きょう、日刊SPA!に、スティーブン・キングのツイッター炎上で「ネタバレ」を考えるという記事が出ました。キングによるツイート、See you laterによる騒動を取りあげたものです。
こういうねたばれの可否は、どこでも荒れる話題になりがちで、議論で答えが出るわけでもありませんので、乗るだけむだともいえますが、キングは、「おいおい、この話は15年くらい前に本になってるんだぜ?」とこたえました。ですが、記事では、「シリーズ第一作『A Game of Thrones(邦題:七王国の玉座)』の刊行は’96年。」と続けます。こう書かれると、15年というよりも、もう20年近いように理解されそうです。今回のエピソードは、アメリカで出たのは2000年11月であるところでしょうから、実際は13年半に満たないところです。「15 years or so」ですので、許容範囲でしょうか。なお、第4部であるA Feast for Crows(G.R.R. Martin作、Harper Voyager)が出たのは2005年だと反論したくなった人は、「第4シーズン」と第4部との対応関係を確認してください。
「昨今の小説や映画では、ラストにどんでん返しがある、いわゆる“最後の一撃”ものに人気が集中しているという。」とあります。それだけでなく、昨今の作品ではなくても、テレビ番組内で紹介されたその手のものが、ピンポイントで売れたお話を聞きます。殺人交叉点(F. カサック作、東京創元社)も、イニシエーション・ラブ(乾くるみ作、文藝春秋)もそのようで、前者は40年以上前の作品です。後者はそこまでではありませんが、ああいう時代設定の作品ですので、今の若い人には、かえって古さがきわだって、世界に入りこめずたいくつで、「“最後の一撃”に到達するまでが“苦行”な作品も多い(苦笑)」に入れられそうです。その点では、出てすぐ読んだ人も、後ろの用語解説を今になって読むという「二度読み」なら、そろそろまた楽しめるかもしれません。また、99円で読める、謎解き『イニシエーション・ラブ』(ゴンザの園)を足す読み方もあるでしょう。
夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波(瀬戸川猛資著、東京創元社)は、売れたその2冊の間に出ました。ここに、「最後の一撃」論があります。日本のテレビ放送ではカタカナになった「ゲーム・オブ・スローンズ」をめぐる騒動の記事にふれながら、原語をカタカナにしただけの映画タイトルの批判も行ったこの本を挙げるのも、変な感じがしますが、昨年に重版となって、入手しやすくなりましたので、紹介しておきます。
小説ではなく、映画での「最後の一撃」ものですと、何をイメージしますでしょうか。私は、先ほど以上に昨今からはなれますが、サイコ(A. ヒッチコック監督)や、猿の惑星(F.J. シャフナー監督)がまっ先に思いうかびました。そこでふと思ったのは、映画の場合、入れかえ制でない時代の作品でも、種がわかってまた見なおす動機づけは、ミステリ小説のようには必ずしもならないということです。名作は何度見てもよいものですが、たとえば「ここは地球だったのか」の後で、先ほどのイニシエーション・ラブのようにすっかり別の世界を味わえたり、そういうたのしみ方が前提になっていたりはしないように思います。≪猿の惑星≫ 隠された真実(E. グリーン著、扶桑社)を読んでからまた見るのであれば、得るものがあるでしょう。
もちろん、そうではなさそうな作品もあります。ユージュアル・サスペクツ(B. シンガー監督)で、どうしても見なおしたくなり、あちこちを確認した人も多いでしょう。ここではあえて、興行的にはそれほどでなかった邦画で、パーマネント野ばら(吉田大八監督)を挙げたいと思います。いつもの西原ワールドで、すがすがしいまでのだめ男、ずれているのにまっすぐで強い女ばかりの中に、江口洋介のシーンだけがくせのない現実として入ってくるのが、あのラストでひっくり返るわけです。夢落ちに近いともいえそうですが、単に夢だったで終わるのなら、ここは地球だったと同じで、また見かえす必要はあまりないでしょう。ですが、この作品では、あの「非現実」の場面がどうつくられていたのか、また見ることでより理解できる側面があります。ギャグシーンやおかしな会話からも、見えてくるものがあるでしょう。また、西原原作の映画の定番である、原作者自身の出演も、1回目には見のがす人がかなり多いと思いますので、ここも2回目の楽しみです。濃いキャラのすきをついて、うすいところに「パーマネント」に埋めこまれています。