きょう、キャリコネに、「儒教」を知らない中国人 漢文を学ぶ日本人の方がよく知っているという記事が出ました。
「日本では義務教育の中で、孔子の「論語」などを学びます。」とあります。「孔子の「論語」」という表現に、単に論語とだけ書けばいいのにと思ってしまいましたが、それは論語が日本人にいかになじみ深いものかの反映ともいえそうです。小中学校の学習指導要領やその解説には、音楽の教材のようなかたちで、特に論語を取りあげるような指定はありませんが、漢文の代表格のようなものでしょう。
「センター試験にも、漢文の科目があるほどです。」、これは適切ではありません。国語の科目の中で、漢文も必ず出題される配分になっていますので、漢文を出題する科目があるとはいえますが、漢文という科目はありませんし、漢文で出題する科目もありません。
「中国の40代より上の年代、特に農村出身者の多くは、1966年から77年まで吹き荒れた「文化大革命」の嵐のため、またはその後の混乱のために、残念ながら十分な学校教育を受けていないように感じます。」とあります。教育全体のことだけでなく、特に論語は、その文革できびしく否定されたものです。それでも、隠れて学んでいた例はあります。私は「毛主席の小戦士」だった ある中国人哲学者の告白(石平著、飛鳥新社)に登場する、祖父がこっそり学ばせていた意味のわからない文言のお話は、日本留学時に「実に17年ぶりに」論語を学びだしたエピソードとともに、印象的なものでした。
「中国人にとって仕事とは、あくまでも「お金を得る手段」という意識が非常に強く、「勤勉」であることもあまり重視しません。」とあります。また石平を持ってくると、絶望の大国、中国の真実 日本人は、中国人のことを何も分かっていない!(宮崎正弘・石平著、ワック)の主題のひとつになっている、徹底して合理的ともいえる、現在や現実を重視する拝金主義の世界なのでしょう。
「中国の過労死と儒教とは関係ない」と考える筆者は、そのかわりに、「過労死の背景には、中国の労働条件が悪いことがあります。その原因は、何といっても「求人に対して、人がわんさかいること」だと思います。」とします。一方で、わが国では、失われた20年からようやく抜けだして、人ではなく、企業のほうがまいるようになってきました。ロイターにきのう出た記事、人手不足による倒産広がるが、端的に指摘しています。