生駒 忍

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「たかが万引き」でない死と献立事件のうそ

きょう、ハフィントンポスト日本版に、「こんな気分になるために教師を目指したんやない」なぜ新任の女性教員は自殺したのかという記事が出ました。「都内の公立小の新任女性教員が2006年、自殺」、「東京地裁は今年2月、「自殺は公務が原因」として処分を取り消す判決を言い渡した。」ことを取りあげました。

広島の中学生自殺事件が、ニュースを連日にぎわせていますが、こちらは「5月、ある保護者に電話で「(児童が)万引きをした」との情報提供があったことを伝えると、「事実を示せ」と激しい抗議を受けた。最後は校長が謝罪する事態になった。」などとあります。「保護者とのトラブルについて、校長から全職員の前での説明を求められ、謝罪したこともあった。」、これも抗議の件ででしょうか。児童の反社会的行動をめぐる指導上の諸問題 窃盗(万引き)に関する指導を中心として(大蔵省印刷局)が「たかが万引きぐらい」と安易に考えることを厳しく戒めなければ」として31年、平成24年版 警察白書(ぎょうせい)にある、「警察では、“たかが万引き”といった風潮を一掃し、万引きを許さない社会気運の醸成や規範意識の向上を図るため、社会を挙げた万引き対策を推進している。」ことや、自分を消したいこの国の子どもたち [傷つきやすい自尊心]の精神分析(町沢静夫著、PHP研究所)での「たかが万引きなのにね」と子どもをかばう母への批判は、大多数の人が支持すると思いますが、万引きの情報が、それ自体が真が偽かというレベルで混乱を生じて、生徒も、教師も自殺に追いこむとすると、「たかが万引き」と考える社会だったら命が助かったかもしれないという皮肉を含めて、また別の意味で、万引きの「たかが万引き」ではない威力を感じます。

「判決を受け、父親は「教育関係者には、子どもたちを育てる場に、決して過労死問題を持ち込まないでいただきたい」と話した。」、正論でありつつ、皮肉がきいているようにも読めます。「授業での班分けについて、夜間や休日に携帯電話に繰り返し要望してくる親もいた。」「毎日夜まで保護者から電話とか入ってきたり連絡帳でほんの些細(ささい)なことで苦情を受けたり…」、問題を持ちこんでいる直接の「関係者」は、遺族のメッセージをどう思うでしょうか。

「教員は責任感が強く、頑張り過ぎる人が多い。人に頼んだり、無理な仕事は断ったりする技術も身につけてほしい」、これも正論ではあります。ですが、誰かが、どこかがかわって引きうけられる条件がないと、意味がありません。なぜあの保護者は土下座させたいのか(関根眞一著、教育開発研究所)には、「悪質な児童を転校させろ!」というクレーム事例がありますが、バカが多いのには理由がある(橘玲著、集英社)には、「問題のある生徒は片っ端から退学処分にしてしまう」私学のやり方が、公立では使えないため、学級崩壊やいじめの発生を封じきれないという指摘があります。「無理な仕事」をつくる親や子に、刑罰の無力化効果、つまり犯罪者を収監して一般社会からはなし、あるいは賛否はあるにしても、死刑で文字どおり娑婆から追うようなことは、使えません。人権無視が横行した、事件以前の宇都宮病院は、ほかが入れたがらない、対応のむずかしい患者を引きうける、必要悪としての面があったともいわれます。あるいは、皆さんのまわりには、入所者をていねいに選別した上で、障害者はこわくない、地域の理解をとうったえる施設は、ありませんでしょうか。

さて、最後のグラフは、「年5千人前後で高止まり」していることを読みとらせるもののようです。変化パターンや注目すべき転換点を示すのでなければ、グラフの必要性はあまりないようにも思います。むしろ、「臨床心理士、井上麻紀さん」の、「教員数は少子化に合わせて減少していることが影響している」との解釈に対して、絶対数と割合との対応から、たいした減少ではないのにと思わせることになりかねません。割合のゆれのほうが少々大きく見え、全体の微増傾向のために、多少は井上説に合う方向がうかがえますが、ここにも少しだけ、トリックを感じます。折れ線グラフの縦軸の目盛りは、読む上で意味のある範囲にしぼっただけで、下までのばせば棒グラフの縦軸の原点と同じ位置で0になりそうだと思った人は、注意して見てください。折れ線のほうの0は、もう少し下にくるはずで、つまりは折れ線のうごきのほうが、強調されて見えるようになっています。少しといえば少しですが、ふつうにつくれば同じになりそうなもので、そこを少しだけ、あえてずらしたことが、かえって気になりました。

それで思い出したのが、ハフィントンポスト日本版にきょう出た記事、音楽療法とは、どんな事をするのでしょう。です。最後に、「2016年3月9日 「Hawaii Web TV」から転載」とあります。ですが、記事が転載されたきょうの日付ではない上に、ここをクリックして出る記事は、どんな時差を考えても、9日とは解釈できませんので、転載元の記事が出た日でもありません。転載元で、「この記事の動画はこちら。」でクリックして出るものが、Hikoという人の3年半以上前のコメントがある、ずっと古いものである上に、実はこの動画そのものをYouTubeで確認すると、「2012/09/16 に公開」と表示されて、コメントが先行しているとわかるなど、ゆがんだ時空がひろがるのですが、「発達額的」など、ほかの奇妙なところはすべて大目にみて、ハフポに書いた日付だけでも、正しくできないものかと思ってしまいます。

それで思い出したのが、ハフィントンポスト日本版にきのう出た記事、「アンサイクロペディアの癖に......」 3月11日の項目が考えさせられるです。きのうの夜、訂正が入ったことが、後のほうでわかります。ですが、問題の献立事件の記述が、いまもうそを書いたままです。「教職員などから」になっているのです。そこにあるリンク先、同じくハフィントンポスト日本版にきのう出た記事、3月11日に卒業祝い給食、「震災の日に非常識」の声も みんなはどう思う?は、献立批判への全否定とはとれないツイートも紹介しているからと言いはるのかもしれませんが、「埼玉新聞が報じた。」として、「教職員などから」としています。もちろん、その埼玉新聞のウェブサイトへのリンクをクリックすれば、そうは報じていないことがすぐわかりますので、それこそ「非常識?」「困惑も」といったところです。

それで思い出したのが、ハフィントンポスト日本版の記事、【大阪中1殺害】事件2日後、容疑者はカレー店で「メッチャ美味いです︎」です。ハフポではめずらしい「コメント欄が本番」となり、あれだけ不注意だと笑われても、削除も訂正もせず、結局きれいに消えたのは、コメントのほうでした。書いたのは、安藤健二という人で、先ほどのアンサイの記事の記事と、同じ筆者です。