きょう、マイナビウーマンに、体型で性格が分かる―3つの特徴という記事が出ました。関口寿という人が、体型とパーソナリティとを結びつけるタイプの類型論を紹介しています。
外見に受ける印象からこの話題に入る展開は、あまり見かけないものだと思います。外の人々から見えるその人らしさと、本人の中にある何かと、パーソナリティをどちらからとらえるべきかという古くからの議論を思いおこさせます。
まずはクレッチマーの類型論です。それが述べられた著書が、『体型と性格』という名前になっていて、Körperbauを体型と訳しています。ですが、和訳書は、斎藤良象訳が体格と性格(E. クレツチマア著、肇書房)、相場均訳が体格と性格 体質の問題および気質の学説によせる研究(E. クレッチメル著、文光堂)というタイトルで公刊されています。精神医学史人名辞典(小俣和一郎著、論創社)の「クレッチュマー」の項目では、和訳は1968年に出ているとあって、この2本とはまた別のものもあるのかもしれませんが、それも『体格と性格』と表記されています。また、3番目の類型が、闘士型や筋肉質型ではなく、「筋肉質」という次元のずれる表現になっているのは、「もちろんこれは統計の結果で」と書きながらも、この類型はデータとのあてはまりが明瞭でなかったことを念頭においているのでしょうか。
次の類型論も、日本の心理学教育ではよく知られています。ここでは、発生生物学の理解度以上に、提唱者の表記を次々に変えて書いたことにおどろかされます。「アメリカの心理学者ウィリアム・ハーバード・シェルドン」として登場したあと、次の文では「シャルドン」、その次の文で「シャルダン」、「シェルダン」と、早変わりを演じて見せます。最近ではビジュアル図解 心理学(植木理恵著、中経出版)も使っている、わが国での慣習的な表記は「シェルドン」ですが、そこに乗るのは気乗りしないという気持ちをこめたのでしょうか。この慣習的な表記に、はっきりと異をとなえた本としては、性格のパワー(村上宣寛著、日経BP社)があります。「半世紀前の書物を批判するのは酷である。」と言いつつも、この分野の古典、大物、神話を次々に斬りすてていく本ですが、「シェルダン」に対しては、表記どころか、存在も否定するような書きぶりです。「シェルダン理論の凋落」という節では、記事で「圧倒的なサンプル量」とされたものが、学生の訴えで一巻の終わりとなった最期まで、ぞくぞくするほど冷ややかに書かれています。