きょう、ライフハッカー日本版に、クリエイティブな発想を逃さないために、日常に取り入れるべき「3つのB」という記事が出ました。
「3つのB」とは、ケーラーの「ベッド(Bed)、バスルーム(Bath)、そして乗り物のバス(Bus)」です。「バスルームを使ったり、バスに乗ったり、ベッドに横になったりといった活動は、脳の力をほとんど必要としません。」、これが新たなインスピレーション、クリエイティビティをつくり出すとします。つい、音楽の三大Bを連想してしまいましたが、バッハとブラームスとは、斬新なクリエイティビティで世界を革新したとは言いにくく、特にブラームスは、音楽の世界の「見下し現象」の記事で挙げた論争では、保守側でした。一方で、ベートーヴェンは、フーガを好んだところもありますが、耳をわずらってもなお作風が発展する、革新性の強い作曲家でした。親のための新しい音楽の教科書(若尾裕著、サボテン書房)は、「ベートーヴェンの晩年の曲にはけっこうわけのわからないフレーズ」、「最後の三つのピアノ・ソナタとか、弦楽四重奏曲のこれまた最後の三~四曲などがそうです。」「現代音楽につながる意味において、よりむずかしい音楽への布石となったものを探してみると、どうもベートーヴェンの晩年あたりがかなりあやしいのでは」として、これが「ハードボイルドに突き進んだ現代音楽」への道をひらいたと論じています。
さて、この記事の主張は、眠る技術 「起きられない」「寝た気がしない」「やる気が出ない」あなたへ(西多昌規著、だいわ書房)の、「扁桃体を中心とする野生的な脳」の力で、レム睡眠中によいアイデアを得るお話にも近いと思います。また、「頭を使わない活動」によって、着想が頭にうかんでくるという着想には、ありのままを受容されることでいまある自己から変われるという、ロジャーズ派のような逆説を感じます。「その活動は、平穏で、半瞑想状態になれるような活動である必要があります。」とありますが、瞑想から新しさの覚醒が、平穏からある意味では不穏なインスピレーションが、導かれるのです。
瞑想で思い出したのが、ライフハッカー日本版にきょう出た記事、幸福は成功の結果ではなく、成功を導くものであるです。「幸福は、より良い成果を上げるための重要な要因であり、成功へと導くものです。」という、逆説的な話題ですが、中でも、「より幸せになろうと物欲を満たすための出費をすることよりも、瞑想をしたり、人間関係に投資したり、経験を得るために出費したりすること」がよいようです。感情を独立変数側におく視点は、世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ(M. モッテルリーニ著、紀伊国屋書店)のように、心理学の外のイメージのようにも思われていそうですが、SNS不適切投稿の心理の記事で古いという指摘を紹介した認知的不協和理論のように、感情が行動を変えることは、心理学では古くから知られています。
感情で人を動かすことに関連して興味深いのが、リテラにきょう出た記事、なぜ、サヨク・リベラルは人気がないのか…社会心理学で原因が判明!?です。最後は、「われわれリベラルも知性をいったん脇に置いて、“感情”という武器を再び手にとるべきでき時がきたのかもしれない。」と締めるのですが、いろいろと気になるところもある記事です。関心は、リベラルじゃダメですか?(香山リカ著、祥伝社)に近いようですが、問題設定にずれを感じます。「人気がないのか」ではなく、あれほどあった人気をなぜ失ったのか、を考えるべきでしょう。社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学(J. ハイト著、紀伊国屋書店)を引用していますが、そことのずれにも気づいていないようです。「個々の“家族”(とりわけ子どもたち)を、“他国の”軍事力の危険にさらすわけにはいかないと力説することで大衆の支持を」というやり方は、わが国では駐留アメリカ軍基地の危険性のアピールや、「教え子を戦場に送るな」式の、むしろ左側の戦略にも近いやり方です。「他にも〈ケア〉基盤に重点を置きすぎるあまり、リベラルが劣勢に立たされている場面はいくつもある。」としながらも、「置きすぎる」問題の解消のために「〈ケア〉基盤」から適切な距離をとる提案はされません。雑誌のキャッチコピー対決は、安倍たたきのほうが「今ひとつ」、「おとなしすぎる」としますが、せめて週刊現代くらいは加えないと、同じ土俵での対決にならないように思います。また、見かけは新聞ですが新聞協会には加盟できない日刊ゲンダイなどは、「もはや理性もへったくれもない。いたって下品だ。」の毎日で、「百田尚樹とか嫌韓本みたいな教養のないバカ丸出しのヘイト本」などと書ける筆者の感性にもあうことでしょう。そして、もっと感情にうったえるやり方をとるべきだと言いたいようですが、近年では自衛権、原子力、がれき焼却、オスプレイ、特定秘密と、本質的な有用性を飛ばして、不安をあおれるところに焦点をあてる戦術は、おなじみのものです。それとも、打倒せよ、粉砕せよと連呼した時代に戻したいのでしょうか。テロも、文字どおり恐怖という感情を用いる手段だとほのめかしたいのでしょうか。ハイトの、「リベラルの道徳基盤は〈ケア〉〈公正〉〈自由〉の3つに依存するが、一方の保守主義者は6つすべての基盤を用いていることが分かった」という知見から、「6つすべての基盤に訴えかけることが原則的に不可能なリベラル」と規定しますが、残り3本も、少なくともわが国の左翼運動は、内部では重視してきたはずです。「忠誠/背信」「権威/転覆」「神聖/堕落」が、異論を封じる民主集中制、革命のためには手段を選ばない「確信犯」、レーニンや毛沢東の礼賛や解釈学、立場にずれのあるセクトを「トロツキスト」「反革命集団」などと規定しての排撃、査問や「総括」といった暴力をささえる価値なのではないでしょうか。もちろん、「その種のオッサンたちからしてみれば、いろいろとトラウマがあるのだろうから」と、ぼかしたくなるほどの過去に戻る反動ではなく、再出発にはクリエイティブな発想が求められるところではないかと思います。