生駒 忍

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文化功労者中井久夫と『心的外傷と回復』

きょう、ことしの文化勲章受賞者と文化功労者とが発表されました。今回は、心理学関係から3名が同時に選ばれていて、大変おどろくと共に、よろこばしく思っています。年齢順に、中井久夫、山岸俊男、松沢哲郎で、後2者はすでに紫綬褒章の授与を受けています。

まだ紫綬褒章のない中井は、途方もなく広範な才能を発揮してきた方ですが、「評論・翻訳の中井久夫」という位置づけで報じられていて、長く在籍した神戸大での本業というよりは、文学者としての側面を評価されたようです。ヴァレリーやギリシャ語詩に関しては、私の感性などからいえるようなことはありませんが、記憶研究にかかわる者としては、心的外傷と回復(J.L. ハーマン著、みすず書房)を持ちこみ広めたことには、今なお引っかかるところはあります。自閉症理解を混乱させたベッテルハイムの自閉症・うつろな砦 12(みすず書房)もそうですが、文章として引きこまれる美しさや感動と、内容の正しさ、真実性とをきちんと分けて読まれるとは限りません。心理学をかじった人なら、ハロー効果、認知的不協和、ヒューリスティックなどがすぐに思いあたるところでしょう。ですが、そうだからこそ、ここは手ごわいのです。そのハーマンの主張が崩れていく過程がえがかれた怪しいPTSD 偽りの記憶事件(矢幡洋著、中央公論新社)は、あとがきまで含めて興味深い本なのですが、ハーマンの文章、中井の訳にはまった人には、こちらはことばづかいのレベルで受けいれられないかもしれません。なお、学術書でこの話題を読みたい方には、抑圧された記憶の神話 偽りの性的虐待の記憶をめぐって(E.F. ロフタス・K. ケッチャム著、誠信書房)をおすすめします。それでも、ハーマンによる脅迫を含む理解しがたい言動も収録されていて、クールに読める本ではありません。

もちろん、数多い中井ファンがどうかまではわかりませんが、中井本人は、考えを変えることのできる方のはずです。精神科医がものを書くとき(中井久夫著、筑摩書房)では、斎藤環が解説を寄せて、オクノフィルの中井が一般化、体系化に固まる人物ではないところを評価しています。また、治療の聲 11巻(星和書店)の座談会は、中井が言うには独演会ということですが、alertnessを途中から「アンテナ感覚」と訳すようにしたお話が出てきます。