生駒 忍

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失敗を引きずらない武井咲と韓国系のつながり

きょう、ブッチNEWSに、恋愛禁止の御法度を破った武井咲が干されないこれだけの理由という記事が出ました。レオタードを盗んだ自称「武井咲」の記事で取りあげた人とは異なり、こちらの「御法度」はほんものが起こした問題です。

「干されることは100%ないですよ。そんなことをすれば、出演中のCMや広告のイメージが悪くなるだけですからね。」という、芸能ライターの推測が紹介されます。アイドル的なたてまえを前面に出した売り方ならまだしも、「武井と言えばかつて「恋愛には積極的」「彼女がいても好きなら奪う」などと発言したことで知られる。」のですから、大さわぎするほどではなさそうです。今どき、恋愛禁止にそこまで必死になる時代でもないかもしれません。そういえば、FLASH 2月3日号(光文社)の倉田真由美のまんがの「見た目がいちばん」で、女優ではありませんが、もう「清廉性」でもないことがあつかわれました。

「親友の二階堂ふみや成海璃子らも含め、韓国の男性芸能人との繋がりの強さも指摘される中にあって、下手に報道されるなら、日本人男性のほうがいいという事務所判断もあったと伝えられています。」とあります。最近では、篠崎愛の騒動もありましたし、リアルライブの記事、関根麻里 早くも離婚か 韓国人の夫にDV説がマン延中に、「彼女は昨年初め一部マスコミが行った「好感度タレント」ランクで5位だったが、今年は圏外となった。」とあるほどにはならなくても、批判的支持の戦術というと大げさですが、よりましなものをとる感覚はあったのかもしれません。

「事務所としても前述のようにマイナス報道が尽きないなか、ことさら問題を大事にすることなく、全員野球で一丸となって乗り切っていくというのがベストの方策なのだろう。」と締めます。前向きで、大手事務所の話題の無難なまとめ方としても、「ベストの方策」でしょう。女子学生のための就活バイブル 2016年度版(日経BP社)で武井自身が、「失敗を引きずるより、『済んだことは忘れて次を頑張ろう』と考えたほうが成長できますから」と言っていることとも整合します。

有村架純の下積み時代と勉強に集中できる音楽

きょう、テレビドガッチに、有村架純「私には特徴がない?」と下積み時代の苦悩を告白という記事が出ました。

有村は、「「事務所に入る前も入ってからもことごとく落ちていて……あの時は“私には特徴がないから?”“どうやったら目に留めてもらえるんだろう?”などと本当に悩みました。だけど、今の自分自身をどのように伸ばしていけばいいかを考えることにしたんです」と下積み時代を振り返った。」そうです。BizLadyにきょう出た記事、げ、言ってたかも!? デキる人は「職場で絶対使わない」NGフレーズ5つに、「他人をどうこう言う前に、自分の実力をつけることが先である。むしろ、“あの人はすごい”と他人から言われる人になるようにしたい。」とあることを思わせます。ここは、CM NOW 2014年1月号(玄光社)で有村が、「なんかすごい」「なんかいいよね」と言われる役者になりたいと言っていたこととも符合します。

「有村も「確かに。私もテスト勉強は音楽を聞きながらした方が集中できました」と同意」、これは個人差も、曲によるちがいもあり、意見がわかれるところです。子どもの自己評価では、メタ認知の発達とのからみもあります。おとなの自宅学習なら、そこは改善されますが、The Oxford Handbook of Music Psychology(S. Hallam, I. Cross, & M. Thaut編、Oxford University Press)によれば、体系的な研究知見はまだ出されていないようです。

「リズムネタ」のつまらなさと暗いフォーク

きょう、BLOGOSに、<短すぎる賞味期限>8.6秒バズーカ「ラッスンゴレライ」はお笑いにとっては死に至る劇薬という記事が出ました。

女性が男性に求めるステータスの記事の最後に紹介したものではありませんが、タイトルを1文字でも短くする意図ではないと思います。本文でもずっと、最後の長音記号を落として書いていて、当人のねたの書きおこしでまでそうしているので、意図をもってのことでしょう。こんな芸人はのびない、長続きしないという、放送作家としての確信の表現でしょうか。

「心理学の分野には「単純接触効果」という言葉がある。これは、別に気にならないものや、ふだんなら無視してしまうようなものでも、何とも目にしたり耳にしたりしていると親しみや、嫌悪感などの関係性ができてしまうという考え方のことである。」、「嫌悪感などの関係性」までこの効果に入れるかどうかはともかくとしても、「ふだんなら無視してしまうような」こんな地味な用語が、心理学の世界の外でも「目にしたり耳にしたり」されるようになってきて、「何とも」ふしぎな気持ちです。ぜひ、単純接触効果研究の最前線(宮本聡介・太田信夫編、北大路書房)も売れてほしいと思います。

飽和して続かなくなるのは、「リズムネタの中に入れ込まれている「しゃべり」が、実は、よく吟味すると「ちっともおもしろくない」からだ。」そうです。そして、「ラッスンゴレライ」の書きおこしを示して、「少し長めに引用したが、これだけ長くても笑いは、笑えるところは一つもない。」と断じます。「よく吟味」したようには思えませんし、文字だけで見せられてつまらないのは、あたりまえでしょう。落語でもミュージカルでも、書いたもので十分にたのしめるのでしたら、舞台はいりません。うごきもありますし、同じことばを言うのでも、どのように声に、音に乗せるのかで、印象は大きく変わります。週刊朝日 10月31日号(朝日新聞出版)で森田真生が書いた、数字だけで笑えるように見えても、その数字の言い方しだいだというお話を思い出しました。

「オリエンタルラジオの「武勇伝デンデンデデンデン、デンデデン」」、何だか冗長です。筆者が「民謡の「お囃子」の部分だけでやっている」イメージでとるのも、理解できます。

「前者の「リズムネタ芸人」と後者の「リズムネタのようでいて、リズムネタでない芸人」のどこが違うか?」、「民謡に例えれば、リズムネタは「お囃子だけを抜き出した者」であり、後者は「民謡の本歌部分をやっている者」とでも言えるかも」、おもしろい視点ではあると思います。ですが、「「リズムネタのようでいて、リズムネタでない芸人」の大先輩といえば、トニー谷さんとか、牧伸二さんが居る。」というレベルとのちがいは大きくても、レギュラー、藤崎マーケット、いつもここから、オリエンタルラジオ、テツandトモ、COWCOWを、この基準で4対2にわけるのは、私にはむずかしく思われます。「民謡の「本歌」の部分も歌い、歌詞につづけて、その理由もきちんと笑いに昇華」、言いたいイメージと例とが、うまく対応しません。「あるある探検隊」は「歌詞につづけて、その理由も」、きちんとかどうかはともかくとしても、やり取りして笑いに使います。いわゆる「あるある」とそうでないものとで線を引くなら、「何でだろう」は「あるある」側でしょう。筆者がみちびきたい線引きを可能にするには、かなりあいまいですが、芸風、ねらう客層を見るのがよいかもしれません。古典的な流れの笑い、古典芸能ではない「芸能」の舞台とは異なり、お笑いライブなどで反応を見ながら試行錯誤するなら、そういうところの客層にしぼったねたが効率的ですし、たいていは若い男性ですので、若い女性ファンがほしくなります。PHP 2015年3月号(PHP研究所)で、ナイツの塙宣之は、「所属事務所の会長に漫才協会に入れさせられ」、「当時は若いコに騒がれたいと思っていたから、気分は乗らない。漫才をイヤイヤやってましたね。」と、売れないころをふり返ります。そして、「転機は二〇〇五年か六年のNHK新人演芸大賞。このコンクールの予選に出る際、若者向けのネタにするか浅草向けのネタにするか、ずいぶん考えました。」、そこから、いまの「浅草のナイツ」へとつながります。一方で、DVD付きマガジン よしもと栄光の80年代漫才昭和の名コンビ傑作選 第2巻 島田紳助・松本竜介(小学館)によれば、紳助・竜介という漫才コンビで売れた島田紳助は、若い女性の「追っかけ」のターゲットになると芸が甘くなるとして、「あいつらを笑わしにかかったら終わりや」と言っていたそうです。

「本歌をネタにする方は寿命、賞味期限は実に長い。」、売れたらという前提が必要かもしれませんが、同感です。「津波ラッキー」事件の記事で亡くなったことに触れた牧伸二は、先に自分の寿命がつきてしまったほどです。ですが、猛毒のヒドラジンを燃料とするロケットのように、「死に至る劇薬」で高く上がったら、用済みと同時に切りはなして、うまく軌道に乗れれば、ねたは落ちても自分は回りつづけます。音楽ねたを含むマニアックな芸で注目されてから、明るいお昼の司会業に回ったタモリも、やや近いでしょう。

明るい、タモリで思い出したのが、nikkansports.comにきょう出た記事、タモリ&小田和正、ショーパン挙式で和解です。「乾杯のあいさつを務めたタモリ(69)は、かつて「歌が暗くて嫌い」などと突き放したオフコースの小田との間にあった確執を乗り越えたと明かした。」そうです。昨年の紅白歌合戦の「福山君、グッズありがとう」に続いて、また私事の持ちこみかという印象もありますが、よいニュースになりました。いまの小田からは想像しにくいかもしれませんが、オフコースに限らず、フォークは暗いものだったのです。きょうのNHKラジオ第一放送の午後のまりやーじゅで、坂田おさむが明かした、暗いフォークの世界から「うたのおにいさん」に転身したときの困惑は、明るい話しぶりでしたが、相当なものだったと思います。

山本復帰反対論の同調説と「女子アナの罰」

きょう、トピックニュースに、山本圭壱復帰「反対論」に矢作兼が一言「自分の意見じゃなくて『反対が多いんだから、私も反対』という人だらけ」という記事が出ました。

「矢作は、「山本復帰反対」の視聴者が多いことについて「自分の意見じゃなくて『反対が多いんだから、私も反対』とかしちゃう、どうしようもない…そういう人だらけだからね」と、世間の風潮を批判」、これは「視聴者」にこびない姿勢のアピールなのでしょうか。「反対票の方が多かったという結果」を、自分の意見ではないようにとる根拠が、よくわかりません。あんなにおもしろいのだから、絶対に内心は出てほしいと思っているはずだと思っているのでしょうか。むしろ、特に目あたらしい意見でもないのに、単に賛成の声を上げて芸能ニュースに出てくる芸能人が相ついでいる話題ですので、付和雷同ならその方向だという考えはないのでしょうか。沈黙の螺旋理論 世論形成過程の社会心理学(E. ノエル=ノイマン著、北大路書房)のような同調のイメージになじむ、政治的なテーマとも思えませんが、芸能界の内側では、すぐれて政治的な問題なのかもしれません。あるいは、下北沢にはあんなに集まった、ということは反対なのはいなか者で、つまり同調圧力に弱い人々なのだろうという、ずれた推論なのでしょうか。もちろん、一般に、地方に行けば行くほど、同調圧力がきつく、同調があたりまえということはあるでしょう。政治の話題は、特にそうです。最近ではたとえば、沖縄のアメリカ軍基地に関して、1月19日付の朝日新聞朝刊に出た「ゴリの目」が、「反射的に「反対」」になってしまう問題を指摘し、沖縄の不都合な真実(大久保潤・篠原章著、新潮社)は、「恐ろしいほどの同調圧力」があることを明かしました。

「理由もないのに出れるほどテレビって甘いモノじゃないんだから」、そのとおりだと思います。ですので、なぜ出られているのだろうという人には、大物出演者とのバーターだろうという理由がうかぶこともあります。

この山本のことについては、ハフィントンポスト日本版にきょう出た記事、【極楽とんぼ】松本人志、山本圭壱に言及「復帰してもいいが...」も取りあげました。こちらは大物、松本人志の意見で、「復帰してももういいと思ってます」としながらも、「でも吉本としても相当彼に手を焼いたことは事実で、いろいろあったのよ。」とも明かします。「戻ってきても山本としての商品価値はどこまであるんだろう」、「破天荒な芸風とのバランスが難しいとの見方」、同感です。ずっと出ないうちにあの年齢ですので、同じ芸風、同じ立ち位置では続かないでしょうし、ですがキャラを変えると、この人を出す理由がわかりにくくなります。

それで思い出したのが、リアルライブにきょう出た記事、ぶりっ子キャラに足を引っ張られる田中みな実アナです。「ぶりっ子封印」、「となると田中の魅力は何なのか」、そのとおりだと思います。きゃりーぱみゅぱみゅとアリアナ・グランデの記事で取りあげた小倉優子もそうでしたし、篠原ともえでも田村ゆかりでも、若くないと苦しいキャラをつくると、いずれハードランディングが待っています。田中も、苦戦は覚悟の上だと思います。ふと、女子アナの罰で、田中が「ウソ発見器」にかけられたのを思い出しました。1年半前、つまり田中が退社を表明する1年ほど前に放送された回ですが、「ゆくゆくは、フリーになろうと思っている」という問いに反応し、「まもなくですね」といじられました。さらに、「フリーになったあかつきには、お台場で番組を持とうと思う」、「フリーになるための準備として、最近ぶりっ子キャラから知的なキャラに変更しようとしている」にも引っかかるという展開でした。もちろん、あの「ウソ発見器」は、出力が何なのかを考えればすぐわかるように、でたらめですので、バラエティ番組として楽しむべきものです。

マラソンタレントと華原朋美の隔離病棟体験

きょう、サイゾーウーマンに、にしおかすみこ、華原朋美、安田美沙子……落ち目芸能人がすがる“マラソン”ビジネスという記事が出ました。

「人気絶頂を極めた後、徐々に仕事が減っていく芸能人たちは、何に活路を見出すのだろうか? サイドビジネスに着手する者や、地方営業に精を出す者とさまざまだが、近頃関係者の間では「マラソン」が注目されているという。」と書き出されます。ですが、森脇健児、猫ひろし、にしおかすみこと続く名前は、私には、「人気絶頂を極めた」というほどの人気があったことがあるようには、あまり思えませんでした。個人内評価で考えるなら、失礼ながら、これから「絶頂」へ上りつめるとも考えにくいので、あのときが絶頂だったのだろうという理解はできる顔ぶれではあると思います。

その中で、文句なしに「人気絶頂を極めた」時代があったといえるのが、華原朋美です。「また直近では、華原朋美が東京サマーランドで行われた「ハローキティラン」に出場し、5キロマラソンに挑戦している。」とあります。ハローキティとの組みあわせは、きのうの記事の最後に触れた要因が、この人には無関係というだけでなく、ふしぎに似あって思えます。一方で、あの過去と、マラソンのまっすぐで健康的なイメージとは、対照的でもあります。絶頂もすごかったのですが、その後のくずれ方もすさまじく、落ち目などというレベルでなかったことは、よく知られています。ですが、それがむしろ、いわゆる「底つき」となって、よかったのかもしれません。サンデー毎日 12月21日号(毎日新聞社)では、隔離病棟に入っての異様な体験をふり返り、「だけど人間って、一度完全におかしくなってから、正常に戻っていくんですね。」と述べています。昨年11月13日付の朝日新聞朝刊に、那須川瑞穂が、心労で走れなくなった体験から、「心と体ってつながっているんだな」と思ったというお話がありましたが、マラソンでも、もちろん歌手活動でも、元気に走りつづけてほしいと思います。