生駒 忍

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Facebookのうそと日展の情報関連作品

きょう、Googirlに、みんなやっているけど……Facebookでの投稿を鵜呑みにしてはいけないこれだけの理由!!という記事が出ました。

タイトルには、「これだけ」とありますが、理由がこれだけたくさんありますというよりは、これだけしかありませんという読み方をしたほうがよいように思います。根本的には、「FBでは自分のための記録というより、誰かに見てもらうために投稿するのが大きな動機となっています。」、ここにつきるようです。What an ARTの記事、Comical Satirical Illustrations Mock Society's Unhealthy Obsession with Facebookにも、そういうパロディがあります。もちろん、自分を必死に大きく見せようとはせず、ありのままの人間性をさらけ出す日記やポエムをつづる人もたくさんいますが、大きく見せようとしていながら等身大のように見えるようにと必死に演じている人も、たくさんいます。より恥ずかしいのは、どちらでしょうか。そういえば、週刊文春 9月25日号(週刊文春)で中村静香は、小池栄子について、「恥じらいを捨てて人間性をさらけ出す演技がすごくて、観ていて気持ちがいいですね。」と評しました。

「本当の人生は毎日そんなにバラ色じゃないし、何をやってもうまくいかない日やイライラして何もできない日が続いたりするものです。でもそんなネガティブな面ばかりを、世界に発信したいと考える人はほとんどいません。」とあります。Facebookは、ときどきの、ポジティブなときに使う使い方を、すすめているようです。Facebook自身がFacebookに投稿した写真、So birthday cake is a lot like Facebook.をご覧ください。

「みんながみんな明るく、楽しく、充実したシーンばかり投稿」、「だから、その投稿内容だけで「○○ちゃんは毎日楽しそうで、羨ましい、それに比べて私の生活なんて……」と思うのはナンセンス。」、りくつはそのとおりですが、Slateの記事、The Anti-Social Network: By helping other people look happy, Facebook is making us sad.にあるように、つい振りまわされて、ネガティブになってしまうものです。GIGAMENの記事、あなたが不健康な7つの理由には、「チリの研究者が、Facebookをチェックしすぎている人間は嫉妬などから体調を崩すとの見解を発表している。」とあり、からだをこわすほどの重い嫉妬にまでつながるのです。子供部屋に入れない親たち 精神障害者の移送現場から(押川剛著、幻冬舎)には、「平凡な人間のほうが実は多数派であり、むしろもてる人間のほうが少数派」、「ところが、心に問題を抱えてしまう人たちは、「みんなそうなんだ」とは考えずに、「自分だけが駄目なんだ」と思い込んでしまうのです。」とあります。Facebookで、この不安をうち消すには、いい年なのに「多少の誇張や小さなウソ」に手をそめるのが、手っとりばやいのでしょう。ですが、その子供部屋に入れない親たちの時代には、Facebookなどなく、ネットで自分をアピールするのは一部のすすんだ若者くらいだったので、よりストレートで、理解しにくい手段がとられていました。「彼らのセックスという言葉は、行為そのものを表しているのではない」、「他人から認められたい、自分の存在を確認したい、そんな願いがセックスという言葉や行為に込められていると思うのです。」「性器の露出に関しても、十代の移送対象者はまったく行いません。むしろ三十代の特徴とも言えます。」「そんな人たちにとって、性器こそが自分自身」、「性器を露出することは、相手に不快感を与えることが目的ではなく、自分の存在に目を向けてほしいからだと考えるのが正しいのではないでしょうか。」と指摘しています。

「写真はたしかに便利ですが、ビジュアル的に誤魔化しやすい部分もあります。今の時代フォトショップで修正するなんて当たり前のこと。」とあります。先ほどのSlateの記事には、「Jordan, who is now a postdoctoral fellow studying social psychology at Dartmouth's Tuck School of Business, suggests we might do well to consider Facebook profiles as something akin to the airbrushed photos on the covers of women's magazine.」とあり、自分自身を写真のように加工してみせる世界で、写真を加工するのは、抵抗のないことなのでしょう。

「それにFBではウソをついていようが、誰も修正してくれる人はいません。」、これは見方によっては、うそでもあります。ほかの人がアカウントを乗っとって、勝手に修正してくれることはまずありませんし、うそをつく人間性を修正してくれる人もなかなかいませんが、虚偽の「いい話」を使って「いい人」アピールに出た人に、それはうそ、うそを使うなとたしなめる人は、たくさんいます。

「直感的に信じられないと思うものは割り引いて考えたり、真に受けたりしないようにするのが一番でしょう。」、リア充アピールにはそれでよいでしょう。ですが、情報への一般的な態度としては、直観的にはよさそうに見えますが、好ましくないところもあります。大阪ガス版の記事で取りあげたモンティ・ホール・ジレンマのように、計算はかんたんにできても、直観にはなお反する問題もあります。また、財務省が、ユダヤ人が、製薬会社がといった陰謀論や、マルチまがい商法の勧誘に、直観は魅力を見いだしがちで、むしろ反論のほうが、直観にはなじみにくいことがあります。

それにしても、今さらな内容で、がっかりした人もいるかもしれません。ライターとしては、「みんなやっているけど」くらいのことかもしれませんが、これは最後に示されているように、MagForWomenの記事、7 Reasons Why You Must Not Believe What Everyone Posts On Facebookによるものです。それ自体が、SNSにはほぼ無視された記事で、内容が今さらなものだったことが、大きいように思います。あるいは、Facebookの話題自体が、もう古いのかもしれません。

それで思い出したのが、きょう行ってきた、改組 新 第1回日展です。あすまでの開催で、もうすいているかと思っていたら、そうでもありませんでした。コンサートの招待券ならよい席をいただけても、こちらはそうはいきませんので、読みをはずした自分の責任です。それでも、よい作品も多く、しあわせなひとときとなりました。今回はこのような、いかにも新しそうな名前になりましたが、日展ですので、古きよき作風に満ちた最新作がそろう、ふしぎな時空でした。やきもの検定テキストの記事で触れた大樋年朗の息子、大樋年雄の「新世器「New Century Vessel」尊崇2014」は、作品自体はすばらしいのですが、名前とそのセンスが、新しいのか古いのかわからず困惑しました。実は戦後に加わった分野で、日展を「新」にさせる問題をつくった第5科は当然としても、第4科も基本的に後衛で、男女の裸像が森のように立ちならぶ間に、順路を決めずにお客を歩かせる展示室は、前衛的なインスタレーションと見ることもできないこともないような状態でした。その中で、表面的に新しい趣向として、杉田春の「Call」は、スマートフォンを彫刻に登場させました。また、情報技術関係では、第3科の河崎晴生の、「information」もあります。冷たいハードの情報処理を、あたたかくソフトな素材に乗せました。情報とは本来、シリコンチップではなく、人間の側のものなのです。ふと、爆笑テストの珍解答500連発!! vol.5(鉄人社)にある、informationの意味を、「きれいなお姉さん」と答えたものを思い出しました。