きょう、Japan In-depthに、【“高み”を極めようとしすぎる日本】~過剰なサービスや労働を生む背景とは~という記事が出ました。
フランスのフォレスト・アドベンチャーでの、「お釣りを数えて間違っていることを言うと「ああ、間違えたわ」とあっさりとお釣りをくれたが、すみませんの一言もなく「ふん」と行ってしまう。」という体験から書き出されます。筆者は、「ただ単純に計算ができなかったということで、そして計算ができなかったことの恥ずかしさを隠すため不愛想な態度で終わる人もいるのだ。」という解釈をとりたいようです。ですが、「単純な計算がスムーズにできない人に遭遇する確率も高いと言うことだろう」とされる、あるいは「違う友人に「7×3/7なんて簡単な分数の問題なのに息子の中学のクラスの2/3が解けなかった」と愚痴っても「・・・・私もその問題、答えられないわ」などと言われる世界」であれば、おつりの暗算ミスくらいで、「計算ができなかったことの恥ずかしさ」がどれほど生じるのか、気になるところです。できてあたりまえの日本人的な感覚から、恥ずかしさを推測してしまってはいないでしょうか。一方で、クレジットカードの読みものにきのう出た記事、アメリカ人は17+8を暗算することが出来ないという話。1桁+1桁の足し算はかろうじて出来ますが、2桁+1桁は計算機がないと出来ません。によれば、日本ではあたりまえのレベルの暗算は、アメリカ人にはおどろかれ、すなおにほめられるようです。西友エスニック系PBカレーの記事で取りあげたフランス人のお話などもありますし、「「人種差別でわざとしたんじゃないか?」と疑心暗鬼」という見方も、可能性としてはなお残るかもしれません。
「日本の義務教育は良質だ。授業数も多く、全体の学力を上げることに成功をしている。」、ここはもっと知られてもよいところでしょう。日本の学力は必死な上位層が上げているだけ、全体では格差がひどく大きいというイメージを持つ人に、「世界と日本ではそのぐらい違うということ」も理解されてほしいと思います。それでも、「国際成人力調査」の知見は事実である一方で、理数系の教育の成果が、おとなにきちんと生きているかどうかには、疑問もあります。平成18年版 科学技術白書(国立印刷局)の第1-2-54図で、日本だけが異常な位置にあることは、一度見たら忘れられません。
「水準が高さを追求できる日本では高みを極めすぎるきらい」、わかります。「過剰過ぎる」という過剰な表現には、「逆にそこまでしなくていいのに」とも思いましたが、「何事も適度にすることも重要なことではないだろうか。」、これは同感です。
適度で思い出したのが、東洋経済ONLINEにきょう出た記事、たっぷり貯金したいなら、香川と徳島に学べです。趣味へのお金のかけ方の記事で取りあげたような、あるいはChikirinの日記の中でも有名な記事、全国の子供たちに告ぐ:お年玉はソッコーで使うべき!があわれんだような、保守的に貯金に走ることにも、適度を求めたいところですが、「香川県統計協会2014年」が示したという数値のために、「銀行の前で、突撃取材を敢行」、「預金通帳を7~8冊持ち歩いて」いるタクシー運転手の報告と、シンプルですがやや飛ばしぎみにも感じます。あの数値は、多眼思考(ちきりん著、大和書房)にある、「貯金がゼロに近い18歳や23歳の若者が都会に出てしまうから世帯平均貯蓄額が上がってるだけ」という視点を、「だけ」は言いすぎにしても、さけては通れない話題のはずです。そこを飛ばして、2県に別々の環境可能論風の解釈では、後づけ感が出てしまいます。それでも、となりあう2県ではあっても、同じでないことは否定しません。舞田敏彦のツイート、子どもの貧困率地図。からは、また別のお金の面での、讃岐山脈をはさんだ大きな落差がうかがえます。