生駒 忍

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久石譲と菅野よう子にみるアーティスト意識

きょう、シネマトゥデイに、久石譲、宮崎駿と北野武の音楽の違いを明かす!伊映画祭で1時間に及ぶ会見という記事が出ました。

「自身の音楽性と、宮崎作品と北野作品での関係性を問われ、久石は「どちらかというと宮崎さんはアニメーション作品なのでメロディーを主体に。北野さんのときには、僕が20代から挑んできたミニマル・ミュージックの作曲家としてのアーティスティックな面を生かして曲を付けてきたという違いがあります」と説明」、本人が言うのですから当然ですが、そのとおりでしょう。そして、北野作品には、その「僕」の「作曲家としてのアーティスティックな面」が立ってきたことで、声がかからなくなったともいわれます。アサ芸プラスに3か月前に出た記事、人気女優から大物作曲家まで! たけしの逆鱗に触れた有名人たちにも、そういう指摘があります。一方で、CONTINUE Vol.46(太田出版)で菅野よう子は、作曲依頼に対しては「よし、ここで私を表現してやろう」ではなく、「その人が何をしてほしいか」を考えるとし、ユリイカ 2009年8月号(青土社)で円堂都司昭は、「しかし、菅野は、基本的にクライアントから依頼されて作曲、編曲の仕事をするのであり、自分はアーティストです、といった自意識によってオリジナル・アルバムを制作したことはない。」「彼女は、いわゆる自己表現から距離をおいた裏方の職業音楽家なのだ。」としました。そういえば、紅白歌合戦では、久石の「歌の力」を、「100年先も」とまではいかなくても、毎回歌いつぐのかと思ったら、2回でもう絶えて、震災をはさんで菅野の「花は咲く」に入れかわったような展開となりました。

「自分の肩書きは、どんなときでも作曲家」だという久石は、「作品を気に入ってくれたらうれしいと思うけど、(人々に)聞かれなくなったらそれはそれでいいと思っている。これからつくることの方が大事」とし、この態度は職業作曲家らしいともいえます。あれだけ売れても、私のまわりではファンどころか酷評する人さえもなく、まるで私が知らないタブーがあるかのような作家なのですが、いまは時代小説家として一時代をひらいている佐伯泰英が、週刊ポスト 11月1日号(小学館)によれば自作を、くらしの「慰め」でかまわない、後世に残らなくてよいとしていて、「居眠り磐音江戸双紙」読本(双葉社)の特別エッセイでは、「私が書く時代小説は消耗品文学である。消耗品ならば量産しなければならない。」と言いきったことにも、やや似ています。