生駒 忍

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『ビッグイシュー』売人の販売態度への疑問

きょう、ビッグイシュー・オンラインに、今日行ってすぐできる仕事、すぐに辞められる仕事を提供したい:「ビッグイシュー」の存在意義という記事が出ました。今回のタイトルは人名ぬきでしたが、佐野章二と家入一真との対談から切りだしたシリーズの、最新記事です。

ビッグイシュー日本を率いる佐野が、「いつ来ても、すぐ出来て、嫌ならすぐに辞められる。とことん敷居の低い仕事場をつくれればいいんじゃないかと思ったんです。」と考えを披露します。日雇い派遣は、もう労働者派遣法施行令4条2項にあてはまらない人にはむずかしくなりましたし、人によっては福祉的就労の選択肢もありますが、どちらも登録なしに誰でもすぐ、とはいきません。おなじみのアルミ缶抜きとりも、少し前に朝日新聞デジタルに出た記事、缶集め、生活と条例のはざま 持ち去り禁止でも生きる術にあるような状況です。そのような時代ですので、貴重な場になっているのだと思います。

それでも結局、文字どおり誰でもすぐとはいかず、「ビッグイシューの販売者になるためには、面接を受ける必要があります。」とあります。あくまで「最小限の面接」なのだそうで、「「ビッグイシューを売りたいんです」「なるほど、さぁどうぞ」という流れがいいですね。」とあります。ですが、実際にそうなっているのか、疑問に思った人も多いと思います。私が見ているかぎりでは、街のあちこちに立つ売人が、ほぼ例外なく、売りたいという意志がほんとうにあるとは思えないような態度に見えます。もちろん、見えにくい障害をかかえていて、声を張りあげることのかなわない人、立つことはできても歩くのは苦手な人、営業スマイルのできない人もいるだろうとは思いますが、売人全員がそうなのでしょうか。ホーボー ホームレスの人たちの社会学 (下)(N. アンダーソン著、ハーベスト社)には、ホームレスは読書家だとありましたが、自分が何を売っているのかを把握して、その号のおすすめ記事のアピールはできないのでしょうか。終わらす技術(野呂エイシロウ著、フォレスト出版)は、自分の仕事の本質的な目的をわかっていない人の「筆頭は駅前で雑誌を売っているホームレスの人たち」としていて、おそらくこの雑誌の売人のことでしょう。売れるほど手取りが増えて、より支援になるのですから、売り方のアドバイスもしたらいいのにと、いつも思ってしまいます。売り方についてはあえて口を出さず、自分でくふうしていくのを待ち、それが結果的には自己成長や自立へつながるという考えなのでしょうか。それとも、アドバイスをしても、誰もしたがわずに無視するのでしょうか。あるいは逆に、通行人へのアピールが過ぎる人が出て雑誌の評判を落とすことをおそれて、営業的な行いを厳しく禁じて、その結果があの、売る意志を感じさせない独特の売り方なのでしょうか。意味はまったく別ですが、「ベルジャネーゾ」と呼ばれる人の、有名なことばを思い出してしまいました。

レベルといえば、10年以上前、ビッグイシューが今の半値近い設定だったころのブログ記事に、ビッグイシューの原稿や原稿料のレベルの話題が出ていました。雪香楼箚記というブログの記事、ビッグ・イシュー(2)は、当時の200円でも、あの内容では高いとして、「結論としては、「ビッグ・イシュー」は早急に原稿料を出す経済的な余裕を生むべきです。」とします。一方で、たくろふのつぶやきというブログの記事、『ビッグイシュー』は、内容の評価の伝聞を示した後に、「投稿しているライターも、たいした原稿料は稼いでいないのではあるまいか。」と推測します。実際は、いくら出しているのでしょうか。2年2か月ほど前のツイート、ビッグイシューとガロは似ているどちらも原稿料は無いは、過去のお話でしょうか。

クラクションを鳴らされたら攻撃で返す心理

きょう、OKWaveに、クラクションを鳴らしたら急ブレーキを踏まれてしまいという質問記事が出ました。

道交法の範囲を逸脱したクラクション使用には、このようなどちらかというと攻撃的なものがありますが、それに対して、さらに攻撃的、暴力的なやり方でやり返してしまうのは、何なのでしょうか。ナニワ成功道 スピード、パワー、トーク 74の具体例(中谷彰宏著、PHP研究所)には、「大阪は街じゅうクラクションの洪水です。」とした上で、「クラクションで文句をつけるのはいいのですが、相手を間違えると、怖いヤクザのベンツに両側を挟まれ、そのまま環状線を3周は回されて、降ろしてもらえなくなります。」とありますが、何倍もにして返すのは、やくざに限らないでしょう。あるいは、ベストカー 1月26日号(講談社)に載った、市岡裕という人がクラクションを鳴らした相手から受けた、「信じられない行動」のお話もあります。クラクションを鳴らされると、自分の運転への評価を通して、自己評価に意外にひびくのかもしれません。ですが、攻撃的にさせるのは、運転がうまい自分への非礼、無理解への制裁感情でしょうか。それとも、自分でも運転がへただとわかっていることを強く意識させられることによる、自己愛的憤怒でしょうか。いずれにしても、かかわっても得することはなさそうですので、クラクションは鳴らさずにこらえたいものです。あるいは、皆さんは、あ~勘違い運転術(山口宗久著、講談社)にハイヤー運転手のこつとして出てくる、「まるでうっかりホーンボタンに触れちゃったのよ程度の軽いタッチで、かつ確実に相手に聞こえてるくらいの鳴らし加減」を、うまくできますでしょうか。

岩手の山林火災の「鎮圧」と天吾の思いつき

きょう、IBC岩手放送のウェブサイトに、岩手町と葛巻町の山林火災は鎮圧に向かうという記事が出ました。

タイトルもふくめて、「鎮圧」が3回登場しますが、ここは「鎮火」と書くべきところだと思います。安直ですが、デジタル大辞泉で「鎮圧」を引くと、「戦乱や暴動を武力を使ってしずめること。」、「耕地をすき起こし、土を砕いて平らにならし、押さえること。また、その作業。」とあります。前者の意味でよく使われると思いますが、山火事には合わないことばなのは、火を見るより明らかです。農林地域なので、後者の意味かというと、それも不適切です。あるいは、「する」をつけて動詞にすると、見えやすいでしょう。「鎮圧する」は、他動詞、動作動詞です。一方で、「鎮火する」ですと一般には、自動詞、変化動詞のように思われます。では、なぜ「鎮火」をさけたのでしょうか。以前に『教育現場は再生できる』の記事の記事で書いたような、安倍政権批判の皮肉ととるのもむずかしそうです。特に意味はなく、3回とも「鎮圧」なのは、たまたまなのでしょうか。そういえば、1Q84 BOOK 1(村上春樹作、新潮社)には、睾丸を強くにぎられた天吾が、「意味はないよ。ただふと思いついたんだ」と返す場面がありました。

訳語「自閉スペクトラム症」と平松隆円の所属

きょう、msn産経ニュースに、「障害」を「症」に 精神疾患の新名称公表という記事が出ました。日本精神神経学会による、DSM-5病名・用語翻訳ガイドラインを取りあげたものです。

記事には「旧版の「DSM-4」」とありますが、5の前は「DSM-Ⅳ」です。アラビア数字になったことも、重要かどうかはともかくとしても、5が出るにあたって話題になったところです。そこまでの話題にはなりませんでしたが、似たものとして、ハイドライドⅡはあってもⅢはなく、かわりにハイドライド3になった例があります。

大きなものの訳語がかなりうごいていて、賛否があるところだと思います。私としては特に、「症」のつかい方が気になります。ある単語に「症」を組みあわせる場合、一般には病因か、あらわれる問題につけて病名をつくります。たとえば、花粉症や酸素欠乏症、ハエ症は前者、健忘症や単眼症、歯状核赤核淡蒼球ルイ体萎縮症は後者です。そして、今回の記事の例示にはありませんが、記事タイトルの「「障害」を「症」に」がそのままあてはまる、LDの新訳語だという「学習症」は、どちらからも逸脱します。まるで、学習の副作用だったり、不当に学習が起こってしまったりする病気のようです。「認知症」に反対するのが、医学界では日野原重明など一部にすぎないことや、はるかに古い「神経症」の前例から、問題なしと考えたのでしょうか。

「「アスペルガー症候群」は単独の疾患としての区分はなくなり、「自閉スペクトラム症」に統合された。」とあるのは、誤解をまねくように思います。TRもふくめて、旧版に「アスペルガー症候群」という名前の区分はありません。「自閉スペクトラム症」も、前からあって統合先にされたのではなく、今回つくられた訳語です。うまく定着するでしょうか。また、日本自閉症スペクトラム学会は、これにあわせて「症」の位置をうごかすでしょうか。それとも、日本特殊教育学会のように、そのままの学会名を維持するでしょうか。

とりあえず、訳語が固まったところですので、DSM-5全訳の公刊は、まだ先のようです。それでも、すでにあちこちで、部分的な訳が出てきましたので、その部分をかき集めれば、主要部がだいたいそろうかもしれません。先日は、看護の共通ケア(山勢博彰監修、照林社)に、DSM-5のせん妄の診断基準が訳されていることに気づきました。ですが、訳語の調整や誤訳への注意も必要ですし、そうあわてなくてもよいでしょう。

あわてなくてもで思い出しましたが、心理学専攻に関するずれた回答の記事で名前を出した、平松隆円という大学教員が、1週間ほど前に、researchmapの個人ページを更新しました。所属を、スアンスナンタ・ラチャパット大学に書きかえたようです。ですが、経歴のところを見ると、その所属は「2014年6月 - 現在」とあります。クーデターで暦が変わったとは聞きませんが、現在すでに籍をおいてあるのか、それとも来月からの予定なのかが、よくわかりません。もし後者だとすると、厳密には詐称になりそうですが、とてもいそがしそうな方ですので、悪意はまったくなく、単にあわててしまっただけだと考えたいところです。

自分からは声をかけない若者と夜の米原駅前

きょう、ブッチNEWSに、この夏、真夜中の米原駅前はナンパ成功率99.9%!?という記事が出ました。

「青春18きっぷの意外な使い方」が副題のようで、だいたい内容の見当がついた人もいるでしょう。在来線で乗れるだけ乗って進んだために立ち往生になりがちな、「本当に「宿がない」街」の話題です。携帯電話から時刻表も宿泊先もあたれる時代になって久しいはずですが、それでも急なダイヤ乱れなどで、立ち往生が後をたたないのかもしれません。

筆者はそこを、「実はこれが絶好のナンパチャンスなのだ。」とします。そして、「断られるのが怖くて女の子に声をかけられない男性も、真夜中の米原駅に集合してみてはいかがだろうか。そこにいる女性は、“声かけられ”待ちの可能性大。」と呼びかけます。これに乗って、草食系男子が集まるようになるでしょうか。女神的リーダーシップ 世界を変えるのは、女性と「女性のように考える」男性である(J. ガーズマ・M. ダントニオ著、プレジデント社)によれば、林香織は草食化を「主体的な判断が尊重される好ましい傾向」と評価しましたが、主体的に動くことで、どちらもしあわせになるのならば、悪くないことだと思います。

ですが、声をかけられるのではなく、声をかけるほうになるのは、いまの若い人には、とにかくさけたいことなのかもしれません。J-CASTにきのう出た記事、社会人「ぼっち」の涙ぐましい努力 休憩時間が怖い!?に紹介された、「誘われなかったら、誘ったらいいじゃないですか。」というツイートが正論ではあっても、いやなものはいやなのでしょうか。ひと月ほど前、4月23日付の朝日新聞朝刊にあった、水野剛也という大学教員の指摘を思い出しました。大学生が自己紹介をするときに、人見知りを理由に、相手のほうから自分に話しかけるようにと求めるのだそうです。ライトノベル文学論(榎本秋著、NTT出版)が主体性の低い主人公と関連づけた、いわゆる落ちものの世界を、現実社会にも「主人公」にあるべき展開として求めたいのだとは、さすがに考えすぎだと思いますが、自分からさそうよりは、向こうから来るまで「ぼっち」で待つほうが、まだましなのでしょうか。