きょう、東洋経済ONLINEに、なぜ若者はホリエモンに"勘違い"を抱くのかという記事が出ました。
「堀江さんには若者のファンが多いが、ぼくははっきりいって彼らのほとんどが堀江さんを誤解していると思う。」「「堀江さんが新しい道を切り開いて実力主義の社会を作ることで、今、老害世代に虐げられている自分たちにもチャンスが巡ってくるのではないか」というふうに」、「競争力のない若者が、不思議と堀江さんの言動を見て「自分たちのような日本の老害に苦しんでいる若者に有利な世界が来るのではないか」と勘違い」という指摘です。これほどにゆたかな日本で人生をスタートできた好条件、イージーモードを忘れ、「自分たちが「既得権益を受けている側」ということが理解できていない」上に、自分のチャンスまで他人だのみなのです。2012年5月30日付の産経新聞で曾野綾子が、「私のように戦争を知る世代は、幼時から貧困や命の危険の中に自分が置かれていたので、逆に努力して自分で生き延び、社会の繁栄のために働くことを覚えた。」と書いたことを思い出します。あるいは、世界は意識の外で、日本の中の世界の相対比較が絶対的であるような、「国家」主義、「民族」主義なのでしょうか。
しかも、インターネットへのアクセスも、「そもそも既得権益であり、チャンスの芽」だとします。これさえあれば、世界がけた違いによく見えるようになりますので、そうわかるはずのところを、海外旅行をすすめられていやがる心理の記事で取りあげたような感性なのかはわかりませんが、まるで日本の中しか見ませんと、はじめから決めているかのような人の目だと、芽だと見えないのでしょう。「自分たちを慰めるようなコミュニケーションに使うことに終始」するのでは、なおさらです。
「今ぼくはカメラや撮影の勉強をしているが」という例が、ターゲット層の興味を引くかどうかはともかくとしても、興味深いのは、若者のあり方に批判的な視点をとりつつも、インターネットの情報を手ばなしでたたえている点です。このほうが、若い人にとどきやすいと考えたのでしょうか。MAISHA No.19(幻冬舎)ではしりあがり寿が、「ネットって部分的には深く知ることはできるけど、情報を選り好みしちゃうのも否めない。」とし、読んだら忘れない読書術(樺沢紫苑著、サンマーク出版)は「栄養バランス読書術」として、「ネットだけをやって本を読まないのは、「おかず」のない「白米」だけの弁当を食べるようなものなのです。」と表現します。より若いところでは、PHP 2015年4月号(PHP研究所)で井ノ原快彦が、ネット情報に否定的な立場を示して、「基本的には、目の前で起きていることを信じようと思いますね。」と言っています。
「これからの人類にとって最も重要となるのは「勉強をする能力」となるのでは」、今でもかどうかはともかくとしても、とてもうなずけるところです。AERA 6月29日号(朝日新聞出版)では、「柔軟な専門性」という表現で、学びつづけなければいけない近未来が論じられましたし、マーケット感覚を身につけよう(ちきりん著、ダイヤモンド社)は前向きなかたちで、同様の話題を出しました。