生駒 忍

記事一覧

上の世代が幸運だったことが若者の不運です

きょう、JBExpressに、若者の苦悩の原因は政策ではなく運の悪さだという記事が出ました。フィナンシャル・タイムズに出た、Bad luck, not policy, is the scourge of the youngを和訳したものです。

すでにあちこちで反響がありますので、ここでは運に関して少しだけ、触れておきたいと思います。タイトルからは、若者に運がなかったということになるのですが、内容を見ると、直接にはベビーブーマーにもう二度とないほどの運があったことが書かれています。そして、運のあった多数のベビーブーマーとの対比が際だってしまうところに、今日の若者に特有の運のなさがあるということになります。

もちろん、世代にかかわらず、運だと思われるものの力に誰もが気づかないわけではなく、自覚のある人も多くいます。出光佐三の日本人にかえれ(北尾吉孝著、あさ出版)には、「私の履歴書」に登場した蒼々たる顔ぶれに、運がよかったと書いている人が多いという指摘があります。もっと若い世代ではたとえば、井口資仁がブレないメンタルをつくる心の軸(ベースボールマガジン社)で、自分は幸運だったと明言しています。また、ぼくだったら、そこは、うなずかない。(石原明著、プレジデント社)には、「アメリカの学者も言っていますが、成功者のキャリアは偶発的に形成されたものがほとんど。」とあります。おそらく、近年の産業組織心理学で「計画された偶然性理論」として知られる考え方を指しているのでしょう。スタンフォード大学のクランボルツが提唱しました。面白いほどよくわかる! 職場の心理学(齊藤勇監修、西東社)では、1回だけ「クロンボルツ」とも書かれています。

マクドナルド不振とスマホの害悪と献血離れ

きょう、livedoorニュースほかに、売り上げ減が止まらないマックと、若者たちの食生活に起きている変化という記事が出ました。All About News Digからの転載のようなのですが、All Aboutで、筆者である中山おさひろのページを探しても、見あたりません。マクドナルドのカウンターにメニュー表が復活!そもそもなくした理由は…が今でもアクセスを集めている中、おしいことをしているかもしれません。

日本マクドナルドホールディングスが、19日に大幅な下方修正を発表しましたが、マック不振はここのところあちこちで議論になっています。大きく分けて、FRIDAY 1月17日号(講談社)などのような、マックの経営方針の迷走や顧客軽視、長期戦略のなさなどに問題の本質があるという見方と、外の環境が変化してマックがついていけていない、ないしはついていけない方向へ変化されてしまったという見方との、2種類の方向があります。この記事は、後者です。マック本体にはむしろ高い評価を与えて、若者が変わってしまったと論じます。

外の環境の中で、今年はコンビニコーヒーの躍進がありました。日経MJ 2013年ヒット商品番付では、「半沢直樹」さえ前頭におさえて、セブンカフェが東の横綱となったほどでした。少し前まで、安くてまあまあのコーヒーを前面に出していたマックが、参入に押されたという解釈は、よく見かけるものです。ですが、この記事は、コンビニにうばわれたわけではないという立場です。コンビニも「既存店だけの場合は年々売上げを減られているのが現実」、「ここも同じよう既存の売上げは頭打ち」としています。

そして、マック不振の本質は、若者の食生活の変化にあるとします。ですが、「最近は電車の中やベンチなどで、パンとかおにぎりを食べている若者をよく見ます。」という根拠を持ちだされると、先ほどのコンビニ冤罪説とは矛盾するように思えます。そのおにぎりは、若者が自分でにぎってきたのでしょうか。おにぎりをにぎる時間はあっても、電車内で食べるほど時間がないのでしょうか。また、そのパンは、若者が自分で焼いているのでしょうか。きちんとしたパン屋で買っているのかもしれませんが、「若者の収入が減っています。」と言っていることとは整合しにくいです。ですので、その「パンとかおにぎり」は、コンビニのものなのではと、私は思うのですが、いかがでしょうか。

ここから、スマートフォンにお金を吸いあげられていることへ、批判がおよびます。「この現象は、国が真剣に取り組まなければならない大問題です。」と大きく出て、「後日、この世代の健康問題として、ツケを支払わされることになります。」と、健康問題に帰着するので、ふしぎに思っていると、「若者の食事問題は起業家も真剣に考えなければならない問題です。」と来ます。起業家が突然出てくるのは、この筆者は起業家の話題が大好きだからだと思いますが、通信費のせいでマックで食べられなくなって、健康問題が起こるというなら、逆のようにも思います。あの手のファーストフードが健康によいはずがないとは、耳にたこができるほど聞くお話ですが、ここでは最近のMailOnlineの記事、McDonald’s website advises staff NOT to eat fast foodを挙げておきたいと思います。

最後はさらに急旋回に出て、若者の献血離れが問題視されます。少子化を考慮せず人数のみを示して、「人のために何かをする精神の問題」にまで展開します。そういえば、スワンプランディア!(K. ラッセル作、左右社)には、「「突拍子もない発言と才能のあいだには相関関係があると論文にも書かれているよ」と彼は髪を押さえつけながら言った。」という場面があります。

「クリスマスは恋人とホテル」がつくられた時代

きょう、東洋経済ONLINEに、「クリスマスは恋人と」っていつ決まった!? 「恋人同士がフランス料理を食べてホテルに泊まる祭」の起源という記事が出ました。ジェンダー論の専門家による連載、女性差別?男性差別?の第2回です。

ジェンダー論と聞くと、あるべき理想とのずれにいつも怒り顔というイメージを持つ人もいるのではと思いますが、この連載はソフトで、今回の導入部では、「みなさん、24日の夜の予定はどうなっていますか?」と問いかけてきます。予定といっても、文字どおりの予定なら、多くの人にあるでしょう。ぼく、オタリーマン。6(よしたに作、中経出版)の「ぼくとクリスマス」のようなものです。

早々と、「結論を先にばらしてしまうと、クリスマスって別に恋人たちの日じゃなかったんですよ。」と書いています。ですが、キリスト降誕や、ミトラ教の儀式へとさかのぼるわけではありません。いきなり、「クリスマスはプレゼントの日」という見だしが来て、こたえてしまいます。

そして、やや脱線した展開がしばらく続きます。「ほしいものが、ほしいわ」は、歴史に残るコピーですが、このコピー自体が、こういうものがほしかったとクライアントに思わせるという、入れ子構造になっていたと思われるところも、もっと評価されてよいと思います。最近では、WIRED VOL.8(コンデナスト・ジャパン)にある、カニエ・ウェストがジェフ・バスカーに言ったことばが、こちらはつくるほうからですが、このコピーとつながる考え方を持っていると思います。

アメリカでの、クリスマスに対するポリティカル・コレクトネスがらみの近況を述べてから、サンタクロースのお話へ進みます。ですが、ここでもミラの聖ニコライへとさかのぼるわけではありません。サンタの赤い服はコカコーラ由来というまめ知識を出してきますが、少なくともsnopes.comの記事、The Claus That Refreshesは、コカコーラ起源説に否定的です。

そして、タイトルにあるテーマへ入り、日本のクリスマスが恋人たちの日に変わっていったのは、1980年代からだという主張がされます。日本語版ウィキペディアの「クリスマス」の記事には、「しかし、1930年代から、パートナーのいる人にとっては着飾ってパートナーと一緒に過ごしたり、プレゼントを贈ったりする日となっている。」とあるのですが、「フランス料理を食べてホテルに泊まる祭」へ化けたのは、この時期と理解してよいと思います。「恋人がサンタクロース」を収録したアルバムが、ちょうど今年、年内限定出荷のSURF & SNOW(松任谷由実)としてよみがえりましたが、先月出たユーミンの罪(酒井順子著、講談社)では、バブル期の「連れてって文化」への道として回顧されている作品です。また、この時代の、クリスマスが恋人たちの手に移り、同時に商業主義の手の内に取りこまれているという展開は、若者殺しの時代(堀井憲一郎著、講談社)に、やはり当時の空気ごとえがき出されています。この本ですが、後ろのほうの章は、同時代の若者の実感がうすれて、解釈が空まわりしているきらいがありますが、バブル崩壊くらいまでは、時代の風向きがリアルにとらえられています。

この1980年代の、性体験や性意識の「革命的な」変化へと議論が進みます。先ほどの若者殺しの時代での、1983年の転換点もここにかかわりますし、性交渉を結婚から切りはなしたテレビドラマ、男女7人夏物語は1986年に放送されました。また、ここでは、変化を目のあたりにした若者が1960年代生まれであることを書いています。日本人には二種類いる 1960年の断層(岩村暢子著、新潮社)を意識したのでしょうか。

フランス料理はともかくとして、ホテルの日になったところは納得しやすい展開から、あたりまえだと思われているものが、実は意外に新しくできたものにすぎないという、ジェンダー論でよく見られる結論となります。それでも、説教くさくはせず、「筆おろし」や「婚前交渉」といった死語を使ったあとに、「リア充」を持ちだして落として、筆をおいています。「リア充」がせっかくみちびいた結論に打ち勝ってしまうことに、つまりは相手は「充足者:幸せ者」だという、ネットが社会を破壊する 悪意や格差の増幅、知識や良心の汚染、残されるのは劣化した社会(高田明典著、リーダーズノート)の指摘を思い出します。

やりたいことを見つける方法と若者の自信

きょう、zakzakに、Facebookと起業マインドマップ やりたいことをネットで公言して反応確認という記事が出ました。久保田達也という人による、起業準備の方法の提案です。

あくまでも、「そこで考えてみたのが」という程度の机上のアイデアを述べたものですし、この記事自体がまさに、ITを使ってとりあえずの着想への反応を集めて利用したいというねらいであるようにも見えてしまいますが、自分に合うと思った方は、試してみてもよいと思います。ですが、起業が目的、目標になっていて、その目的のためにこれから起業内容を考えようという流れには、本末転倒な印象を受けてしまいます。自分の会社を持つのが夢、若くして社長になるのが夢だという人を想定しているのでしょうか。おとといのBusiness Journalの記事、お金持ちになっても幸せになれない人、やりたいことをやっているが達成感がない人の問題点にある、三好比呂己が仕事の成功と人生の幸せとの両立が可能だと証明するためにラーメン店も展開しているお話や、心理学関係では吉本伊信の、身調べのよろこびを広めたいために事業を成功させたお話は例外的だとしても、起業は手段であるのがふつうだと思います。合格、内定、結婚など、それを目的にしてがんばった人がその後におちいる問題のことが、頭にうかんでしまいました。

記事中で何度も出てくるように、起業はしたいのに、起業してやりたいことは見えていないので、それを探したいという都合のようです。いわゆる「自分探し」の変形版のようですが、天竺に真理を求めた玄奘に千数百年遅れて、インドまで自分を探しにいくよりは、ずっと現実的でしょう。「いきなり自分が一番やりたい仕事をすらすらと書ける人は、ほとんどいない」のも、その意味ではしかたがないかと思います。いきなり聞かれたらそれこそ、男子高校生の日常3(山内泰延作、スクウェア・エニックス)の51話の3種のようなものしか出てこないこともあるでしょう。また、そのときにがんばっているものが、一番やりたいものとも限りません。陸上競技マガジン 2013年11月号(ベースボール・マガジン社)にある、京都府立園部高等学校の濱口美菜が「浜口美菜」として対応したインタビューでは、「やりたいことがあるので、日本ジュニアで引退します」とあって、ハンマー投はやりたいことではなかったことが明かされています。五輪戦士の「黒メダル」25年史(4)に登場する、名前を売って転進するためにオリンピックに出た成田童夢を思い出しました。

がんばっていることはあっても、やりたいことは別なのが、いまの若者ではふつうなのでしょうか。きょう、DIAMOND IT&ビジネスに、ITを駆使した教育投資システムは若者の就労問題を改善できるかという記事が出ましたが、そこでは毛受芳高という人が、「今の子どもたちには、やりたいことや夢・目標がない、自信もない。」と言いきっています。自信までないと言うのです。他人を見下す若者たち(速水敏彦著、講談社)で批判的にあつかわれた、根拠のない自信ばかりなのでしょうか。あるいは、根拠があってもそれを受けいれない、インポスター現象(P.R. クランス著、筑摩書房)の世界なのでしょうか。そういえば、今年のミス立教決定を、きのうになって池袋経済新聞が記事にした2013年度「ミス立教大学」が決定-社会学部3年・鎌田あゆみさんがミスにによれば、頂点に立った鎌田は「初めから最後まで自信がなかった」そうです。

では、やりたいことを持てるようにするには、どうしたらよいのでしょうか。きのう、東洋経済ONLINEに出た、東大夫婦が「お勉強」より重視することという記事では、6歳の堀込峻平、2歳の堀込耕平の兄弟に対して、「自分でやりたいことを見つけられる子に育ってほしい」と望んで子育てにのぞむ夫婦が取りあげられています。「保育園の先生と友達の元に」と誤字があることは気にせずに、ここにえがかれた子育て論を読んでおいて、後でその望みがどのくらい実現しているか、追跡をやりたい気持ちが少し出てきます。

歩き方の心理的影響の根拠となる科学と文学

きょう、msn産経ニュースに、若者よ、顔を上げて歩こうという記事が出ました。歩きスマホの問題点を中心に、大阪気質、若者論をからめた自由な論考です。

そういう論考に、すみずみまで科学的根拠を要求するのも気が引けるところですが、厚労省などの調査も引いているのですから、中盤にももう少し論拠の明示があると、私にはより受けいれやすいように思われました。後のほうでは、「何の専門知識も持ち合わせていない私の独断ないしは偏見と断った上で述べれば」「牽強(けんきょう)付会の推論を書き並べたが」という、とても謙虚な姿勢を見せていて、同じくきょうのmsn産経ニュースの記事、「東電破綻は巨大テロ」論の無責任さで、花田紀凱が週刊現代 11月9日号(講談社)のトップを、「結論に「かもしれない」を連発は無責任だろう。」と突いていることと対比させたくもなるほどです。一方で、「このように歩行が心理に影響することは行動心理学によって既に実証されている。」という断定もあります。○○心理学という表現は、たいていありそうに見えるもので、广西新闻网にきょう出た記事、厕所反映个性 另类厕所心理学にもつい失笑してしまったところですが、「行動心理学」は、心理学者の間ではあまり使われない表現です。日心大会の分野区分には「行動」もありますが、いまいちまとまりが明確ではないカテゴリで、私はもう廃止してもいいのではとさえ思っています。その「行動心理学」の名前で押すよりは、たとえば身体心理学(春木豊編、川島書店)を根拠に持ちだすほうがよかったように思います。記事の性質上、硬派の科学書ではなじみにくいということでしたら、高田明和の本でしばしば、姿勢と気分との関係に対して、神経科学と仏教的な視点とを組みあわせて論じているのを使うやり方でもよいでしょう。あるいは、その前にバルザックの風俗のパトロジー(新評論)を引用していますので、19世紀のフランス文学者であわせて、ドミニック(E. フロマンタン作、中央公論社)で教師が歩く姿勢について中庸を説くところを持ってくることも考えられそうです。

文学作品といえば、記事の最後には石川啄木が登場しています。ですが、この句をどこから持ってきたのかは、記事に書かれていません。収録した訳書まで明示したバルザックと異なるあつかいに引っかかった方もいると思いますが、ここはあえて書かないようにしたのではないかと、私は見ています。「悲しき玩具」くらいは誰でも知っているだろうと言われそうですが、あの表題にしたのは土岐善麿であるほか、没後の出版だけに、改変も含めて、作者の意図どおりではなくなっている問題点が指摘されています。そこで、ちょうど出版から100年となった昨年、「一握の砂以後」として復元をこころみた、復元 啄木新歌集 一握の砂以後(四十三年十一月末より)・仕事の後(近藤典彦編、桜出版)が公刊されました。有名な「呼吸すれば」では始まらない、この古いはずの新しいかたちが正しそうではあっても、まだなじみがない人も多いと考えて、清湖口はどちらとも書かない選択をしたのではないでしょうか。

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