きょう、ハフィントンポスト日本版に、福祉は生きる意味や赦しを与えてはくれないという記事が出ました。熊代亨という精神科医のブログからの転載記事です。
岡崎良徳という人によるツイートを見つけたことからの、福祉の限界と宗教とのすみわけに関する議論です。ですが、「宗教の役割がかつてより薄まったのは事実」と言ったことに対して、「宗教の役割はあんまり薄まっていない」と反応するのは、反論といえば反論かもしれませんが、少しだけ薄まったという程度だとしたら、2説とも両立します。宗教が生きることや存在の意味を対象とするのも、これ自体は自明でしょう。
一方で、福祉が意味にかかわるのはせいぜい上っ面だけで、意味をあつかわないのが正しい福祉のあり方のように言っているのは、やや違和感があります。少なくとも、私が社会福祉の講義で使っているテキスト、系統看護学講座 専門基礎分野 社会福祉(医学書院)では、第8章で意味とかかわる支援も取りあげられています。テキストはたてまえとしての「正しい」福祉を述べるけれども、現場は目先の生活支援で精いっぱいで、意味がないということかもしれません。また、正統なものに載っているかどうかを基準にすることのたよりなさでしたら、ある程度は理解できます。そういえば、msn産経ニュースにきょう出た、日本の銭湯に魅せられる外国人観光客 「裸のつきあい」が魅力 文化の違いからトラブルもという記事では、観光ガイドブックには載りにくい銭湯が、訪日外国人の関心を集めているとありました。これにともなって、トラブルも起きているという記事ですが、同じくきょう、YOMIURI ONLINEにはかけ湯せず湯船に…注意され立腹、10発殴るという記事が出て、そこには出ていませんが、伊賀署の発表では、容疑者は李永昌という名前で、日本人でも在日コリアンでもないようです。銭湯はもう日本人にもなじみのない、落日の日本文化だという意見もありそうですが、あえてそこを進めて、欧米ではさらになじみのない混浴は、外国人に受けるでしょうか。TOKYO MXできょう放送された、WHITE ALBUM2第8話に、男女3人での混浴シーンがあったそうですが、温泉批評(双葉社)にあるように、本物はただでも減っている上に、近年の「ワニ」出没のダメージも受けているようです。19世紀に来日した人々が混浴を嫌悪したために、政府が禁圧に出たことはよく知られていますが、混浴と日本史(下川耿史著、筑摩書房)によれば、混浴の素朴さに共感した外国人も多かったそうですので、国境を越えた観光資源化はいかがでしょうか。
さて、公的福祉ではなく、私的福祉まで考えるならば、福祉が意味をみちびくことはめずらしくありません。最近ではたとえば、YOMIURI ONLINEにきょう出た、痛みもがんも絵筆握る力に 梅沢さん来月個展という記事や、仕事休んでうつ地獄に行ってきた(丸岡いずみ著、主婦と生活社)は、宗教の支援はおそらく受けずに、身のまわりにささえられる中で、病の経験に意味を見いだした事例です。
もちろん、意味にこだわってしまうのは、無意味なところもあるでしょう。きょうの日曜喫茶室でも、小津安二郎作品に意味を求めなくていいのではという話題が出たところです。人生で、意味をどのくらい求めるべきかは、むずかしいところです。意味がわからなくても、とりあえず進むこと、動くことも必要ですし、意味を考えなかったことで、のちに悪い意味で頭をひねる必要が生じることもあります。先週の日刊ゲンダイの記事、出るわ出るわ 猪瀬都知事弁解の矛盾とウソには、猪瀬知事の「借りる意味がわからないで借りた」という発言がありました。文字どおりの意味ならば、別の意味で問題でしょう。そういえば、汚穢と禁忌(M. ダグラス著、筑摩書房)には、「ベンバ族の母は、疑わしい火を消して、新しい清浄な火をおこすのにいつも忙しいのである。」とあります。