生駒 忍

記事一覧

ぶりっ子への敵意と「チャラ男」より新しい語

きょう、LAURIERに、「雰囲気イケメン」は許されて、「ぶりっ子」が嫌われるのは何故?という記事が出ました。

「陳腐なかわいらしいしぐさや言葉を多用して、男性に対して媚びるような、計算した接し方をしている女性。彼女たちは「ぶりっ子」、「計算高い女」として、一部の女性たちから敵意の対象として見られています。」、よくあることです。それでも、「一部」という表現が適切かどうかは、議論がわかれそうです。言わないだけで、みんなそう思っていると思っている人もいるかもしれませんが、山本圭壱復帰の賛否の記事で取りあげた田中みな実でさえ限界がきたのにと、むしろ敵意とは逆で、あわれみの目で見る人もいそうです。あるいは、敵意というほどの熱い感情はなく、冷たく無視するだけの人もいるでしょう。そういえば、モデルの鈴木えみは、LOVE! 鈴木えみ(集英社)で明かしたところによると、「虫とぶりっこ」が敵のようです。

「ところで、この「ぶりっ子」。よくよく考えてみると、似た立ち位置のキャラクターが男性にもあります。」とします。これは、ぶりっ子をきらう心理の質問の記事で、男女の非対称を考える中で示した「チャラ男」よりも、さらに新しい概念、おそらく3年くらい新しいことばです。

終了時間がわからない会議と正論ばかりの人

きょう、電通報に、「外してるけど、おもしろい」を目指す。という記事が出ました。

「会議は面倒でつまらなくて時間のロスではない。会議は実はとてもおもしろいものなのです。」、たのしい職場のようで何よりです。大学業界、少なくとも私のまわりでは、大人のための落書き帳(S. グノスペリウス著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)の時間だと公言する人はさすがにいませんが、会議はたいくつなもの、やむなく出るものという考えが、よく見られます。ですが、この業界の特殊事情もあります。朝日新聞デジタルの、asahi.com時代に出た記事、〈学長力〉産業人、組織に「喝」 芝浦工大学長 柘植綾夫学長には、産業界から学長になっておどろいたこととして、「まず、会議の開催通知に開始時間だけ書いてあって終了時間が書いていなかったこと。」「大学経営を、学術論争のように延々と議論するのにも驚いた。」とあります。

「電通のクリエーティブの会議ではなかなかお見かけしませんが、議論の場で正論ばかり言う人はけっこういるようです。」「でもそういう人からは人は離れていくという話を、心理カウンセラーの知人から聞いたことがあります。」とあります。目ざすべきは「ストライクゾーン甘めのゆるい球」、「外してるけど、おもしろい」なのだそうです。出世の教科書(千田琢哉著、ダイヤモンド社)の、「出世する人の会議・打ち合わせのルール10」の10番目の感覚です。

「しかも不思議なことに、「外してるけど、おもしろい」を繰り返していくと、「正しくて、おもしろい」が出てくるようになります。」、世界はあまのじゃくなものです。そういえば、The Will to Meaning: Foundations and Applications of Logotherapy(V.E. Frankl著、Plume)は、「The more one aims at pleasure, the more his aim is missed.」「Normally pleasure is never the goal of human strivings but rather is, and must remain, an effect, more specifically, the side effect of attaining a goal.」としました。

いばらキッスのくり返しと「あきはばら」誕生

きょう、マイナビニュースに、東京都・銀座で茨城の苺「いばらキッス」をバレンタイン特別仕様にて販売という記事が出ました。1年前の記事で取りあげたスワンカフェでの、限定販売の紹介です。

おそらく、これの下敷きは、プレスリリースゼロに1週間前に出た記事、2015年は百年に一度のいちごイヤー!! 甘くて酸っぱい“キッス”を贈ろう。 茨城のいちご オリジナル品種 「いばらキッス」を バレンタイン特別パッケージで販売します!でしょう。写真の画質は、当初からだったわけです。本文は、ぐっと圧縮されました。ですが、その結果、同じ情報が何度もくり返されて、見た目以上に情報量が少なくなってしまいました。売りものは「茨城県のオリジナル品種の苺「いばらキッス」」「茨城県のオリジナル品種「いばらキッス」」「茨城県のオリジナル品種である「いばらキッス」」、売る場所は「東京都中央区銀座「スワンカフェ 銀座店」」「「スワンカフェ 銀座店」の店頭」「場所は、「スワンカフェ 銀座店」(東京都中央区銀座 2-12-16)。」、売る日も3度くり返されます。どれも正しいのですが、それだけに思わず、くどいと口に出かかりました。

出かかるで思い出したのが、三陸新報のウェブサイトにきょう出た記事、少しの出掛かりでも 南三陸署と町が合同捜索です。なお、ここは同じ記事でもサイト更新のたびに記事のURLがうごく、検索エンジン泣かせのつくりですので、リンク先が別の記事になってからは、ニュース一覧から探してください。本文には、「関係者は「少しでも手掛かりを見つけたい」と、懸命の捜索に」とあります。ですので、タイトルでだけ、濁点がうごいてしまったようです。そういえば、オタク産業白書(メディアクリエイト)は、「鉄道関係者の勘違い」から、秋葉原は「あきばはら」ではなく、「あきはばら」と呼ばれるようになったとしました。

拒食症の定義における体重の基準と発症の一因

きょう、マイナビウーマンに、ただの食欲のムラと“過食症と拒食症”は何がちがう? 医師に聞くその原因と対処法という記事が出ました。

「そうです、「拒食症」と「過食症」は根本的には同じ病気とされており、極端な食事制限や食後の嘔吐、下剤の乱用によって標準体重の80%以下の低体重を維持しているものを神経性無食欲症、食後に強い罪悪感を感じ、体重を増やさないために嘔吐や下剤の乱用を行うが、やせにはいたらないものを神経性大食症として体重で区別されています。」、いろいろと誤解をまねきそうです。「体重で区別」というだけの単純なものではありませんし、すぐ前に、「俗に「拒食症」と呼ばれる「神経性無食欲症」と、「過食症」と呼ばれる「神経性大食症」」と表現したことから、DSMやICDだと思いそうになりますが、明らかに異なります。15%ではなく20%というのは、厚労省調査研究班の定義からでしょう。難病情報センターのウェブサイトにある、神経性食欲不振症の診断基準で、その6項目と備考を読むことができます。「ー20%」「―20%」「-20%」「−20%」と、次々に表記がうごくところには、性格と体型の類型論の記事で取りあげた「シェルダン」を思い出しました。また、第4項目が、診断基準としては独特です。日本摂食障害学会のウェブサイトのリンク集を公開場所にしている「「摂食障害の理解と治療」コンテンツ」も、「拒食症の診断」にはこれに近い基準を示していますが、過去の20%到達は問わないこと、第4項目に相当するものがないことなど、相違点もあります。なお、福祉教科書 保育士完全合格テキスト 2015年版 下(翔泳社)は、拒食症を欄外で取りあげ、「標準体重より20%以上減少している場合に栄養失調が心配されます。」とします。

発症の一因に、「体形に関する批判的なコメント」を挙げます。体重や体形のことは、気にしないでいられるとよいのですが、消費者問題が頭からはなれない苦しみの記事で取りあげた岡本杏理のようには、なかなかいかないものです。

「リズムネタ」のつまらなさと暗いフォーク

きょう、BLOGOSに、<短すぎる賞味期限>8.6秒バズーカ「ラッスンゴレライ」はお笑いにとっては死に至る劇薬という記事が出ました。

女性が男性に求めるステータスの記事の最後に紹介したものではありませんが、タイトルを1文字でも短くする意図ではないと思います。本文でもずっと、最後の長音記号を落として書いていて、当人のねたの書きおこしでまでそうしているので、意図をもってのことでしょう。こんな芸人はのびない、長続きしないという、放送作家としての確信の表現でしょうか。

「心理学の分野には「単純接触効果」という言葉がある。これは、別に気にならないものや、ふだんなら無視してしまうようなものでも、何とも目にしたり耳にしたりしていると親しみや、嫌悪感などの関係性ができてしまうという考え方のことである。」、「嫌悪感などの関係性」までこの効果に入れるかどうかはともかくとしても、「ふだんなら無視してしまうような」こんな地味な用語が、心理学の世界の外でも「目にしたり耳にしたり」されるようになってきて、「何とも」ふしぎな気持ちです。ぜひ、単純接触効果研究の最前線(宮本聡介・太田信夫編、北大路書房)も売れてほしいと思います。

飽和して続かなくなるのは、「リズムネタの中に入れ込まれている「しゃべり」が、実は、よく吟味すると「ちっともおもしろくない」からだ。」そうです。そして、「ラッスンゴレライ」の書きおこしを示して、「少し長めに引用したが、これだけ長くても笑いは、笑えるところは一つもない。」と断じます。「よく吟味」したようには思えませんし、文字だけで見せられてつまらないのは、あたりまえでしょう。落語でもミュージカルでも、書いたもので十分にたのしめるのでしたら、舞台はいりません。うごきもありますし、同じことばを言うのでも、どのように声に、音に乗せるのかで、印象は大きく変わります。週刊朝日 10月31日号(朝日新聞出版)で森田真生が書いた、数字だけで笑えるように見えても、その数字の言い方しだいだというお話を思い出しました。

「オリエンタルラジオの「武勇伝デンデンデデンデン、デンデデン」」、何だか冗長です。筆者が「民謡の「お囃子」の部分だけでやっている」イメージでとるのも、理解できます。

「前者の「リズムネタ芸人」と後者の「リズムネタのようでいて、リズムネタでない芸人」のどこが違うか?」、「民謡に例えれば、リズムネタは「お囃子だけを抜き出した者」であり、後者は「民謡の本歌部分をやっている者」とでも言えるかも」、おもしろい視点ではあると思います。ですが、「「リズムネタのようでいて、リズムネタでない芸人」の大先輩といえば、トニー谷さんとか、牧伸二さんが居る。」というレベルとのちがいは大きくても、レギュラー、藤崎マーケット、いつもここから、オリエンタルラジオ、テツandトモ、COWCOWを、この基準で4対2にわけるのは、私にはむずかしく思われます。「民謡の「本歌」の部分も歌い、歌詞につづけて、その理由もきちんと笑いに昇華」、言いたいイメージと例とが、うまく対応しません。「あるある探検隊」は「歌詞につづけて、その理由も」、きちんとかどうかはともかくとしても、やり取りして笑いに使います。いわゆる「あるある」とそうでないものとで線を引くなら、「何でだろう」は「あるある」側でしょう。筆者がみちびきたい線引きを可能にするには、かなりあいまいですが、芸風、ねらう客層を見るのがよいかもしれません。古典的な流れの笑い、古典芸能ではない「芸能」の舞台とは異なり、お笑いライブなどで反応を見ながら試行錯誤するなら、そういうところの客層にしぼったねたが効率的ですし、たいていは若い男性ですので、若い女性ファンがほしくなります。PHP 2015年3月号(PHP研究所)で、ナイツの塙宣之は、「所属事務所の会長に漫才協会に入れさせられ」、「当時は若いコに騒がれたいと思っていたから、気分は乗らない。漫才をイヤイヤやってましたね。」と、売れないころをふり返ります。そして、「転機は二〇〇五年か六年のNHK新人演芸大賞。このコンクールの予選に出る際、若者向けのネタにするか浅草向けのネタにするか、ずいぶん考えました。」、そこから、いまの「浅草のナイツ」へとつながります。一方で、DVD付きマガジン よしもと栄光の80年代漫才昭和の名コンビ傑作選 第2巻 島田紳助・松本竜介(小学館)によれば、紳助・竜介という漫才コンビで売れた島田紳助は、若い女性の「追っかけ」のターゲットになると芸が甘くなるとして、「あいつらを笑わしにかかったら終わりや」と言っていたそうです。

「本歌をネタにする方は寿命、賞味期限は実に長い。」、売れたらという前提が必要かもしれませんが、同感です。「津波ラッキー」事件の記事で亡くなったことに触れた牧伸二は、先に自分の寿命がつきてしまったほどです。ですが、猛毒のヒドラジンを燃料とするロケットのように、「死に至る劇薬」で高く上がったら、用済みと同時に切りはなして、うまく軌道に乗れれば、ねたは落ちても自分は回りつづけます。音楽ねたを含むマニアックな芸で注目されてから、明るいお昼の司会業に回ったタモリも、やや近いでしょう。

明るい、タモリで思い出したのが、nikkansports.comにきょう出た記事、タモリ&小田和正、ショーパン挙式で和解です。「乾杯のあいさつを務めたタモリ(69)は、かつて「歌が暗くて嫌い」などと突き放したオフコースの小田との間にあった確執を乗り越えたと明かした。」そうです。昨年の紅白歌合戦の「福山君、グッズありがとう」に続いて、また私事の持ちこみかという印象もありますが、よいニュースになりました。いまの小田からは想像しにくいかもしれませんが、オフコースに限らず、フォークは暗いものだったのです。きょうのNHKラジオ第一放送の午後のまりやーじゅで、坂田おさむが明かした、暗いフォークの世界から「うたのおにいさん」に転身したときの困惑は、明るい話しぶりでしたが、相当なものだったと思います。