きょう、MarkeZineに、Facebookユーザーが気にしているのはイイね!数より、自分の見え方【オプト調査】という記事が出ました。
Facebookに「「自分には投稿することがない」64%」、あの空気、あの文化ではしかたがないでしょうか。「「投稿する時は、誰が見ているかに気を使う」が54%、「投稿内容について、自分の見え方に配慮して投稿している」が51%と半数強」、その行きついた先が、ここだという見方もできそうです。とても下世話な例ですが、Ceron.jpでのid:activecute氏の、結婚前と結婚後のタグを御覧くださいのツイートと「いいね!」の数の、大きな落差を思い出しました。
ないという断定だけでなく、「「何を投稿したらよいかわからない」60%」もあります。ピアヘルパーハンドブック 友達をヘルプするカウンセリング(日本教育カウンセラー協会編、図書文化社)は、どんどん人がつながるFacebookの登場よりも先に書かれた本ですが、「いまの時代は,どこのだれともわからない人間とも仲よくしないと生きにくい時代なので,よほど注意しないと,如才なくふるまっているうちにほんとうの自分は何を考えているのか,何を感じているのかがわからなくなります。」「人づきあいが表面的なものになってくると,ホンネが表現できないので,いつの間にか自分のホンネ(例.何をしたいのか,何を言いたいのか,何を感じているのか)が自分でもわからなくなります。」とします。また、下ネタの品格(文藝春秋)は、Facebookは定着どころか、もう「Facebook疲れ」が言われるようになってからの本ですが、村山由佳による、若者は何をしていいのかわからなくなっていることの指摘があります。
「Facebookユーザーは見栄張り、ノンユーザーはシャイ」なのだそうです。「日本人的なシャイネス」との相性の悪さがうかがえます。FACEBOOK FIGHTERを思い出しました。ツイッターとフェイスブックそしてホリエモンの時代は終わった(梅崎健理著、講談社)は、「匿名でいいたい放題ということがないだけに、その空間は、ツイッターに比べ、はるかに「平和」だといっていい。」と評価しましたが、比較としてはそうでも、あらそいのない平和そのものとは、必ずしもいえません。もちろん、あらそいを起こすのはユーザーであって、Facebookに罪はないという見方もあるでしょう。そういえば、ダ・ヴィンチNEWSにきょう出た記事、手足、鼻、アソコが腫れ、激痛が1カ月続く種類も! 美しくも危険な「毒きのこ」の世界には、「そう、毒きのこではなく、それを食べようとする人類がいけないのだ!」とありました。