生駒 忍

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親子関係から恋愛への直接および間接効果

きょう、ハフィントンポスト日本版に、「恋愛がうまくいかない」原因は、親との関係?という記事が出ました。本家のIn A Bad Relationship? New Study Says You Can Blame Your Parentsを、佐藤卓という人が和訳したものです。

「調査対象者の保護者との関係が、現在の彼らの恋愛関係の質と直接関連している」とあって、関連すること自体はふつうの結果ですが、「直接」とあるのは、ややふしぎです。そして、次の段落には「相関関係」とあるので、単純相関が認められたことから、直接関連するという結論へと、直接関連づけてしまったのではと心配しました。一方で、後のほうにある、第一著者の取材回答、「「青年期の頃の保護者との関係が良好なほど、学生時代に高い自尊心を保つことが予測され、それが成人初期の良好なパートナーとの関係につながっていた」と、ジョンソン准教授は米ハフィントン・ポストに対して説明する。」は、直接ではなく、自尊感情を経由する間接効果のことです。なお、この記事は「自尊心」と訳しましたが、原文ではself-esteemで、日本語でふつうに使う「自尊心」はむしろprideに近く、語感がずれて誤解をまねきやすいので、私は「自尊感情」で書きます。それでも、一般的な「自尊」の語感が残ること、特に何もつけない場合は状態自尊感情ではなく特性自尊感情を指すのに、「感情」の語感からのイメージが逆であることなど、訳しにくい用語です。

気になったので、オリジナルの論文、Paths to Intimate Relationship Quality From Parent–Adolescent Relations and Mental Healthにあたってみました。結論は、両方でした。タイトルが図の上なのは心理学者には落ちつかないのですが、Figure 2を見れば解決です。親子関係の質から、直接効果と、自尊感情を経由する間接効果と、どちらもあるのでした。この研究はブートストラップ法を入れて検証しましたが、間接効果は微弱で、ですがゼロではないといえます。

最後に、「「青年期に保護者との関係が非常に困難だった人が、成人初期に、必ずパートナーとの関係の質が下がる運命にあるというわけではない」と、この論文は説明している。」、これは考察の3段落目にあります。一般向けにもこういう点は、言っても理解しない人も出るのですが、それでも言う意味のあるポイントです。この手の知見はなぜか、親から虐待された自分は子どもを持ったら虐待してしまうなどと、特定の変数で将来が確定するようにイメージされたり、その誤解を前提として、整合しない事例を見つけてきて、たとえば虐待を受けたのにふつうに子育てできる人もいる、だからこんなものはうそだ、非科学的だと論破したことにされたりすることがあります。これを防げる、思いこみの性、リスキーなセックス(池上千寿子著、岩波書店)でいうミルトン・ダイアモンドのルール2のような考え方は、意外にむずかしいようです。

それでも、誤解した上で論破したつもりになる、天然系のわら人形論法はともかくとしても、科学的に確定はしなくても可能性があるなら心配だ、気をつけなければと考えるのは、意味のあることです。近年の心理学でも、悲観主義がもつプラスのはたらきが見なおされつつあります。39健康网にきょう出た記事、悲观主义者会活得更长久?では、7本立てのトップバッターですし、楽観主義者ではなく悲観主義者が意外に長生きする事実は、長寿と性格(H.S. フリードマン・L.R. マーティン著、清流出版)にもあります。

マキタスポーツとピアニート公爵の作曲論

きょう、お笑いナタリーに、マキタスポーツ“パクリ”問題の論考入念、サイン会は変装という記事が出ました。先月末に出たすべてのJ-POPはパクリである(マキタスポーツ著、扶桑社)の発売記念サイン会を取りあげたものです。

緊急出版だとしても早すぎるくらいに、ちょうど時事の話題にのったテーマをふくむ本のようです。時事とは、もちろんひとつは、佐村河内騒動です。ですが、この記事にはその名前を出しません。どう見てもあの人をいじった姿の写真のキャプションでも、書かずに回避しました。一億総ツッコミ時代(槙田雄司著、講談社)などを出したマキタスポーツの、今回は本名を出さない本であることとの組みあわせを意識したのでしょうか。

もうひとつは、ちょうど先月末から、J-POPの有名アーティストに「パクリ」疑惑がわいていることです。中でも、女子SPA!にきのう出た記事、きゃりーぱみゅぱみゅの新曲はパクリを超えた“確信犯的コピペ”?は、先のすべてのJ-POPはパクリであるを冒頭で提示して、まさにぴったりのタイミングです。この手の「パクリ」疑惑になる着想は、必ずしも意図的なものとは限らず、以前に認知心理学の新展開 言語と記憶(川﨑惠里子編、ナカニシヤ出版)で紹介した無意識的剽窃もかなりふくまれると思いますが、ネットでは悪意だとみなされてよく盛りあがる話題です。Togetterまとめの都知事選妨害か?「人工大雪」説を主張するヒトビトではありませんが、よくない事象は意図を感じさせやすいのでしょうか。

マキタスポーツは、「パクリ」だからと全否定する立場はとりません。どちらに「芸」があるかなどに関心を向けるようです。楽天womanに少し前に出た記事、パクリかオマージュか? 『黒子のバスケ』の『SLAM DUNK』酷似シーンでネットが紛糾!!でいう「リスペクトやオマージュの類」としての評価も考えるのでしょう。JENGA 世界で2番目に売れているゲームの果てなき挑戦(L. スコット著、東洋経済新報社)に、「模倣とは、心からの「お世辞」の一つの形式だと言われている。」とあるのを思い出しました。

そこで極論ですが、このマキタスポーツの「パクリ」論に、佐村河内騒動を「ピアニート公爵」森下唯が論じた、より正しい物語を得た音楽はより幸せである ~佐村河内守(新垣隆)騒動について~を組みあわせると、広くヒットするJ-POPと、クラシックの世界でいう「現代音楽」とが、同時代の対極に位置することが浮かびあがります。クラシック側では、「能力のある作曲家は(多くの)演奏家が演奏したくなるような曲、聴衆が聴きたいような曲を書こうとしない」、「自分の作品として、あえて過去の語法に則ったスタイルの音楽を書く人間は、現代にはまずいない」、なぜなら「つまらない、つまらない。使い古された書法も聞き飽きた調性の世界もつまらない。面白いものを、自分だけの新しい音楽を書きたい。」わけです。そして、あの「ゴーストライター」はもとから才能のある人だと評する声も出る中で、おとといのゲンダイネットの記事、ゴースト作曲家 新垣氏が18年間表に出られなかった理由で中川右介が、「現代音楽は、やっている人が1000人程度しかいない。一般のファンはほとんどいません。才能うんぬんの前に、一般性がなく評価はされない分野です。」と断言しましたが、そうなったのは「つまらない、つまらない。」からの帰結でもあるはずです。そういえば、SPA! 12月17日号(扶桑社)で鴻上尚史が、芸能は「肯定感」、芸術は「挑発」だと言いましたが、あてはまりますでしょうか。

佐村河内守の指示書と美談をほしがる人々

きょう、デイリースポーツonlineに、キダ氏 偽ベートーベンをメッタ斬りという記事が出ました。キダ・タローが地方局の番組で、佐村河内守をこき下ろした発言を記事化したものです。

しゃべるキダ・タローは、私は20年ほど前、「クイズ!タモリの音楽は世界だ」で初めて見て、タモリとのテンションのずれが奇妙だったおぼえがありますが、今もかくしゃくとされているようで何よりです。浪速の「モーツァルト」が偽「ベートーヴェン」をあつかう、まるでTOYOTA ReBorn「信長と秀吉」のような豪華な組みあわせですが、こちらのモーツァルトは怒り心頭です。さっそく「昔やったら打ち首、獄門」と、和風に斬りつけます。

「こんなん見破らなアカン!世の中、甘すぎる」も、ただの後だしとみる人もいると思いますが、正論ではあります。東京ブレイキングニュースにきょう出た記事、メディアが「障害者の美談に弱い」は本当か? ある地方紙記者の奇妙な体験は、「逆行」は「逆境」のまちがいだと思いますが、その「芸人の弟子」「足に障害」「日本一周」のストーリーに多くの新聞記者が釣られたお話のように、マスコミはこの程度の、裏をとればすぐぼろが出るものを、うたがわずに流してしまうのです。そして、そういう物語をほしがって恥じないお客の存在もあります。承認をめぐる病(斎藤環著、日本評論社)は、iPS細胞の虚偽手術騒動などを例に、うそをほしがる人々の存在を指摘します。Facebookでたびたび起こる、実話のつもりでわかりやすい美談を転載してアピールした人が、疑問点を突かれるとうそでもいい話だからいいのだと抵抗する展開も、それに近いでしょう。

佐村河内が発注時に示した指示書も、完全にこけにします。それでも、「こんなもん幼稚園児が書いた競馬の予想以下。ネコでも書ける。」、この表現は並ではありません。こんな短い文句にも、ふつうの人が罵倒するときにはまず思いつかない、ほかにないユニークさがあります。それなのに、エスプリや教養に満ちた高尚な表現ではなく、庶民にとてもわかりやすいのです。ひたすらにお茶の間へ向けた作品を書き続けたこの人ならではのセンスが、罵倒にまで光るのでした。なお、nikkansports.comにきょう出た記事、偽ベートーベン妻の母「いつかバレる…」によれば、その指示書までもが、佐村河内がほかの人に書かせたものである可能性があります。

怒りながらも、何も考えずにしゃべったわけではなさそうです。後のほうに、「番組のコメンテーター陣から、日本には本当にいい曲を評価する地盤がないのかと問われると「日本だけやなく、だいたいよそもそうやけど、佐村河内のせいでまた後戻りした」と音楽家として、怒りが収まらない様子だった。」とあります。日本で悪いことがあったときに、海外ではどうかが不明なまま、日本の悪いところ、日本人の悪いところと言いたがる人をときどき見かけますが、そこには乗りません。コメンテーター陣に「日本には」と誘導されても、「日本だけやなく、だいたいよそもそう」ときちんと打ち消して、怒るべきところとはきちんと区別したことに、好感を持ちました。適菜収オフィシャルブログの記事、綾戸智絵とリッチー・ブラックモアに学ぶ障害ビジネスは、2年以上前に今回の騒動にもかさなる議論を展開したものですが、「日本人は」とも言われながらも、苦難の物語で音楽が売れるのは国内外を問わないことがうかがえます。

甲状腺がん統計と地震予知とマルチタスクの害

きょう、asahi.comに、甲状腺がん、疑い含め75人 福島の子、県が調査という記事が出ました。きょうの第14回「県民健康管理調査」検討委員会での報告を報じたものです。

反原発運動に肩いれしていると言われてもしかたのない朝日新聞社ですが、この記事は冷静で、すなおに書かれた印象です。「結果がまとまった25万4千人のうち75人が甲状腺がんやがんの疑いがあると診断」、「昨年11月より検査人数は約2万8千人、がんは疑いも含めて16人増えた。」と、調査の分母を明らかにして数値を出したのは、とてもよいと思います。統計の基本的な考え方ができる人なら、巨大な調査であること、標本を万の単位で増やせば発見数の増加はあって自然なことがわかるでしょう。75人とあるのは、もう手術ずみの人も数えたのべ人数で、現在甲状腺がんの人の数ではありませんので、減ることはありませんし、がんは人類に昔から、原子力事故とは無関係にあるものですので、人間が住んでいれば世界中どこで調べても、のべ人数なら永遠に増えつづけます。なお、この75人には、手術したところがんではなかったと判明した人や、がんであったともなかったとも確定できなかった人も数えてあります。

増加数の直後に「県は「被曝(ひばく)の影響とは考えにくい」としている。」と書くと、被害者を無視する行政と思われそうですが、考えにくいといえる根拠まできちんと読んでほしいと思います。後の段落に、「チェルノブイリ事故で子どもの甲状腺がんが増えたのは、発生後4、5年からだったことなど」が理由としてあります。それならば今調べる必要はないと誤解されそうですが、ほんとうに増えるかどうか、どのくらい増えるかを知るには、比較対象があってはじめて、それと比べて増えたといえるので、きちんと基準を固めることが重要なのです。

同じものを、毎日新聞のウェブサイトは、福島第1原発:県民調査 甲状腺がんの子ども増えると報じました。うそを書いてはいませんが、事故と人数増とが結びついて見える記事タイトルにしてあるのは気になります。ちなみに、きょう見かけた記事で、もっとタイトルが不適切だったのは、山陽新聞のウェブサイトに出た、重度障害者の家族に独自支援 岡山県議会で知事表明です。特別児童扶養手当を独自に拡充するようなものかと思ったら、医療機関等への補助で、結果的に家族のメリットになるだろうというものでした。さて、毎日の記事は、標本数を示さず、タイトルのとおり増えている印象を強く持たせるものです。それでも、後の段落が、朝日の記事にあったものとはまた別の視点で、行政側が逃げているイメージとともに、原子力事故の影響ではない可能性も示唆するかたちです。「症状のない人も対象にこれだけ大規模な調査」はこれまでされず、陽性の定義を広げれば割合が増えるのは自然なことです。これまであまり考えられてこなかった「おとなの発達障害」は、啓発すれば数は増えますし、死別反応でのうつ状態もうつ病に入れることで、うつ病は増えるでしょう。

これらのように、正事例を数えるだけでは足りないことが、もっと世の中に広く知られてほしいと思います。その点でありがたいと思ったのは、zakzakにきょう出た記事、「思い込み」の前兆現象予測 科学的根拠は乏しいです。いきなり「心理学者が地震予知に取り組んだことがある。」とくるので、福来友吉がそんなこともと勝手に予想してしまいましたが、存命のきちんとした心理学者が登場して、とても安心しました。信号検出理論でおなじみの2×2の組みあわせを考えなければいけないことを指摘し、記憶のバイアス、錯誤相関の問題を論じて、最後を「気鋭の心理学者をがっかりさせているのが現状」と締めたのはこちらもがっかりでしたが、啓発になると思います。

現実には、大きな事態がないふだんのあれこれを毎日おぼえておくことは、なかなかむずかしいものです。ですが、つんくはそういう「観察力」を持っているのだそうです。日刊SPA!にきょう出た記事、つんく♂プロデューサーの仕事論「通勤中に観察力を鍛える」の後半が、その話題です。「僕は、自分の会社の部下にも伝えているんです。“昨日、会社から家に帰るまでの途中、何があったか言ってみろ”って。でも、みんなは覚えていない。“は?”って顔をするんですよ。」と言います。みんな「は」覚えていない、でも自分は、ということです。そして、「印象に残っていないことも、いかにすくい取ることができるか? そこが他人と差をつけるポイントだと思うんですよね」と主張します。中西香菜の「埼玉は安い」など、泣いて仕事を中断するほどかと思う一方で、印象がうすいこともとにかく忘れないつんく思想の影響だと考えると、納得できてしまう面もあります。

そのつんくの記事の前半はというと、作曲のやり方です。おととい書いた佐村河内事件の記事で触れた記事で、つんくがゴーストライターだのみの「作曲」をしているともとれる業界情報を書かれてしまったことを意識したアピールではないと、私は思います。曲なら自力でどんどん書ける、ゴーストなど不要と伝えたいとも解釈できるかもしれませんが、ゲンダイネットにきのう出た記事、全聾もウソ NHKも心酔した佐村河内守の凄まじい演技力にあるNHKスペシャルの疑惑の撮影エピソード、「まっさらな五線紙に音符を書く姿を撮影すればウソを見抜けたはずだが、取材班は「曲の完成」の知らせを受けながら、記譜の撮影は拒否され、12時間後に突然、机に置かれた譜面を撮影したという。」を考えれば、ひらめいて生み出していく過程よりも、あれもこれも調整して書いているという外形的なことばかりを知らせるのは、意識していない証拠ともいえます。

また、あれこれを並行して書くのは、職業作曲家ならめずらしいことではありません。サンデー毎日 12月29日号(毎日新聞社)にある池辺晋一郎の体験談には、一時は口をきいてもらえなかった三善晃から、2曲を同時に書くようすすめられ、自分もそうしていると言われたとあります。ですが、同時にあれこれをするのは、一般にはすすめられません。YOUNG BUDDHA 120号にある大川隆法の書き方のまねは、凡夫には無理でしょう。また、自閉症の本(佐々木正美監修、主婦の友社)に「同時に2つのことをしようとすると混乱します」とあるような、自閉症的な特性があるならもちろんですが、少し前にもてはやされたマルチタスクは、本人はいい気分でも成果には逆効果であることがわかってきました。ライフハッカー日本版の「マルチタスク」は本当に悪いのか、科学的に解明してみた、Gigazineのマルチタスクによって生じる精神的・身体的問題がさまざまな研究から判明をご覧ください。さらに、前者の記事では、音楽を聴きながらの作業には特に問題がないように書かれましたが、The Oxford Handbook of Music Psychology(S. Hallam, I. Cross, & M. Thaut編、Oxford University Press)の後ろのほうの章によれば、悪影響もあってそう単純ではありません。私もそうですが、凡夫ならばしかたがありませんので、20年ロングセラーのカレンダー、ひとりしずか(三和技研)の、19日のところのことばをかみしめましょう。

東北楽天とはたらかないアリとみこしの名言

きょう、ヨミドクターに、「社会的手抜き」なぜ起きる?という記事が出ました。社会的手ぬきをテーマに、東北楽天、ブレスト、はたらかないアリといった話題をならべた、親しみやすい読みものです。

楽天球団の例は、最初からいきなり社会的手ぬきの応用的な当てはめになっています。一般には、ほかの人といっしょの状況と、一人だけの状況とで比較して、個人あたりの出力で前者が後者を下回るかたちで示される現象です。その原因になる成分が、田中将大の先発といっしょかどうかにもある程度対応すると解釈できることから、広い意味で社会的手ぬきとしてあつかったのでしょう。なお、田中先発の次の試合と、次の次の試合との勝敗の比のずれで、現象の存在をうかがわせていますが、無理筋なのを承知で、検定をかけてみました。結果は、ふつうのカイ二乗検定でp=.102、イェーツ修正ありのカイ二乗検定でp=.173、フィッシャーの直接確率計算の両側確率もp=.173、いずれにしても有意でないことになりました。

ブレインストーミングではなく「ブレーン・ストーミング」の段落をはさんで、最後ははたらかないアリのお話です。ここで使われた知見は、「北海道大准教授(動物行動学)の長谷川英祐さんが働きアリの集団を観察したところ、働いているのは3割で、長期的に見ても2、3割はほとんど働いていなかった。」というものです。はたらかない割合は、ほかにも2割だったり、1割だったりと、まちまちで出まわる話題ですが、研究によって報告された割合が異なることが、その根本にあります。同じ研究者のグループのものでも、たとえば日経電子版の記事、働かない「働きアリ」の正体は 常に1割が出遅れ 北大チーム、新たな性質発見には、「労働の回数が1割以下(7回以下)と、ほとんど働かないアリが10%いた。労働の回数が4割以上(28回以上)で特に熱心に働くアリは10%以下だった。」とあります。「ほとんど」はたらかないと判断する基準、行動カウントのルール、調査の対象や時期などで、この数値がある程度変わる、そして変えられることは、心理学者ならすぐわかります。ですが、以前に2・6・2の法則の記事も書きましたが、あのようにきちんと数値で決まったもののほうが、世間では科学的で有用な知見に見えるのでしょう。OKWaveにきのう出た質問記事、危機感とモチベーションの関係についても、そのあたりをうかがわせます。ですので、たとえば「メラビアンの法則」は、ポップ心理学の本では定番で、最近では10年後の自分のために 今すぐ始めたい36の習慣(松富かおり著、すばる舎)が、「最近では、「メラビアンの実験」というものが注目されています。」と書きましたが、最近に限らず、心理学の教科書や学術書にはまず見かけません。ですが、「マジカルナンバー7±2」は、おかしな解釈であつかった心理学のテキストもかなりあります。治療外要因が4割などとする、心理療法の効果の割合のお話は、わが国では昨年に問題が広く知られるようになりましたので、消えるのは時間の問題でしょう。まだ知らない方は、丹野義彦・東京大学教授によるLambert(1992) 心理療法の効果の割合 批判を、赤字のところだけでもよいので、ご覧ください。

杉森純の署名の後に、社会的手ぬきを説明するかこみがあります。そこの例示では、「祭りのみこし担ぎが典型で、実際に担いでいる人は全体の何割かに過ぎない。」とあります。こちらは数字を出さずに、「何割か」です。

みこしのたとえで、zakzakにきのう出た記事、舛添氏の強さのワケと細川氏が支持を一気に伸ばせない理由 都知事選を思い出しました。失速ぎみの陶芸家ですが、政治評論家の浅川博忠によれば、「細川陣営は雑居ビル状態で、旧日本新党の面々が同窓会をやっているような雰囲気で、支援態勢もまとまりがない」そうです。みこしとして、文字どおりかつぎ出しておいて、ろくにかつげていないわけです。週刊朝日 2月14日号(朝日新聞出版)によれば、共産党幹部が細川側の支持グループを勧誘して引きはがしているようですし、ずいぶんふんどしがゆるんでいます。今回も裏にかくれている小沢一郎の「みこしは軽くてパーがいい」は、仁義なき戦い(深作欣二監督)の「みこしが勝手に歩けるいうなら歩いてみいや」と何かもうひとつ足して「三大みこし名言」と呼びたいくらいの名言ですが、都知事選に関しては、週刊文春 1月23日号(文藝春秋)で適菜収が、細川を「神輿は軽くてパーはダメ」と斬りました。それでも、あれから20年がたって、またもかつぐ価値があるとされたところは、興味深いと思います。アイドル新党(原宏一作、徳間書店)では、久々に選挙にかかわることになった「照さん」が、政治家はみこしにかつがれるのも才能だと言います。