の現象ですから、「錯覚」もあまり使われず、「錯視」なのですが、一般にはなぜか、こちらは使われにくい表現のようです。けさの日経MJにも、「MERRY タイツ、錯覚生かし脚細く」という記事があり、黒とピンクで錯視を意識したデザインが、カラー写真つきで紹介されていました。