きょう、お笑いナタリーに、マキタスポーツ“パクリ”問題の論考入念、サイン会は変装という記事が出ました。先月末に出たすべてのJ-POPはパクリである(マキタスポーツ著、扶桑社)の発売記念サイン会を取りあげたものです。
緊急出版だとしても早すぎるくらいに、ちょうど時事の話題にのったテーマをふくむ本のようです。時事とは、もちろんひとつは、佐村河内騒動です。ですが、この記事にはその名前を出しません。どう見てもあの人をいじった姿の写真のキャプションでも、書かずに回避しました。一億総ツッコミ時代(槙田雄司著、講談社)などを出したマキタスポーツの、今回は本名を出さない本であることとの組みあわせを意識したのでしょうか。
もうひとつは、ちょうど先月末から、J-POPの有名アーティストに「パクリ」疑惑がわいていることです。中でも、女子SPA!にきのう出た記事、きゃりーぱみゅぱみゅの新曲はパクリを超えた“確信犯的コピペ”?は、先のすべてのJ-POPはパクリであるを冒頭で提示して、まさにぴったりのタイミングです。この手の「パクリ」疑惑になる着想は、必ずしも意図的なものとは限らず、以前に認知心理学の新展開 言語と記憶(川﨑惠里子編、ナカニシヤ出版)で紹介した無意識的剽窃もかなりふくまれると思いますが、ネットでは悪意だとみなされてよく盛りあがる話題です。Togetterまとめの都知事選妨害か?「人工大雪」説を主張するヒトビトではありませんが、よくない事象は意図を感じさせやすいのでしょうか。
マキタスポーツは、「パクリ」だからと全否定する立場はとりません。どちらに「芸」があるかなどに関心を向けるようです。楽天womanに少し前に出た記事、パクリかオマージュか? 『黒子のバスケ』の『SLAM DUNK』酷似シーンでネットが紛糾!!でいう「リスペクトやオマージュの類」としての評価も考えるのでしょう。JENGA 世界で2番目に売れているゲームの果てなき挑戦(L. スコット著、東洋経済新報社)に、「模倣とは、心からの「お世辞」の一つの形式だと言われている。」とあるのを思い出しました。
そこで極論ですが、このマキタスポーツの「パクリ」論に、佐村河内騒動を「ピアニート公爵」森下唯が論じた、より正しい物語を得た音楽はより幸せである ~佐村河内守(新垣隆)騒動について~を組みあわせると、広くヒットするJ-POPと、クラシックの世界でいう「現代音楽」とが、同時代の対極に位置することが浮かびあがります。クラシック側では、「能力のある作曲家は(多くの)演奏家が演奏したくなるような曲、聴衆が聴きたいような曲を書こうとしない」、「自分の作品として、あえて過去の語法に則ったスタイルの音楽を書く人間は、現代にはまずいない」、なぜなら「つまらない、つまらない。使い古された書法も聞き飽きた調性の世界もつまらない。面白いものを、自分だけの新しい音楽を書きたい。」わけです。そして、あの「ゴーストライター」はもとから才能のある人だと評する声も出る中で、おとといのゲンダイネットの記事、ゴースト作曲家 新垣氏が18年間表に出られなかった理由で中川右介が、「現代音楽は、やっている人が1000人程度しかいない。一般のファンはほとんどいません。才能うんぬんの前に、一般性がなく評価はされない分野です。」と断言しましたが、そうなったのは「つまらない、つまらない。」からの帰結でもあるはずです。そういえば、SPA! 12月17日号(扶桑社)で鴻上尚史が、芸能は「肯定感」、芸術は「挑発」だと言いましたが、あてはまりますでしょうか。