生駒 忍

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人間の言語情報処理の能力と保守化する若者

きょう、琉球新報のウェブサイトに、『音とことばの実験室』 言語や音楽のしくみに迫るという記事が出ました。

自社で出した、音とことばの実験室(高良富夫著、琉球新報社)を紹介するものです。ことばの実験室 心理言語学へのアプローチ(川﨑惠里子編、ブレーン出版)とは異なり、こちらは全24話からなる「ショートコラム集」です。

第1部は、「機械が捉える物理的な音と、人間が聞く心理的な音との違いの不思議について述べている。」そうです。最近ですと、Journal of Sonic Studies第6巻のThe Harley effect: Internal and external factors facilitating positive experiences with product soundsのような例もありますし、古くて新しいテーマです。

第2部は琉球方言をあつかい、「日本語の母音が「あいうえお」であるのに対して、琉球語は「あいう」の三つである」とあるそうです。「琉球音階が7音階ではなく、5音階であることも考えると興味深い話である。」という評価は、間をつなぐ論理が落ちているようで、よく理解できませんでした。一般に、日本の伝統音階なら、田舎節も都節も、5音音階として理解されます。

第3部には、「人間と動物の違いは言語とその処理能力にあることを示す話題」があるそうです。PROJECT NIM(J. Marsh監督)で取りあげられた「ニム・チンプスキー」も登場するでしょうか。なお、「人間のクイズ王に勝利したIBM社の言語情報処理システム「ワトソン」」も登場するとのことですが、あの名前には、心理学の感覚からは、チョムスキーが行動主義の限界を突いた言語の情報処理の分野で、行動主義をひらいた人物と同じ名前という皮肉が気になってしまいます。

「また、若い方々や中高生が音声や言語だけでなく、琉球ことばや琉球音楽など、日本各地に残るお国ことばや地方の音楽にも関心を寄せる一助となってほしい。」、これは同感です。「日本各地に残るお国ことばや地方の音楽」の例がかたよっているのは、掲載紙を意識したリップサービスでしょう。若者殺しの時代(堀井憲一郎著、講談社)は、これからの時代は日本の伝統へ向かうように、若者に提案しましたが、欲しがらない若者たち(山岡拓著、日本経済新聞出版社)は、すでに若者には伝統回帰のうごきがあることをまとめました。また、ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体(原田曜平著、幻冬舎)や、ヤンキー化する日本(斎藤環著、KADOKAWA)といったヤンキー論は、保守的で日本らしいものごとを好む地方の若者の存在を、表舞台に出しました。そして、この風向きは、地方だけではありません。東洋経済ONLINEの記事、なぜ今人々は都心に住居を求めたがるのか?は、「今、東京の東側の街のブランドイメージは、昔と比べて西側との格差がなくなってきています。今度、千代田区で猿楽町を神田猿楽町、三崎町を神田三崎町にと、「神田」の名前を復活させる案が出ているように、むしろ「下町っぽさ」が日本的な伝統であったり、江戸文化に近いというブランドイメージをつくれる時代です。」と指摘します。では、音楽はどうなるでしょうか。思春期の親子関係を取り戻す 子どもの心を引き寄せる「愛着脳」(G. ニューフェルド・G. マテ著、福村出版)も指摘するように、世代の異なる家族の間で同じ音楽を楽しめないという分断は、若者はいつの時代も親世代が顔をしかめるような音楽を好むためではなく、最近につくられたものにすぎないのですが、伝統回帰はこの分断に、終止符を打つでしょうか。

給料日に来る社長と「無責任一代男」の政治

きょう、新刊JPに、社長がいつもいない会社が潰れない理由という記事が出ました。

「『任せきりでも10億円!週休5日社長の 任せる力』(すばる舎/刊)は、 仕事を上手に「任せる」ことで、部下の自発的な成長をうながし、チームとして大きな目標をに向かうための方法が明かされています。」とあって、文法やスペースの使い方に引っかかりはしますが、任せる力(真藤昌瑳熙著、すばる舎)の著者へのインタビューです。また、「バイスティック」7原則の応用の記事で触れたような、タイトルからはわからない、途中までの記事です。

永守重信ほどではなくても、一番はたらいているのが社長という会社は、どこにでもあります。トップがそうだからみんなついていくのだと、よくいわれるものです。ですが、このお話はまったくの別世界です。「指示待ち」撲滅! デキる社員のつくり方(日経トップリーダー編、日経BP社)は、スケジュールはがら空きで、それでいて雑務はしない平成建設の社長を、好意的に取りあげましたが、それよりもさらに下です。本のタイトルには週休5日とありますが、「実は週二日も行ってないんです。」「今月は一回出社したかな(取材日は9月下旬)。あとは給料日くらいですね。」とのことです。8月の広島土砂災害救助の首相視察をめぐって、トップが現場に行く必要性が議論になりましたが、ここはさまざまな考え方があるところです。わが国では、作家や俳優が国のトップになるのはまだでも、タレント性あふれる人物が知事に選ばれることは、ここ20年足らずでふつうのことになりました。その場合に、知事が知事室にはあまり行かず、外にばかり出ているという指摘が、批判的に行われることがあります。一方で、それもその人を選んだ民意のうちと割りきるだけでなく、トップは大所高所から決断や号令をかけることと、その成果が思うように出なければ、金枝篇 上(J.G. フレイザー著、筑摩書房)の「王殺し」ではありませんが、責任をとることとが仕事で、成果さえあげれば手段は問わないのが合理的でもあります。出張は多くても出庁はという点の批判も多かった石原慎太郎は、このままでは財政再建団体にとも心配されていた東京都を、みごとに立てなおしました。都財務局が4月に出した、東京都の財政状況と都債(資料編)の9ページや11ページを見ると、平成11年の就任から、破綻への道がとどめられ、反転へと進んだことがわかります。禁断の人員削減に手をつけただけだと思う人は、10ページで、石原以前や全国の傾向と見くらべてください。それでも、知事が毎日庁内を回って、こまめに電気を消したり裏紙を使うよう見はったりしていれば、もっと財務を強くできたはずなのに、ゆるせないと言いたい人はいるのかもしれません。

関連して、「それでわかったことですが、よほどのトラブルが起こった場合は別として、上司がいないから仕事が回らないことなんてまずありません。だって、人事異動で何も知らない上司が来ても会社は回るでしょう?」ともあります。石原都政の前が、それにより近かったかもしれません。青島幸男は、議員として「政治」家の経験はあっても、立法府の、それも参議院のほうだけ、しかも首相指名は必ず棄権したほどで、行政にかかわる経験は何もないまま、都政をにぎりました。ですが、世界都市博覧会中止の無理を通したくらいで、あとはよきにはからえとばかりに、よけいな手は出さなかったので、赤字を出しながらも、都政は回ったのでした。1期で「無責任一代男」は「ハイそれまでョ」となり、参議院にも戻れないまま亡くなりましたが、東京オリンピックの開会からちょうど50年のきょう、2度目のオリンピック・パラリンピックへ向けていきおいづく東京を、天国からどんな思いで見ているのでしょうか。

日本男子が勝てない理由と「災害地でうなぎ」

きょう、YOMIURI ONLINEに、(下)誰が最初に2時間の壁を破るのか?という記事が出ました。8日前に出た(上)優れたランナーが持つ3つの特質に引きつづいての、42.195kmの科学 マラソン「つま先着地」vs「かかと着地」(NHKスペシャル取材班著、角川書店)の書評です。

ゲブレシラシエ、マカウ、キプサングと取りあげてきて、「マラソンで勝つためには、いかに「心」の領域が大きな比重を占めているかを実感させられた。」、ここが引っかかったようです。「最後の最後で精神性の領域に踏み込むのであれば、「42.195kmの科学」というタイトルが説得力をなくす。」のだそうです。心理学は科学ではないと言われているような気になり、いちいち腹をたてたりはしませんが、がっかりではあります。

「昨今の日本男子ランナーがなぜ世界で勝てないか?」「その答えは作中冒頭のゲブレシラシエ取材の中に」として、世界最貧国で「高橋尚子が、有森裕子が、このような豪邸に暮らしているだろうか?」と言わせるほどの大豪邸をもち、国のヒーローとなっていることに着目します。そして筆者は、「科学でもなんでもなく、マラソンという競技に対する国民性そのもの」に、強さの根源を見いだします。

いまの日本で、国民の誰もがあこがれて、手がとどけばあとはどんなに豊かなくらしもゆるされる職業は、ありますでしょうか。日本に限ったことではないかもしれませんが、他人に言えないようなお仕事ではなく、むしろ世間ではかっこいいと見てもらえるものであっても、いいお金が入ることだけは、かくさないといけないような風潮も感じます。日経BPネットにきょう出た記事、政府が許す誤報、許さない誤報で、和田秀樹は「私の臨床心理の大学院の学生やOBの臨床心理士とともに」行うボランティア活動のお話から書き出して、「週刊朝日」での連載でヴェロニカ・ゲリン(J. シューマッカー監督)を紹介する中で、「日本の新聞記者は、世界でいちばん給料をもらっているのに、いちばん殺されないという。」と書いたら編集部から撤回を求められ、「私は、日本の新聞記者が湾岸戦争などの際にも危険地域に入らず、またニューヨーク・タイムズの倍も給料をもらっていたのを知っていたので、それに応じず、「ボツにするならボツにしたらいい、その顛末記を週刊誌に語るから」とつっぱねた。結果的に記事は載ったが、次の月にクビを言い渡された。」と書きました。また、数ある日本の新聞社の中でも、朝日は特にということもあるでしょう。週刊新潮 9月25日号(新潮社)の西原理恵子のまんがも、お金だけではない格差までえぐっていて、「災害地で水もないのに朝日だけうなぎ弁当」のこまには笑いました。

湖南市の「郷土資料集」と見えない加護亜依

きょう、京都新聞のウェブサイトに、地域の偉人や伝承紹介 滋賀・湖南市教委が冊子発刊という記事が出ました。

「身近な地域の歴史や伝承、先人の努力や現在も活躍する住民の取り組みなどを分かりやすく紹介している。」とのことで、「社会福祉に貢献した糸賀一雄さん」も登場します。糸賀一雄生誕100年フォーラムの記事でも取りあげた偉人ですが、「社会福祉に貢献した」というゆるい説明だけでなく、さんづけなのも気になりました。気やすく呼ぶなということではなく、故人なのにという点でです。やきもの検定テキストの記事で触れた大樋年朗のあつかいではありませんが、わが国では一般に、存命かどうかで人物の書き方が変わり、「さん」や「氏」をつけるかどうかが左右されがちです。京都新聞は、すでに亡くなっている著名人も、さんづけでそろえる方針なのでしょうか。ですが、明らかに故人である龍池藤兵衛は、呼びすてです。

発案者は、「道徳の資料として活用できるように編集されたのは県内でも珍しいと思う。」と評します。お目にかかったことはありませんが、おそらく今も心身ともに健康な方だと思いますので、广州日报にきょう出た記事、戳穿别人的“夸大妄想”要谨慎にあるようなことはなく、むしろ謙虚に見えます。比較の基準が「県内」、それも滋賀県なのです。週刊ポスト 9月19・26日号(小学館)でも明らかにされたように、滋賀は地域紙のシェアが小さい土地で、「みんなの滋賀新聞」の離陸直後の墜落もまだ記憶に新しいでしょうから、京都新聞側やその読者層を考えて、こういうコメントをしたのかもしれません。

冊子のタイトルは、記事本文では「伝えたい故郷の話 心の教育・郷土資料集」となっています。写真にある表紙を見ると、そのうち後半は副題で、ダッシュにはさまれています。ですが、写真のキャプションは、「湖南市の先人の功績や地域の歴史などをまとめた「郷土資料集」」です。副題の、しかも後ろ半分を切りだして、この冊子の呼称に使う、あまり見かけないやり方です。もちろん、一般名詞として、郷土資料集ということばが使われることはありますが、そうであればかぎかっこは不要です。揶揄的な意味もふくめて、文章を書くのがラクになる100の技(佐久間功著、技術評論社)の「カギカッコの基本」の3番目になるとも考えにくいです。

ですが、ふしぎなキャプションには、もっと上があります。SST講話の記事で取りあげたものもそうですし、きょうはさらにおかしなものが出ました。スポニチアネックスからlivedoorニュースへと転載された記事、小籔「ド素人が黙れ」騒動を“清算”コヤソニで加護、しばくぞおじさん和解です。「加護亜依(右)と握手するしばくぞおじさん(左)。中央は小籔千豊」とあるのですが、私には小籔のアップしか見えません。写真拡大をクリックしても、小籔がさらに大きな顔をするだけです。Pouchに1年前に出た記事、りんかい線の「マナー向上」ツイートが謎すぎると話題/3人がけの座席にゆるキャラが2体…マナー違反ちゃうのん?のように、実はとても小さな姿で両側からはさんでいるのかとも思いましたが、まだ見つけられていません。

ミラー論文の和訳とスパーリング論文の著者

きょう、ドリームニュースに、認知心理学の広がりと深み「有斐閣 認知心理学ハンドブック」(iOS版)を新発売という記事が出ました。以前に、たとえの記事で、有斐閣 心理学辞典(ロゴヴィスタ)の販売再開について触れましたが、こちらは同じメーカーからの、新発売のお知らせです。

昨年末に発売された認知心理学ハンドブック(日本認知心理学会編、有斐閣)の、さっそくの電子化です。書籍では字が少々小さかったのですが、画像を見ると見やすそうで、よい印象です。ですが、何も考えずにすぐ冒頭のところを使っただけなのだと思いますが、このページには直してほしかったところがいくつかあり、私としては気になってしまいます。コロンの後ろにスペースを空けないなど、こまかい書き方に関してもありますが、内容については2点を挙げたいと思います。

1点目は、ミラーが示した保持容量だというものです。「人間は7±2のチャンクしか保持できない」ことを示したとされますが、この書き方ではこれより小さい量でもうまくいかないように読めることはともかくとしても、ミラーが分析してはっきりこの量を算出したわけではありません。英語のレビュー論文なので読まれにくいのかもしれませんが、記憶容量に関する部分はその一部ですし、すでに心理学への情報科学的アプローチ(G.A. ミラー著、培風館)に、その1956年論文の和訳も出ています。せめてタイトル以外も読んでもらえれば、言われるほど明確な主張ではなく、ぼんやりしたものであることが、はっきりとわかるはずです。そういえば、心を上手に透視する方法(T. ハーフェナー著、サンマーク出版)には、これに関すると思われる「人間は「七桁まで」の数字しか覚えられない」という節があり、この書き方でもう適切でない予感がしますが、ミラーは「7プラスマイナス2」以上では、「自動的に、いわば自己防衛のために、頭がぼんやりしてくる」と考えたことになっています。

2点目は、2段落目で、「スパーリングらは1960年に注意過程を含む認知モデルを提唱した。」とあるところです。有名なモノグラフ、The information available in brief visual presentationsは、スパーリングの単著ですし、半年前の記事で取りあげた佐村河内の指示書のようなことも聞きません。同じ年に、これに相当する内容を、どこかで連名でも発表していて、そちらを指したのでしょうか。それでも、こういう本ですので、モノグラフのほうを挙げるべきだと、私は思うのですが、いかがでしょうか。ちなみに、サイエンスに載った、同じ年の別内容の論文、Negative afterimage without prior positive imageも、スパーリングの単著です。