きょう、PRESIDENT Onlineに、日本男子は、なぜベビーカー女子を助けないのかという記事が出ました。
日本男児ではなく「日本男子」という表現に、4か月前にTogetterに出た記事、『日本男子本』主催の木乃山さんとのやり取りを思い出しましたが、こちらはもっと広くさわぎになりました。夕刊アメーバニュースにきょう出た記事、ベビーカーをめぐりプレジデントオンラインが炎上中で、雑ですがすぐに取りあげられたように、ネガティブな反応が続出したようです。そうなるような刺激が、意図的かどうかはわかりませんが、しっかり入っていますので、そうなるのは当然でしょう。ですが、少なくともツイッターをざっと見た印象では、文字数の制約による制約も大きいと思いますが、筆者をののしり、さげすむ人格攻撃だけのものが多く、ベビーカー問題を緩和するくふうが議論されていく流れがあまり生まれなかったのは、残念ではあります。ツイッターとフェイスブックそしてホリエモンの時代は終わった(梅崎健理著、講談社)が、レジ打ちバイトに関するツイートで反発を買った例から、建設的な議論に進める気がなく、自分の立場から動かない「ポジショントーク」や、「おまえがいうな」になってしまう残念さを述べていたのを思い出しました。
「混雑している街中や電車内に持ち込むのははっきり言って迷惑だと思います。」、これ自体はまちがいではありません。ベビーカーでの公共交通利用に対する意識の国際比較の12枚目にあるように、先進国というよりアジア的な混雑を示す日本の電車では、ふつうに思うことでしょう。ですが、「僕の意見」とことわってはありますが、「ベビーカーは親のために開発された「便利な道具」に過ぎませんよね。」、「ベビーカーで得をしているのは親たちだけ」、どちらも限定表現をつけるべきではなかったと思います。「言葉を発することができれば、お父さんお母さんにおぶって欲しいと主張するのではないでしょうか。」としますが、これは証明がむずかしく、水かけ論をまねきます。私の母校で、校内行事の練習となっていた活動で死亡事故が起きて、命を落とした彼はその行事の開催を望まないだろう、いや、自分のせいで中止になることこそ望まないはずだと、正反対の解釈の衝突に、「死人に口なし」でのポジショントークは不毛だと両断する指摘があったと聞いたのを思い出しました。
また、「便利」「得」という表現も、ユーザーを刺激するところでしょう。今日の親世代では、もうきょうだいも少なく、いても歳がはなれることはめずらしく、拡大家族はもっと少なくなっていましたので、親になってからが初めての子守で、「便利」「得」の比較基準になる過去経験がないのがふつうでしょう。むしろ、ベビーカーのないひとりでの外出と比べたら、ベビーカーをともなうほうが、明らかに不便です。
そこに、「楽に決まっています。」と来るのが、刺激を強めます。同じように、「楽」の比較基準の問題が生じます。また、ここは日本的な感覚なのかもしれませんが、楽することへの後ろめたさや、楽をしてずるいと思われそうな不安が、「楽」を意識させられることへの反発をもたらす面もありそうです。あるいは、抱っこひもよりも高いお金を出したのだから、抱っこひもより楽なのは当然で、自分のお金で楽をして何が悪いという声もあるでしょう。
「ベビーカーは必需品とは言えない。」、これも考えものです。よほどのお金持ちなら、かかえたベビーシッターが常にかかえていて、ベビーカーなどいらないのかもしれませんが、多くの家庭で所有するものです。庶民向けではない高級品もある一方で、所得に比例して何台も増やしていくことは考えにくいので、所得弾力性は1に満たない正の値となると考えられます。つまり、ミクロ経済学の用語では、必需品だといえそうです。筆者は、そういう意味ではなく、そのくらしになくてはならない必要な物品というくらいのイメージで、必需品と表現したのでしょうか。そうなると、とてもめんどうです。ベビーカーをより安い抱っこひもにかえたくらいで、親子が生きられなくなるとはとても思えませんが、身体的な負担や制約が増えて、くらし方に影響しますので、前と同じくらしのためには、ベビーカーは「必要」なのです。貧困家庭の支出内訳に対して、通信費がかかりすぎ、外食しすぎなどと批判が起こることがありますが、そのくらしには「必要」なのでしょう。さらには、生活保護で酒、たばこはおかしい、たまのたのしみならまだしも、毎日もくもくと吸って生活が苦しいなんてもってのほかという考えもわかりますが、あれは「必需品」で、ないとあのくらしは回らないのです。
ベビーカーの問題は、そのたばこに似たところがあります。本人だけかどうかはともかくとしても、本人は心地よくなれる一方で、まわりに不快をもたらします。経済学でいう、外部不経済のパターンです。その意味では、本人は過剰な財を得られているとも考えられますが、「楽」自体でいやがられるというよりは、本人は楽でもまわりが迷惑するために、ベビーカーはいやがられてしまうのです。経済学的には、外部不経済の問題には、内部化での対処を考えます。ベビーカー乗車のたびに、まわりの人に「迷惑料」をはらうようにさせるのがシンプルで、混雑時ほど出費になるので乗車バランスの調整にもなってよさそうですが、非現実的です。鉄道会社でベビーカーに追加料金を設定するのも、とにかく反対でつぶされるでしょうし、抱っこひも割引で、反対に鉄道側に損害をかぶせるのも落ちつきません。「ベビーカー専用車両」でも設定しましょうか。
意識を変えようという、非経済学的で、ですが心理学的とも言いにくい方法も、あることにはあります。先ほどのベビーカーでの公共交通利用に対する意識の国際比較を見ると、マナーに対する日本のきびしさは突出していますので、これを甘くできますでしょうか。ですが、サンプルにかたよりがあり、日本のサンプルの子もち率や、電車内でも自分の世界に入れるスマートフォンの所有率の低さは、ここでは世界一ですので、そのバイアスもありそうです。また、マナーが悪いのは、ベビーカー利用者の一部だと思いますので、そこに向けた啓発も、考えることはできます。ですが、たばこであれば、大きな企業が気のきいたマナー改善の呼びかけをしていますが、ベビーカー業界で同じようにはいかないでしょう。ベビーカーにやさしくしましょうと、広く外部の譲歩を求めるのが現実的でしょうか。ひとりのときの移動としか比較できず、「得」や「楽」の逆だと考えてしまう親も、ベビーカーの「乗客」にまわりがにこやかに声をかけるような雰囲気ができれば、よい気分になれて、ゆずりあいの心にもつながるというイメージはできます。それでも、私が声をかけたのでは、「声かけ事案」になってしまうかもしれません。人見知りアピールの記事で触れた米印の感覚で、誰でもとはならない可能性があります。
それにしても、「何事も慣れですね。」という筆者が、「混雑している街中や電車内に持ち込むのははっきり言って迷惑だと思います。」、ここも慣れていれば、こうは荒れなかったのにと思ってしまいます。何ごとにも例外はあって、しかもだいじなところに限って、そこだけ例外になるものです。そういえば、墓のない女(A. ジェバール作、藤原書店)で、ミナは「ラシードとわたしは、学生時代のこの最後の数か月、すべてについて話しました、愛を除いて!」と言うのでした。