きょう、INSIGHT NOW!に、「成長」は目的ではない~「VITM」を転回せよという記事が出ました。
「やりたい仕事」病(榎本博明著、日本経済新聞出版社)のお話から書き出して、筆者が提唱するVITMモデルのお話へ進められます。その間には、成長を直接の目的とすることをうたがう議論があります。大人の成長も、子ども・若者の自己形成空間 教育人間学の視線から(高橋勝編、東信堂)で「何かやっているなかで自己が形成される」「偶然を重ねる子ども」と表現される世界の、延長線上にあるというイメージでしょうか。大人になると、かえって考えてしまって、自分の頭で成長へのつながりが見えないと努力できず、成長をのがしてしまうのかもしれません。INSIGHT NOW!のこの2本前の記事、幸せは道に落ちてはいないを思い出しました。「確実に自分のリンゴを手に入れたければ、時間はかかるが、自分で自分の足下にリンゴの種を撒くことだ。」「ただ、難しいのは、リンゴの種は、リンゴの形などしていない、ということ。」「種は、その実とはまったく違う形をしている。」「それで、みんな、種には目もくれず、実ばかりを追いかけている。」という、わかりやすいたとえ話です。
ですが、どうすれば成長するかと必死になってもしかたがない面があるのはそのとおりでも、その反対は「ふと振り返ってみたら結果的に成長していた」、「“結果的に”成長している」というかたちのほかに、必死に課題に取りくみ身を投じることを好まず、結果的に成長もせず、本人もそれを特に問題とは思わない世界もあります。趣味とお金の記事の最後に触れた、保守的な人々の感覚です。あるいは、ユニークな生き方を志向して見える人でも、成長にはさほど興味がない場合があります。FRIDAY DYNAMITE 8月30日号(講談社)では、自身も地下アイドルである姫乃たまが、地下アイドルを、メジャー化したい人と、今のままでよい人との2種に分けられると指摘しました。
さて、筆者の主張は、単にいそがしくいろいろとすればよいというものではありません。記事の後半は、非生産的なアクティブ・ノンアクションの問題についての議論です。やはり、VITMモデルの有用性が主張されます。ですが、VITMがむだな行動をなくせるというよりは、いそがしさに不毛な感じをともなわせない効用があるということのようです。それでも、むだと思われる時間にまったく価値がないかというと、結果的には、そうでなくなることもあるでしょう。ここではアクティブ・ノンアクション概念の起源とされた小セネカは、「Dandum semper est tempus: ueritatem dies aperit.」とも述べました。