きょう、日経ビジネスONLINEに、どうして「相談させてください」を禁句にすべきか?という記事が出ました。社交辞令的な「相談」を批判するものです。
タイトルが、日本語としてやや不自然に感じられます。「どのようにして「相談させてください」を禁句にすべきか?」か、「どうして「相談させてください」を禁句にすべきなのか?」と書きたかったのだろうと思った人も多いでしょう。この筆者のパターンを知っていれば、後者のつもりだったのだろうと、すぐわかります。
「そのため日ごろから客先で上司と部下とのコミュニケーションを耳にしています。」という筆者が、部下と上司との一言ずつの発言を示して、「まるでショートコントを見ているようなので「相談ショートコント」と名付けました。」と、早々と命名します。ショートとは言っても短すぎるだろうと思ったところ、そのすぐ後に、「「相談」という言葉ばかり使っている営業課長に社長がバトルを仕掛けます。」という設定での、上司と部下とのやり取りが始まって、次のページの中ほどまで続きます。最後に社長が「ショートコントそのものだな」と言って落ちるのですが、むしろこの、明示されてはいませんがおそらくはフィクションと思われるかけ合い全体が、筆者作のショートコントのように見えます。結論のほうで、「営業目標の達成に向かう上司と部下が笑えないショートコントを演じるのは止めましょう。」と呼びかけますが、あいさつのやり取りを題材に、笑えないショートコントを見せておいて、自分をたなに上げてこの結論はないだろうと苦笑した人もいるでしょう。そもそも、コントは笑いをとるものですから、「笑えないショートコント」では矛盾するようにも感じられます。
コントと矛盾で思い出しましたが、「人間とは、パラドックスの体現であり、矛盾の塊である」ということばが、コントのものであるように、あちこちに出回っています。ですが、少なくとも私は、コントの著作に、そのようなものを見たおぼえがありません。そこで、検索してみると、たとえばウェブ石碑名言集などでは、出典が「ラコン」となっているのですが、コントにそのような著作があったでしょうか。まぎらわしい名前の本もなさそうですし、何とまちがったのか、考えても見当がつかなかったのですが、まちがいなのは人名のほうで、コントではなく、コルトンのようです。主著のLacon, or, many things in few words; addressed to those who think(C.C. Colton著、The British Library)の408番、「Man is an embodied paradox, a bundle of contradictions;」とあるところが、出回るものと対応します。
さて、この筆者は、自分がショートコントを書いたのに、それとは別の一言ずつのやり取りに、ショートコントあつかいの命名をしたのだとすると、自作をショートコントと言うのが気はずかしかったのでしょうか。自分の内面を他者にうつす、防衛機制の一種とみて解釈したい人もいるかもしれません。あるいは、冒頭のやり取りをコントにたとえたことが、よいたとえではなかったという見方もあるでしょう。以前に、心理学におけるたとえの記事を書きましたが、たとえや比喩はわかりやすさに役だつ一方で、なかなかむずかしいもので、書かないほうがよいこともあります。そういえば、ASCII.jpにきょう出た記事、H100cmの“尻職人”倉持由香! 5thDVDでストッキング破りに初挑戦は、ほかにも日本語として不自然なところがある記事ですが、「お気に入りは、白いレオタード姿でローションまみれになっているシーンと、濡れるとピッタリと肌に吸い付き、まるでなにも着ていないようにも見える湯葉ビキニ。」とあるところの、「まるで」はいらないと思います。同じものとは思えないくらいに水着の色あいが異なって見えますが、同じイベントをきのうのうちに記事にした、GirlsNewsの倉持由香 透けて見えるお尻が見どころにある本人の発言には、「まるで」はまるで見あたりませんでした。
いまいちなたとえは、笑いにつなげる使い方もあります。最近ですと、アサヒ芸能 7月31日号(徳間書店)で、今井舞がモーニングのたとえを持ちだして、すぐに自虐に落とした例があります。あるいは、きょうのヒルナンデス!で、大久保佳代子が八坂圓堂の「雲丹 磯辺揚げ」に使ったたとえくらいに、くだらなくして笑いをとれれば、上出来でしょう。