生駒 忍

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差別と孤独とが区別できない人と卒論のコピペ

きょう、nippon.comに、「安心社会」は望んでも得られないユートピア:阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件から20年 複雑性前提に、他者との信頼構築をという記事が出ました。

「今から20年前の1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生、6343人が亡くなった。」と書き出されますが、この死者数は、いつ、誰が行った集計からでしょうか。大きな災害でしたので、行政の公式発表でも、何度も値が更新されてきましたが、この人数で見かけたことはありません。私の知る限りでは、神戸新聞NEXTの記事、大震災死者6434人確定 兵庫県、1人増を正式発表にあるものが最新なのですが、それ以降に大きな修正があったのでしょうか。「信頼の崩壊」を話題にするはずが、信頼できない数値を、しかも「インターネットは両刃の剣」と理解している人が流しているとは、考えたくないところです。

「1995年(平成7年)の主な出来事」の年表があります。「95年に立て続けに起きた災厄」「2つの災厄」だけでなく、国内外の明暗さまざまなできごとがならびます。後のほうで話題にされるネットの問題へとつながる、Windows95の発売もありますし、「米オクラホマシティで連邦政府ビル爆破事件発生」と「フランス大統領選でジャック・シラク氏が当選」とがとなり合うところは、シャルリー・エブド襲撃事件への伏線のようにも見えます。

「さぞや忙殺されているだろう最中に池内恵氏(東京大学准教授)がFacebookにつぶやくように書いたエントリー」として登場するのは、「欧米ではムスリムが差別されてるからテロが起こるんだ」という説を、ちょっとだけ西欧に行ったことがある知識人や記者などが言いがちな理由について、よく考える。のことです。引用されていない最後の段落まで、読まれてほしい指摘です。あの個人主義のアメリカでさえ、孤独なボウリング 米国コミュニティの崩壊と再生(R.D. パットナム著、柏書房)にあるように、以前は今ほどではなかったともされますが、西洋の孤独には、歴史があります。西洋化がすすんだいまの日本でも、人間関係のなやみへの違和感の記事で触れたように、孤独の受けいれは、なかなかできていません。

「西欧社会の孤独は自分とは相容れない他者の存在を前提にしている。」「例えば宗教的風刺をも含むラディカルな「言論の自由」も「共生」のプラットフォームになるはずだった。」、このあたりは、理解しあえない者どうしが共生するための、悲惨な迫害、殺戮、戦争の歴史の彼岸としての智恵が、西洋的な自由、特に宗教に対する自由であることにつながります。週刊文春 1月22日号(文藝春秋)で宮崎哲弥が指摘するように、シャルリー・エブド事件も、ライシテの理解なしに、テロはいけないが表現の自由にも限度が、というレベルで語れるものではないのです。

フランスのテロと対比させて、オウム真理教事件に触れ、そして日本のネット社会の問題へとすすみます。それは阪神ではなく、東日本大震災から見えてきました。「東電のような大企業や行政、マスメディアの管理を超えた情報が氾濫したが、そこでは被曝の影響を過大に伝えたり、政府の情報隠蔽を暴露していると自称する情報があれば、その真偽を検証するプロセスなしに「やはり危なかったのだ」とか「やはり政府は嘘ついていたのだ」と共有される。」「放射線被曝の危険性や行政や大企業の腐敗を示す情報を共有することでむしろ仲間とともに安心したがるという奇妙に屈折した心理」、「初めに安心への希求ありきで真偽の追求は二の次」、これは今なお、現在進行形です。あるいは、また週刊文春 1月22日号(文藝春秋)ですが、そこで適菜収がののしった、すぐ在日にこじつけたがる者の問題も、層は異なりますが、本質は同じでしょう。ものごとの真偽を明らかにしていくことは、とてもおもしろいことである一方で、多大な労力を要します。進化的にそうなっているといえばそれまでなのですが、感情を喚起するものごとには特に、本人の頭の中で、感情がすばやく「結論」を決めさせてしまいますので、それとは別に、労力をかけて調べ、うたがい、考えなおそうとはされにくいのです。事実より感情が優先されてしまうことは、我が闘争(堀江貴文著、幻冬舎)にある、子どもがどこから産まれるかをめぐって、医者の息子のより非科学的な主張のほうが支持を集めて、擁護してくれた意見まで事実ではなく感情によるものでがっかりしたエピソードにも近いでしょうか。また、時間を節約できるIT化でさらに時間に追われるようになったこの時代に、自分でじっくりと考え、まとめることは、なかなか好まれません。

それで思い出したのが、トゥギャッチにきょう出た記事、卒論をコピペで終わらせる学生が急増? 教育現場からの嘆きの声です。小保方騒動の後でも、なくならないのでした。紹介されたツイート、なんていうか、思考まで他人のコピーだとしたら、自分というものをなにで定義するんだろうか。は興味深い指摘で、まさにこのTwitterと、関連がありそうです。リツイートの機能は、それまでのブログでの発信ではしにくかった、他人の思考を丸ごとそのままで、自分の発信として出すことを当然にしました。学びの心理学 授業をデザインする(秋田喜代美著、左右社)で評価されたアプロプリエーションなど不要で、このコピペだけで、すばやく自分に取りいれられるような感覚がそだっているのかもしれません。罪悪感がうすい常習犯になるのも、それならば当然でしょうか。また、罪悪感があったとしても、弁明を求めればいそがしかったのでと主張、場合によっては逆切れをしそうです。

そういえば、3か月前に出た1つずつ自分を変えていく 捨てるべき40の「悪い」習慣(午堂登紀雄著、日本実業出版社)は、いそがしいということばを使わないように呼びかけます。実際にいそがしいのに何がいけないのかと言われそうですが、「「忙しい」とは自信のなさ、見栄にすがりつく内面の弱さ、そして自己中心的な発想をあらわにしてしまうという、結構恥ずかしいセリフ」と斬ります。そして、本人の恥というだけでなく、実害もあるので、「「忙しい」をやめ、「まだまだヒマだ」と自分に言い聞かせる」ことを提案します。その効果は、「1つは、「忙しくて手が回らない」という自分への言い訳を排除できる点です。」「それが自分のキャパシティを広げ、業務処理能力のストレッチにつながるのです。」「もう1つの効果は、脳の思考領域に余裕ができる点です。」、これは大きいです。心理学では、ワーキングメモリという概念を考えますが、その容量はきびしいのです。ライフハッカー日本版にきょう出た記事、「心の集中」に大切な短期記憶:容量をアップするにはでも取りあげられています。ただし、気をつけて読んでください。「アメリカの心理学者George Miller氏は論文「The magic number seven, plus or minus two(マジカルナンバー7±2)」の中で、人間のワーキングメモリの上限を数量化しています。ワーキングメモリには一般的に、1回につき平均して7つの項目しか保管できないというのです。」、おかしなところはいくつありますでしょうか。