きょう、Yahoo!知恵袋に、暴走族の脳みそについて。という質問記事が出ました。それなりに自説をぶったのに、今のところ平板な反応しかなく、誰かもっと反応してあげたらとも思いますが、私は回答リクエストの指定に当てはまりませんし、回答する気はありませんので、頭にうかんだことを少し書いておきます。
冒頭に提示される結論、「彼らの脳は先祖返りしていると思います。」、このアイデアは、19世紀への先祖がえりのようにも見えます。いわゆる犯罪心理ではない、学問としての犯罪心理学をかじると出てくる、生来的犯罪人説がよみがえったようです。今ではもう、この説をそのままで使うことはありませんし、提唱者は100年以上前に亡くなりました。ちなみに、その訃報は、わが国の萬朝報にも「ロンブローゾ歿す 刑事人類學大成者」と報じられましたが、その記事の本文には「ロンブローゾ」という表記は登場せず、「ケザーレ・ロムブローゾ氏」、「ロ氏」と書かれています。
「なぜそうなったかというと、家庭や友達がDQNだったからであり。 怖い父親、兄貴、先輩など常に脅える環境で過ごしたことにあります。だからこそ自分も自分より弱い相手をビビらそう、脅えさせようと考える、「その立場なら安全である」いわば弱者の自己防衛に端を発していると結論付けられます。」、こちらは虐待の連鎖にも近いですが、破壊的権利付与とはずれます。自分たちが差別されたと強く反応する一方で、あっさりと別の人たちの差別に走る人の感覚でしょうか。新しいところですと生々しいですので、古いお話を持ってくると、100年以上前の大阪で、「学術人類館」と称した見世物小屋の展示に沖縄の人々も入ったことに、反発した沖縄の新聞人である太田朝敷は、人類みな平等と説くのではなく、沖縄の女性をアイヌなどと同列にされるのはゆるせない、という差別的な方向の主張を展開したのでした。あるいは、いじめの被害者が機会をみて加害者側にまわるのにも似ています。他反応分化強化のような論理ですが、いじめられるのといじめるのとは同時に起こらないので、いじめのつらさを知る子ほど、自分がいじめられないようにいじめに走るのです。AERA 4月29日号(朝日新聞出版)にも、いじめの原因はストレスではないという指摘の中で、「いじめをやめると、次は自分がいじめられるかも。」という中学生女子の声が登場します。また、こちらはフィクションですが、先日に待望の続編として出た給食のおにいさん 進級(遠藤彩見作、幻冬舎)では、前の被害者、今は加害者の真耶のせりふに「やらないと、私がまたやられる」とあります。
「バイクに乗った原始人と言っても良いと思います。」、ここで連想したのは、ケータイを持ったサル 「人間らしさ」の崩壊(正高信男著、中央公論新社)です。今の若者のありのままに批判的なものに定番の光景ですが、10年前に話題を呼んだこの本も、Amazon.co.jpではさんざんなコメントを受けています。