きょう、東洋経済ONLINEに、津田大介氏「今の若者はゼロイチで考えすぎ」 ”減点型社会”が若者を変えた?という記事が出ました。「若者研究家の原田曜平氏と津田氏の対談を、前・後編の2回にわたってお届けします。」という企画の、前編です。
「津田さんをツイッターでフォローしたりメルマガを購読したりするのは、どのような人たちなのでしょうか。」と問われて、「おそらく自分の頭で考えたいと思っているまじめな人が多いのではないでしょうか。」、これが実は、今回の最後のほうの話題との対比になっています。それと同時に、こちらもネットの有名人の、自分のアタマで考えよう(ちきりん著、ダイヤモンド社)を出した「おちゃらけ」ブロガーを連想させるものでもあります。そういえば、DVの件数と意識の記事で触れたものもありました。
「今の若者」について津田は、「まじめですよ。今はみんな授業に出ますからね。」とします。これはもちろん、きちんと出席することが、「僕らが学生だった頃は、日本がこんなに沈むなんて思っていなかったし、そんな問いすらありませんでしたからね。」という時代よりも、大学に必要となったことが大きいでしょう。ですが、出席点はなくなりました。
「以前、ある大学でメディアリテラシーについて教えたときに、「ニュース報道が信じられず、ネットにしか真実がないと思っている」と話す学生がいました。」という話題が登場します。こういう、あるいはココナッツオイル健康法(B. ファイフ著、WAVE出版)の、「私なら、大豆業界のプロパガンダより、事実を信頼する。」のような方向性も、視点のひとつとして組みあわせていくのはよいのですが、そうでないのは問題です。「デマとデマじゃないものの中間に真実がある」ようなとり方ができず、「つねに「1か0」を求める子が増えているような気が」という指摘になります。
そして、「学生が「そんなわからないことを報道されても困る。わかったことだけ報道してくれ」って言う」、「要するに、自分で考えたくないっていうことの裏返しだと思うんですけどね。」、これはよくわかります。授業の中で、複数の説を並列的に取りあげると、正しい答えはどれかを聞きだそうとされます。新書などで、最後に具体的なノウハウや明るい解決策を提案しない、問題や論点を提起して考えさせるところに主眼のあるタイプのものは、特にネット書店では、否定的な評価を浴びせられがちです。こども電話相談室の変化の記事で取りあげたように、教養や文学が好まれなくなったのも、必然なのでしょう。
「結局、社会が減点型の評価しかしないし、数字とかコンプライアンスとか、いろいろと制約要因が社会に増えていますから。」、その影響もあるとは思いますが、「しか」ではないと思います。たとえば、学校にはゆとり教育、新学力観、金子みすゞ的な個性尊重が入り、これらはむしろ、旧来的な客観テスト中心の教育にくらべれば、加点主義的な色あいがあり、数字のしばりも弱まります。そして、スクールカーストの闇 なぜ若者は便所飯をするのか(和田秀樹著、祥伝社)はこの学校の変容によって、キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像(土井隆義著、岩波書店)は価値の多元化によって、出るくいになることが極度におそれられるようになったとします。
「未来が不安だからといって、将来の夢が公務員とか、安定して高収入がいいとか、家賃収入で暮らしたいとか、まったく夢のない展望を中学生から聞かされると、ちょっといろいろ考えちゃいます」、同感です。この傾向は、年齢や学歴が上がってもあるようで、まだ東京で消耗してるの?の記事、京大出て大企業に就職とか何考えてるんですか?の挑発につながります。