生駒 忍

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「ありのままの私を見てほしい」の恋愛心理

きょう、女子SPA!に、結婚が遠のく、アラサー独女の“3つの口癖”という記事が出ました。取材に基づいての「つい口にしちゃう3大口癖」の紹介です。

そのうち、1番目と3番目とは、似たものです。「どっかにいい人いない?」と、「出会いがないんですよねえ」です。あわせて使われることも多そうです。ですが、同じではありません。性差があるようです。1番目は「女同士で飲んでいて、ひとしきりグチったあとに出るセリフがこれ。」、3番目は「女性でも男性でも、最後にタメ息とともに出るセリフ。」です。1番目について、記事では同類の口ぐせとして紹介されたものも、女性用のようです。試しに、性別を入れかえてみると、「いい女はみんな結婚しちゃってる」、「独身のいい女はみんなレズ」、男性の口から聞きそうにないことばになります。

2番目は、方向性がまた別です。「ありのままの私を見てほしい」です。個性、そのまま、ありのままをよしとする近年ありがちなメッセージを、本気で信じてしまったのでしょうか。異性によく思われるように変わる努力ではなく、よく思われない現状を卑下するように見せながら、そのままでいいと言わせようとする、ロスジェネ心理学 生きづらいこの時代をひも解く(熊代亨著、花伝社)でいう「駄目な俺を受け容れてくれ症候群」のようです。あるいは、お見合い1勝99敗(吉良友佑著、PHP研究所)の法則25の、条件明示のスイーツ好き女性、フィギュア好き男性のような態度なのでしょうか。その2例は、すなおといえばそのとおりなのですが、理系のための恋愛論 Season 09 あなたは空気が読める人ですか(酒井冬雪著、マイナビ)の「気になる相手に、自分のことをありのまま全て話すと失敗する?」の視点も、そういうことには重要でしょう。Q&A 思春期のアスペルガーのための恋愛ガイド(G. ウーレンカム著、福村出版)にも、何でも正直に言わないほうがいいというお話がありました。

ケーゲル、ゲーバー、バッハ、あるいは逆行動画

きょう、tocanaに、【回文音楽】ここまでくるともう… 奇才バッハが生み出した永遠に終わらない旋律が凄すぎる!!という記事が出ました。「永遠に終わらない旋律」とありますが、無限カノンではなく、蟹行カノンについて、YouTubeの動画を中心にして紹介するものです。

「18世紀に活躍し後世の音楽界に多大なる功績を残したバッハ。」と書き出します。言わずと知れた大作曲家ですが、「音楽界」への功績という角度からの評価は、意外に見かけません。「65歳で生涯を閉じるまでに約1,087もの曲を書き上げ」、この曲数の「約」は、以前に「情けは人のためならず」調査の報道の記事で取りあげた読売の記事にある「約」のように、つけなくてよいように思います。「独自に追い求めた「フーガ技法」と呼ばれる特殊技法」とありますが、バッハだけが独自にというよりは、当時広く使われたフーガの手法で結果的にはるかな高みへ達したのであって、遺作の「フーガの技法」とからめた語法も含めて、これも特殊な見方のように見えます。

「「メビウスの輪」と「バッハ」、一見なんの関係もなさそうなキーワードであるが、晩年に書かれた「蟹のカノン(Crab Canon)」という曲をに、両者を密接に関連づける謎が隠されていた。」、ここで唐突にメビウスの輪をつなげます。ふつうなら、バッハとメビウスの輪との両方を述べてから、関係がなさそうだが実はと、間をむすぶ解を示していくところですが、ここではいきなりもう片方が降ってきて、しかもこれから示すのは解ではなく「謎」だという書き方です。

「この楽曲、正式には「2声の逆行カノン」というが、その独特なコード進行から横歩きの蟹を連想させるため「蟹のカノン」とも呼ばれている。」、ここも独特です。バッハの対位法的作品に「独特なコード進行」をとらえて、しかもそこから命名されたとみる発想は、異色です。一般には、旋律が左右からぴったり行き違っていくのを、カニの横歩きにたとえてこう呼ぶと説明されます。ですので、現実にはバッハのこの作品を指す固有名詞のようにもなっているのですが、ほかにも見かける形式です。モーツァルト作とされて広まり、今では偽作とされる、フラクタル音楽(M. ガードナー著、丸善)の図10も完全にそうです。

「なるほど!楽譜自体がメビウスの輪になっていたのか。視覚化するとよく分かる。もうエッシャーの世界。」、ここでつながるのが、ゲーデル、エッシャー、バッハ あるいは不思議の環(D.R. ホスフタッター著、白揚社)です。先に第42図で、エッシャーの「蟹のカノン」が登場し、カニの割りこみを境にぴったり反転するアキレスとカメ、そして第44図がそのままこの曲です。アキレスとカメは、和訳にも反転が織りこまれたのがまた楽しいところです。

このカノンを含む「音楽の捧げもの」を、フリードリヒ大王が与えた主題からつくられた作品とします。これはどこでも見かける説明ですが、今日の研究ではうたがわれているようです。「約1,087もの曲」と書いたことからは、ある程度新しいところまで把握できているようですが、このあたりは耳に入っていなかったのでしょうか。ですが、BWV1087を知っているなら、カノンならそちらの妙技のほうが、もっと紹介したくなりそうです。YouTubeの他人の動画作品で説明しやすいことを優先したのでしょうか。あるいは、先ほどのゲーバー本にあるものにしたかったのでしょうか。

「実際の演奏では、向かい合わせに配置したピアノで行うのだが、演奏者の息がぴったりと合う必要があり、かなり高難度な楽曲だ。」、息があうのはどんなアンサンブルでも必要なのはともかくとしても、「音楽の捧げもの」は基本的に、楽器の指定はありません。もちろん、今のようなピアノは、あの時代にはまだありませんし、ピティナのピアノ曲事典で、音楽の捧げものを見ると、フォルテピアノの可能性にも疑問があるようです。むしろ、演奏者側が楽器まで選べる自由度が、この作品ならではのたのしみでもあります。中でもインパクトのあるものとして、ケーゲル指揮ライプツィヒ放送響: 音楽の捧げ物を挙げておきます。ほんとうの古楽器から入って、ケーゲルらしくまじめな演奏なのに、合唱が入ってきたり、最後に大オーケストラの編曲版が来たりと、とても冒険的な一枚です。

クロナッツ・バーガーと精神保健福祉士の分裂

きょう、八重山毎日新聞のウェブサイトに、障がい者自立を支援 石垣市という記事が出ました。漠然としていますが、「相談センターが開所」も記事タイトルに入ると考えれば、見えやすくなります。

「市役所障がい福祉課前」で撮影された写真で、看板を見せる二人が、違った大きさであるために、距離感が少しつかみにくいように感じます。エイムズの部屋の逆でしょうか。また、後方の職員が、また別の方向を向いて直立した姿なのも、ふしぎな光景です。こちらに向いていれば、撮影のためにという見え方ですし、座ったり歩いたりしていれば、お仕事の最中に見えますが、どちらでもないのです。

「同課では保健師や精神保健師、障がい福祉士が配置されているが、実務経験のある臨床心理士の常駐が課題」とあります。毎年、受験者の6割が新たに臨床心理士となっていきますが、すでに「実務経験のある」人がほしいようです。同業者から見ると、心の底から共感するところでしょうか、それとも、離島なのにぜいたくを言うなと腹がたつところでしょうか。また、見かけない資格名のようなものがあるのが気になります。「精神保健師、障がい福祉士」は、精神保健福祉士を、名前が長いので二つにわかれるイメージで誤解したのでしょうか。前半には保健師が、後半には民間資格の知的障害福祉士が混ざったように見えます。日本人はいろいろなものを混ぜあわせて新しいものをつくることに抵抗が小さいといわれ、ここ石垣ではチャンプルーと言うところだと思いますが、何でも混ぜればいいというものでもありません。そういえば、日本では今になって急に知名度を上げているクロナッツですが、COURRiER Japon 2013年11月号(講談社)によれば、カナダではこれがさらに「クロナッツ・バーガー」へ発展して、ところがおなかをこわす人が続いて、販売中止になったそうです。

機能不全家族と「理想の家族」との関係

きょう、タウンニュース大和版に、「愛情の落とし穴」とは つきみ野学習センターで講座という記事が出ました。全5回の講座の紹介です。

この講座の主催者が、よくわかりません。記事には見あたらず、連絡先は会場のつきみ野学習センターです。つきみ野学習センターだより 12号では、1面の中央でとても目だつあつかいですが、つきみ野学習センターのサイトにある「学習センター主催・共催・支援事業のお知らせ」にはないので、センターは主催どころか支援もなしで、場所貸しと連絡窓口の代行だけなのかもしれません。大和市学習情報の講座情報システムで、このイベントの情報がとれるはずと思ってあたってみましたが、少なくとも私の環境からは、このイベントに限らず、イベントは何ひとつ見つかりませんでした。

講座全体のタイトルは「シンデレラ・ママ〜理想の家族」で、以前に男性の性被害統計の記事でも触れた、入力しにくい波ダッシュがありますが、とても明るく親しみやすいタイトルです。ですが、記事によると「テーマは「機能不全家族」。」なのだそうで、明らかに暗い方向です。まったく逆向きに見えても、一方はもう一方の裏がえしととらえて、結局同じと考えるべきでしょうか。円卓(西加奈子作、文藝春秋)で、鼠人間が「Sは、逆さにしてもSなの、知ってはるのん。」と言うのを思い出しました。

関西福祉大の「朝活」は交流目的でしょうか

きょう、関西福祉大学のウェブサイトに、関西福祉大学 「朝活」の取り組みについてという記事が出ました。

福祉系の大学ですので、資格試験へ向けた勉強会なのかと思いましたが、そうではありません。学生に1食150円で朝食を提供するのが、ここの「朝活」なのです。一般的なこのことばの意味からすれば、大学での朝食提供は朝活の支援にはなっても、朝活そのものとは考えにくいのですが、ここでは「朝活」です。もちろん、少し前に書いた万引き防止システムの騒動の記事で触れた「ブラック企業」のように、別の意味のほうが世の中に広まって入れかわってしまうこともあります。私は、この「朝活」はそうはなれないと思いますが、どうでしょうか。また、大学の人間に、正しい意味での朝活にあまりなじみがないことも、関係しているかもしれません。たとえば、「朝活の代名詞」としておなじみの丸の内朝大学を受講したというお話は、少なくとも、私のまわりの同業者からは、一度も聞いたことがありません。

ここの「朝活」の目的は何でしょうか。大学側の目的での朝食提供のようで、学生側が目的意識をもって来るものには見えにくいのが、ふつうの朝活のイメージとはまた違います。大学側としては、「朝型の生活を推奨」し、「特に入学したばかりの新入生に、学生生活のスタートから朝型の生活を定着させることもねらい」、「規則正しい生活のリズムを獲得しながら、学びの充実に繋げていく」ようにのぞむもののようです。1限の授業を週4こま持っていて、朝が苦手になる大学生の問題はよくわかりますので、これは大学の方針として有意義だと思います。

一方で、まったく別の方向性のねらいもあるようです。記事には、「食堂空間が、学生や教員の交流の場となってほしいとの願いを込めたものです。」ともあります。文の流れとしては唐突でしたが、この方向性でしたら、正しい意味での朝活でもあるように見えます。これもまわりの同業者が参加しているとは聞かないものですが、朝カフェの会は、飲食はありますがメインはそこではなく、あくまで交流の場で、1時間の違いですべてが捗る 朝活のススメ 安心して参加できる 厳選朝活ガイド付き(インプレスコミュニケーションズ)にも取りあげられました。そういう場なのでしたら、学生は目的意識をもって来るでしょうし、それが結果的に朝型生活をうながして、大学側のねらいも達成できそうです。ですが、教員の位置づけがよくわかりません。この「朝活」は「全学生を対象」としたもので、「学生や教員の交流の場」になるのでしょうか。また、交流を主目的とする場の色あいが強くなるほど、それが好きでない学生が敬遠するようになって、朝型のリズムをつくる機会を使えなくなってしまいそうです。この機会に苦手を克服しようと呼びかけても、週刊東洋経済 10月12日号(東洋経済新報社)でいう「頑張れないものは頑張れないし、やりたくない仕事はやりたくない」ナチュラル系学生は、全否定でおしまいかもしれません。いきなり「私はコミュニケーションが嫌いだ。」と書き出す、反コミュニケーション(奥村隆著、弘文堂)を思い出しました。