生駒 忍

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はちべえトマトパンと「どういう心理」質問群

きょう、くまにちコムに、はちべえトマトパン 八代市の福祉団体が新商品という記事が出ました。障害者に就労の機会をつくっている九州福祉会が、新しいパンを開発したそうです。

パンにはちべえトマトを入れたので、そのままのネーミングとなったようです。私は、この名前を見て、かなべえコバトンに何となく似たところを感じてしまいました。ですが、ソックパペットの可能性がある英語版でのJapan Footballがあったものの、もう姿を消して長いですし、大半の人はもともとかかわりのない世界だと思います。

「甘くて味が濃い「はちべえトマト」に着目し、同JAの協力を受け約3カ月間、試作を重ねた。」とあります。この新聞社の表記方針では、「3ヶ月」や「3か月」、「3ヵ月」ではなく、「3カ月」のようです。ですが、たとえば8か月前の記事、ベローチェの雇い止め不当と提訴 元女性アルバイトには、今では記事本文が表示されなくなりましたが、「3か月ごとの更新を30回以上」と書いてあったはずです。

写真は、2名のスタッフの顔がとても注意をひき、手前に出したはちべえトマトパンを食ってしまった印象です。写真のキャプションが「はちべえトマトパンを手にする九州福祉会のスタッフ=八代市」なので、パンではなくスタッフが主役なのですが、せっかくですので商品のアピールをメインにしたほうがよかったように思うのですが、いかがでしょうか。また、箱のほうはともかくとしても、パンは側面ではなく、ななめにかたむけて切り口を見せたほうが、よりアピールになったでしょう。ですが、そうすると小さく見えてしまうでしょうか。「パンは一斤売りで価格は未定。」とありますので、おそらくこれも1斤です。ふつうの食パンの1斤より小さく見えますが、斤はあくまでも、大きさではなく質量の単位です。日本パン公正取引協議会のウェブサイトから、包装食パンの斤表示(保証内容重量の表示)の義務化をご覧ください。

小さくということで、painは男性名詞ですし、それで思い出したのは、男性を小さくしたいという人についての「どういう心理でしょうか?」の一連の質問群です。以前に、引っこし後のPTSDの記事でひとつ取りあげましたが、きょうはどういう心理でしょうか?▱どういう心理でしょうか?▢どういう心理でしょうか?□が、立てつづけに来ました。おそらく、OKWave名物のA弁護士・O弁護士シリーズほどには長続きしないと思いますが、いやな予感がします。

書き順を音にする研究による博士論文とDID

きょう、KNB WEBに、障害の大学院生、新たな旅立ちという記事が出ました。富山大の博士課程を修了する、鈴木淳也という音響エンジニアを取りあげたものです。

横浜市民で中途障害、40代後半というと、3年前までは聞こえなかったと主張するあの作曲家を連想しそうですが、「大学が身体障害者を対象として平成20年度に設けた全国初の特別枠、その第1号として入学しました。」ということで、無事に修了となり、おめでとうございます。生命融合科学教育部は、東北大学のような教育部・研究部の分離はなく、これそのままで一般的な大学院でいう研究科にあたります。あの大学で障害というと、障害理解研究で知られる西館有沙・富山大学准教授が思いあたりますが、研究上の接触はあったでしょうか。日本障害理解学会の常任理事でもある方ですが、ちなみにこの学会は、近く閉会することになります。心理学や周辺分野では、研究会レベルですと対人行動学研究会やノードフ・ロビンズ音楽療法研究会などの前例がありますが、学会に改組して学術会議への登録を目ざしたところの座礁は異例です。

「鈴木さんは富山大学で64個のスピーカーから出す音を組み合わせて1つ1つのアルファベットの「書き順」で「形」を表現する研究を続けてきました。」とあります。ロケットニュース24にきょう出た記事、色覚異常から「色を聞く」世界へ / 頭蓋骨に埋め込んだカメラで色を聞く芸術家ニール・ハービソンを思い出しました。

視覚障害者ならではの視点による研究、といってよいのでしょうか。原理的には、視覚障害がなくても思いつくことはできる範囲であるとみて、障害と関連づけることはむしろ差別的だと考えるべきでしょうか。あるいは、ふつうに見える人でも、あえて視覚を遮断してすごすと、しない場合にくらべて、このような着想がわずかでも浮かびやすくなることはあるでしょうか。

視覚の遮断といえば、greenz.jpにきのう出た記事、【イベント】「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」創設者 アンドレアス・ハイネッケ氏 講演会 in大阪&東京でも紹介された、DIDがあります。Excite Bitの記事、『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』に参加してきたには、1989年に始まったように書かれましたが、正しくはgreenz.jpの記事にあるように、1988年のはずです。ですが、暗闇の中でおこる劇的な心理学的変化については、さらに前、1973年に出た論文であるDeviance in the Darkが取りあげました。その筆頭著者は、後にもう一つの社会心理学(K.J. ガーゲン著、ナカニシヤ出版)でも有名になった方です。もちろん、学問的なところはともかくとして、暗闇の体験として、エンタテイメント性と安全性とを確保したDIDは、有意義な活動だと思います。見えない世界を知るだけでなく、光の力を知ることにもつながり、そこから電気のありがたみ、節電にまで考えが回る、といったら言いすぎでしょうか。

そういえば、もう3年以上たつわけですが、あの震災で、私の住むところは完全に停電して、夜はほんとうに暗闇となりました。それでも、何も見えないわけではなく、星のかがやきはこれまでにないほどの見え方でしたし、ここに満月が浮かんだらまったく違うだろうと感じました。Things Fall Apart(C. Achebe作、Heinemann)の、「As Ibo say: ‘When the moon is shining the cripple becomes hungry for a walk.’」の感覚でしょうか。その作者であるアチェベが亡くなって、きょうで1年となりました。あらためて、ご冥福をいのります。

自称「武井咲」がレオタードを盗みました

きょう、朝日新聞DIGITALに、「武井咲さん名乗りレオタード盗んだ」 容疑の女が供述という記事が出ました。

第1報、レオタード計101万円分盗んだ疑い 自称タレント逮捕では、昨年1月30日に「体育大学の学生です」といつわって行った盗みが報じられましたが、この記事によればその少し前、24日には「武井咲です。主人公が新体操をする映画を撮るので、レオタードが要る」と言って、やはり盗んだそうです。被害にあったのは、オリンストーンのショールームだと思いますが、ウェブサイトでは繁忙時があるように書いてあるとはいっても、関心のある人がとても限られる商品ですから、まったく同じ人が、店員と会話して試着もして、盗んで1週間ほどしてまた来たのになぜ、と思った人も多いと思います。ポイントは、順序です。もし、体育大生と称したほうが先だとしたら、被害額も大きかったので、2回目にマスクをしてきても、はじめから警戒されて、今度はむずかしかっただろうと思います。ですが、先にマスクで来て、しかも武井咲だと信じさせてしまえば、そのイメージに記憶が引きずられますので、2回目はまったく別人の設定であれば、気づきにくくなるのもうなずけます。しかも、同じ盗っ人が同じ店に、今度はマスクなしで堂々と来店するとは、ふつうの感覚では考えられないことです。

武井咲を演じる中で、どこかでおかしいと思わないのかと思った人もいると思います。それはキダ・タローの佐村河内批判の記事で取りあげたキダの正論と同様に、まったくの正論なのですが、やはり後だしでもあります。おれおれ詐欺に似たところがあって、はじめにわずかな手がかりでそう思ってしまうと、途中で訂正するのはむずかしいのでしょう。東スポWebにきのう出た記事、レオタード盗んだグラドルに「オーディションすっぽかし」過去の写真で見て、目もとが似ていたのでという店長の主張は、同情できそうでしょうか。そして、マスクをとればぼろが出そうなところを、かぜをひいたので声がというおれおれ詐欺の古典的な手口や、楽譜を書くところは神聖なのでと撮影させなかった佐村河内にも近いのですが、設定をいかして絶妙にかわしました。暗闇から手をのばせ(戸田幸宏監督)では、小泉麻耶は私物の衣装でデリヘル嬢を演じたそうですが、武井クラスで映画のための衣装を自分ひとりで調達とは、奇妙といえば奇妙なところを、武井だと信じてからでは、つじつまが合ってみえる「物語」をつくってしまった可能性があります。より自分に似あうものを持っていき監督に提案したい、自宅で役づくりに使いたい、あるいは映画のお話は照れかくしで、単に私的に着たいだけ、などといったぐあいです。今月に第2版が出た医療におけるヒューマンエラー なぜ間違える どう防ぐ(河野龍太郎著、医学書院)の第5章で、「たぶん,あれのせいだよ(こじつけ解釈)」と呼ばれるものです。

記事の最後にある店長の反応が、かなり強いものです。盗みへの怒りよりも、まったくの別人を武井咲だと言われて完全に信じた自分への恥ずかしさが、この短い怒り発言の中にも感じられます。

別人といえば、きょうのNHKラジオ第一のラジオ深夜便の午前2時台のコーナー、「ロマンチックコンサート」では、「おもちゃの交響曲」の作曲者をL. モーツァルトだとしました。作曲者について長く議論のあったこの佳曲は、20年ほど前の発見により、おそらくはE. アンゲラーの作品だとされるようになりましたが、古い理解のままで放送されてしまったようです。あのときに流した録音のCD、バッハ: 主よ、人の望みの喜びよ マリナー/ASMFの記載のままを読んだのでしょうか。この日は、楔形文字を「きっけいもじ」と読んだことへのおわびから始まったのに、また適切とは言いにくい放送をしてしまったのでした。以前に書いた福祉と生きる意味の記事の一番最後に引いた、ベンバ族のお話を思い出しました。なお、「楔」の読みは、神経科学の世界でもときどき話題になるものです。Mochi's-Multitasking-Blogの記事、[楔前部 読み]検索者へをご覧ください。

パニック障害の疫学と明るい安西ひろこの写真

きょう、JIJICOに、芸能人は「パニック障害」になりやすい?という記事が出ました。書いたのは、ユング派分析家資格のある精神科医です。

1月にyuiについて、女性自身 2月11日号(光文社)が「パニック障害の疑いも」「酒と薬で緊急入院」と報じたことを受けての記事かとも思いましたが、それにしては遅いですし、yuiを含めて芸能人の名前はどこにもなく、人名は「フロイトやユングの「精神分析療法」」しか登場しません。芸能人とのかかわりに触れた分量も少なく、パニック障害の一般的な説明に、ユング派の視点を少し足したような内容です。発生メカニズムに関しては、「きっかけは、何かでせっぱつまっているときで、過労、睡眠不足も伴っています。」「パニック発作とは、明らかな原因がないのに、わけのわからない緊急反応が突然に起こってくる状態」「原因は、こうした環境因のほかに、遺伝的要素や生育史上の傷つきなど、さまざまなものが複合」「脳の緊急反応をつかさどる部位の機能的異常も」「パニックの深層にある不安の源泉とは、患者が現在の生き方で後回しにしてきた大切なもの」と、いろいろならべますが、クラークの認知モデルは落とされました。

「パニック障害は、うつに次いで精神科でよく見られる疾患です。」とありますが、エビデンスはありますでしょうか。患者調査にもとづく有名なデータは、「みんなのメンタルヘルス」の精神疾患のデータでも見られますが、パニック障害の数までの細分化はされていません。「こころの健康についての疫学調査に関する研究」総括研究報告書にあるWMH日本調査2002-2006の知見では、パニック障害の生涯有病率は0.8%、不安障害の受診率の低さもわかりますので、2位なのか疑問に思うところもあります。

先ほど、yuiの名前を挙げましたが、パニック障害に苦しんだ芸能人でもっと有名なのは、安西ひろこでしょう。バルドーの告白(安西ひろこ著、角川春樹事務所)は、淡々と書かれる暗いできごと、あっけらかんとした本人のキャラクター、ほんとうに明るい写真の対比が独特な一冊ですが、パニック障害が重かったころの体験のところは、すさまじいものでした。ですが、アゴラフォビア以外にも、パニック障害そのものの症状とは考えにくいものも重なったように見えますので、これ一冊でパニック障害をわかったつもりになられては困ります。そういえば、間もなく青山学院大学に入学すると思われる人が、きょう、ishikiのブログというブログを立ち上げて、最初の記事で図解雑学 心理学入門(松本桂樹・久能徹監修、ナツメ社)を取りあげ、「けれど、正直なところ、この本だけで心理学を分かった気になるのは難しいと思う。」と書きました。なお、その記事は、もう削除されました。

日本人だけが謙虚である調査結果と声かけ事案

きょう、It Mamaに、日本人が外国人と比べると圧倒的に「自己肯定感」が低い理由という記事が出ました。Amazon.co.jpで高い評価を集める、困ったココロ(さくら剛著、サンクチュアリ出版)の主張の紹介を中心として書かれたものです。

さっそくその本から、「さくらさんは、「日本人は歴史的に謙虚であることを良しとする文化を持っているから」と語っています。」と引きます。私は、この本をまだ読んではいないのですが、この「歴史的」の意味あいはどのようなものだったのでしょうか。古くからずっとということでしょうか、それとも、歴史上のできごとの影響で必然的にそうなったということでしょうか。もちろん、両方かもしれません。小浜逸郎のブログに4か月ほど前に出た記事、日本人の自己評価は、なぜこんなに低いのかは、大学での授業実践の経験をふまえたエッセイですが、もともとの特徴と、戦争の爪あととの、どちらもがあると指摘します。

「例えばインドでは「こんにちは」「お元気ですか」の二言だけしか話せないのに、「俺は日本語が話せる」と豪語する現地人がいた、とのこと。」とのことです。インド人もびっくり、と言ってよいのかどうかわかりませんが、これは大胆です。KANTER JAPANによる22か国調査の結果報告、日本人は「健康」に対する自己評価が低い。で、自分の健康へのコントロール感の最高がインド、最低が日本だったのを思い出します。一般には、自己評価での日本の特異的な低さが、よく指摘されます。週刊ポスト 7月19日・26日号(小学館)で宋文洲が、「日本人は真面目な上に自分の能力を高く見積もりすぎる傾向がある。」と指摘するのはむしろ特異で、心理学的に検証してほしいところです。先ほどの小浜のブログ記事でも、日本だけが反転するグラフがありますし、ベネッセ教育総合研究所の学習基本調査・国際6都市調査が報告する図1-3-1も印象的です。日本だけを見ると、左右、つまり成績の上下でどちらにもゆがまず、まん中から左右対称で美しいのですが、海外ではゆがむのが当然で、かたよっているのは日本のほうだと考えざるをえません。怒り爆発の表現、「You got me mad now」を日本人は、ゆがめすぎて、ゆがみがないように聞きとってしまうことを連想しました。

そのインド人の話題から進めて、「これについて、『カウンセリングサービス』にも、似たようなことが書かれています。」と来ます。二重かぎかっこでくくってありますが、本ではなく、そういう名称のウェブサイトからの、伝聞的な部分の引用です。

同じように、「ただ、『ダイヤモンド・オンライン』で、品川女子学院の校長・漆紫穂子さんは、「ほめてあげるのが苦手な大人が多い気がします」と日本の文化以外の問題も指摘。」、こちらは有名サイトですのですぐわかると思いますが、二重かぎかっこはやはり、ウェブサイトです。あまりほめないのも、日本の文化的な特徴のようにいわれがちですが、ここでは「日本の文化以外の問題」と位置づけます。文化ではなく、では日本の何だと考えることになるのでしょうか。

そして、また困ったココロからの話題に戻ります。ですが、この最後の引用が、『カウンセリングサービス』からのものとはうまくなじみません。成功では上がりにくい、失敗で下がりやすいのでしたら、こまかい向社会的行動でこつこつかせごうとしたところで、たまにつまづいてはふり出しに戻る賽の河原にはまるのではと、心配になります。文字どおり声をかけただけで「声かけ事案等」にされるとされるのは、Excite Bitの記事、これって不審者? 「声かけ事案」はどんなケースかから考えると都市伝説的ですが、席をゆずろうとしたらいやがられて、どちらも不快になったというたぐいの事例は、昔からたくさんあります。そこを意識すると、ゆずられるほうも気をつかうもので、発言小町の記事、ただのデブなのに、電車で席を譲ってもらいました。のようなことにもなり、あそこでよく見る表現で言えば、もやもやしますという感じでしょうか。

最後に、「【参考】」として、引用元の一覧があります。本文中でももう示してありますが、こちらではリンクもはられて、親切な印象をうけます。本に関しては、人文系の世界では書名だけではなく掲載ページまで求められますし、以前に日本語版ウィキペディアの嘗糞(상분)の項目で、「人糞を嘗める朝鮮人特有の遊び」をめぐって疑義が出たようなこともありますが、そこまででなくてよいと思います。そういえば、小保方騒動でも、ウェブ上の文章をだまってコピペした行為が笑いものになったところでした。前に書いた酒鬼薔薇の影響の記事で、早稲田のコピペの伝統の威力か、あの人だけが特異なのかと書きましたが、探偵ファイルにきょう出た記事、早稲田・小保方氏の指導教授らのゼミ、博士論文でコピペ大量発覚!は、前者の可能性をうかがわせます。そして、心理学にかかわる者として、これは対岸の火事、あるいはシャーデンフロイデですませるわけにはいきません。パーソナリティ研究の最初の号の最後にある報告書を、心理学者なら忘れてはいけません。あれはほんとうにあぶないところだった、査読者がもし、AとCとの2名だけだったらと、何度考えてもぞっとします。