生駒 忍

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音楽の世界の「見下し現象」と仮想的有能感

きょう、トゥギャッチに、「NO ミュージック NO見下し」 音楽の世界に蔓延る「見下し現象」とは…?という記事が出ました。

作品のタイトルがおかしいと思う人もいるとは思いますが、メッセージのわかりやすい作品です。ツイートで補足されたように、EXILEファンを持ちあげたいわけでもありません。小林よしのりが使いそうな、見くだす側が底意地悪い顔に化ける表現をとらないのも、好感がもてます。

下ネタの品格(文藝春秋)で石田衣良は、「八〇年代のどこかから、日本人が自分と他人をすごく比べるようになった。」としましたが、こういう見くだしの感覚の発生は、興味深いところです。昔から、音楽のよしあしをめぐるあらそいは、ワーグナー派とブラームス派の対立だったり、クラスがアリス派とオフコース派に分かれてというものなど、めずらしいことではありません。ですが、このまんがが取りあげたパターンでは、音楽そのものよりも、それを聴く人の格の上下が問われます。しかも、「上」を取りあってきびしく衝突、切磋琢磨しあうのではなく、上だと思うほうが下を見くだすという、一方通行の展開をとります。ファンがさらに高みをのぞむのではなく、よそを下に見て高さに満足すると思われるかたちは、仮想的有能感の心理学 他人を見下す若者を検証する(速水敏彦編、北大路書房)を思わせます。

そこと関連しますが、「下」に見られたほうが、それがいやなのでしたら、より上へと上がるのが順当な解決策なのですが、そういう努力には向かわなそうなのも、特徴的です。自分が好きな対象に、見くだされないようなより上の音楽性を要求するか、ですが対象がそう変わるとは考えにくいので、現実的には自分がより上のものへ乗りかえ、上がっていくのが、解決への道です。もちろん、下ではないはずなのになぜか見くだされたのであれば、反論して正すか、あるいは、上下が理解できていない人が本質的に下なのは明らかですので、あわれみの目で見るだけのことです。そのどれもせずに、最後のこまの「だから音楽の話したくない!!」という退却、鎖国へと向かいがちなのは、なぜでしょうか。