きょう、BLOGOSに、【寄稿】2014年バラエティは指針を失い流れてゆく。ニコ動の開票特番でビートたけしが見せた民放では見せられないおもしろさの本質 - 吉川圭三という記事が出ました。
「ある知的情報バラエティ」が、「最先端の科学的知識を笑いに包んで見せる番組」だったのが「一部グルメ番組に変身していた」ことから書き出されます。「渋谷系」復活の記事で触れたように、文化系女子向けのファッション誌も食に浸食されてしまうわけで、メディアでの食べものの力は相当なものです。地びき網が人気コーナーに化けるのです。それでもなお大すべりしたアイアンシェフも、相当だったといえそうです。
そして、いまのテレビ局のスタッフが「怪しくて・変な人」ではなくなってきたことに、問題の本質を見いだします。「テコ入れ企画としてラーメンやダイエットの特集」、「人気者「ふなっしー」の起用」、「芸能人の悲惨だった過去の話は数字を持っている。」「グルメ・ダイエット・人気アイドル・お笑い芸人・面白実話・どっきり・ランキング・ひな壇・YOU TUBE映像。」、どれも見なれていて、無難で、くだらない素材の山に、これではまるで、いまのテレビのようではないかとあきれましたが、いまのテレビの話題なのでした。
「他の人気テレビ番組のいいとこ取り」、「こうした“若手”たちが全てのテレビ局で『テレビ番組を基にして新しくない新番組を作る』状態」、「似たような番組が乱立する状態」、結局「「数字を見込める」アイテム」を組みあわせれば、大失敗はしにくいでしょう。試行錯誤の中で、だめなものは絶えて、よいものが残り、組みあわさっていくのは、遺伝的アルゴリズムのようです。すると、「創造力のない若者」が増えて突然変異が減ったために、おかしな初期収束でループしているようにも思えます。Glittyにきょう出た記事、心理学から見る「出世しない男性」の休日の過ごしかたによれば、同じことを日々くり返す男性は出世しないようですが、本人が上向かないだけでなく、会社や業界全体がかたむいてしまいそうです。「実は新しい「テレビを創造する」デットリミットはすでに来ているのである。」とあるように、環境変化に適応する大進化ができないまま、メディアの恐竜は、恐竜の運命をたどるのでしょうか。なお、「デットリミット」という、[d]の発音のところが[t]のようにカタカナ化される、日本語らしい変化がついています。その逆は、なかなか起こりませんが、最近ではるるぶFREE ロマンスカー箱根・小田原Vol.39が、Lunch caféそううんに関して、「オリジナルハーブソルトで焼きあげたローストビーフをたっぷりはさんだ香ばしいバゲッドサンドがおすすめ。」と書きました。
さて、そうなったことを学歴と関連づけて、「ある超一流大学を卒業した若者が私の班に入って来たときであった。」というお話が紹介されます。「そして1時間後、宴会場はなんと「下ネタ」の嵐になっていた。彼を中心として。」「下ネタにも芸やセンスがあれば面白いのだが、ただエゲツナイだけ。」だったそうです。大学名は明かされていませんが、オックスブリッジから日本のテレビ局とは人生の失敗だろうに、自分が中心になれる場があって救われたろうと、同情的な想像をする人もいそうです。
ですが、「勉強ばかりして一流大学に入った彼の中にはもともとサブカルチャー・メインカルチャーに関する引出しはない。」、こういう人では困ったものです。メインカルチャーとサブカルチャーとの大きな対立構造は失われたとはいっても、メインもサブも、両方ともない人が、カルチャーを発信するテレビの仕事につくのは、奇妙に思えます。それとも、勉強ひとすじの人には、勉強の世界が、メインに見えているのでしょうか。こういう人から、「最先端の科学的知識を笑いに包んで見せる番組」が提案され、視聴率がふるわずに「一部グルメ番組に変身」する失態につながるのかもしれません。
「先日も同年代の出版関係者と会ったとき、メディア業界における「基礎教養」の話になった。彼は『キャロル・リード監督の「第三の男」ぐらい知らないと・・・』と言っていた。」そうです。女性セブン 1月8・15日号(小学館)で、1500万円もの慰謝料を、よりによって南里康晴から求められていると書かれた安藤美姫の、なおかくされている娘の父親の記事で触れた名画が登場します。もちろん、この作品が唯一絶対ではなく、「なにか無茶苦茶、内外のミステリー小説を読んでいるとかコンピューター・ゲームについて鋭く分析できるでも」、いろいろな方向性が考えられるでしょう。それでも、東野圭吾はあれほど読まれても、海外のミステリー小説も読む人ははるかに少なそうです。読まない人に、東野にあって海外ミステリーに期待できないもの、海外ミステリーのいやなところを聞いてみたい気もします。また、こども電話相談室の変化の記事で取りあげたように、教養自体が、もう目を向けられなくなっていることもあるでしょう。
「チャップリンの名前も知らない一流大学卒の男が試験を通過し「お笑い」をやりたいと言ってたまたま現場へ配属される。」、配属させたほうが悪いと言えばそれまでかもしれませんが、筆者はそうは書きません。「実は私は2014年の9月から古巣の日本テレビからドワンゴに完全出向したのだが、出社一日目、川上量生会長から「ドワンゴでは吉川さんが今までやった事が無いこと、つまり報道とドラマをやって下さい。」と言われた。」ことと重なる部分があるからでしょうか。
「テレビ以外の小説や映画や個人体験を基にした番組があっても良いのに。」、小説からであれば、近年の日本映画界ではおなじみで、テレビでもめずらしくないやり方です。まんが作品にもとづくものも含めて、「原作もの」と呼ばれます。
「サブカルチャー発信地としてのテレビがネット・アニメ・マンガ・ゲーム・スマホ等の通信機器にその座を奪われていると近年感じる。」、覚猷か定智かというところまでさかのぼらなくても、明らかなオールドメディアのまんがにまで押されているのでは、先が思いやられます。一方で、現代的な機器にかなわないのは、ある程度しかたがないでしょう。あちらの依存性は強力で、抜けられません。毎日新聞のウェブサイトにきょう出た記事、特集ワイド:「IT断食」一度はいかが 読書、景色…「ちょっぴり豊かな」生活 宿泊プランもにある「断食」体験のようなのどかな展開ではなく、コントロールのきかない、おそろしい離脱症状が起こることもあります。インターネット・ゲーム依存症 ネトゲからスマホまで(岡田尊司著、文藝春秋)には、やめたら幻覚や妄想におそわれ、クエチアピンが奏効するところまで統合失調症にそっくりの症状を起こした症例があります。脳がおかされる「デジタル・ヘロイン」なのです。また、毎日の記事には、「「私がケータイを持たない理由」の著者でジャーナリストの斎藤貴男さん(56)は「携帯やスマホを持つと、利便性を得る代わりに魂を売り渡してしまう気がするんです」と語る。」とあります。教育 2014年11月号(かもがわ出版)では、糸岡清一という人が、スマートフォンを「逆に外から自分をコントロールされるリモコン」と表現しました。