生駒 忍

記事一覧

「お笑い化」する日本社会と男のハローキティ

きょう、マイナビニュースに、エジプト労働記 26 これが普通なのに… - 仕事中の表情という記事が出ました。

「集中していただけなのに、同僚から「なんで沈んだ顔しているの…?」」、「何も沈むことはなかったので、「集中していただけだよ!」と言うと、同僚は私の言葉に安堵を覚えたよう。」、海外ではたらく日本人には、よくあることでしょうか。古きよき日本人のこころはいまも生きていて、きびしくきまじめに取りくんでしまうのかもしれません。そういえば、みんなのあるある吹奏楽部 ゴールド(オザワ部長編、新紀元社)で、バジル・クリッツァーは、「日本のスクールバンドは往々にして“わざわざ悲愴になる”傾向がある」と指摘していました。

「最終的に「すごく楽しそうな小芝居を打つ」という結論に至りかけたところでハッと目が覚めました。私は芸人ではなく会社員、ネタを仕込む必要は無いのだと。」、ここにはむしろ、現代の日本人の感覚がうかがえます。「お笑いタレント化」社会(山中伊知郎著、祥伝社)にあるように、芸人が世間からさげすまれた時代は終わり、むしろ日本社会全体が、「お笑い化」していきました。この著者は、お笑いの業界でずっと食べてきた人だけに、全体的に肯定的ですが、子どもを蝕む空虚な日本語(齋藤浩著、草思社)には、現職の教員の、子どもたちがお笑い的な楽しさにおかされた苦しさがあらわれています。あるいは、お笑い芸人自身からも、誰にでも、何にでも笑いを求めることへの違和感が挙がるようになりました。トピックニュースにきょう出た記事、伊集院光が“号泣議員をみんなで笑う流れ”に不快感あらわ 「号泣会見の映像がすごく嫌い」のようなこともあります。また、一億総ツッコミ時代(槙田雄司著、講談社)は、一般の人がお笑いの専門技法を求められるほどの社会のあり方に、疑問を向けました。

この記事も、特にまんがの部分は、笑えるかどうかはともかくとしても、笑いを意識したものでしょう。それでも、私が気になったのは、落ちよりも、3こま目の、エジプト人と思われる人物のせりふ、「なーだんだ そっかー」のほうでした。意外にある表現なのかもしれないと思い、前半の文字列を検索してみると、「チューリップ」があらわれました。佐村河内ゴーストライター事件の記事で触れた、近藤宮子の作詩による童謡です。あか、しろ、きいろというわけではありませんが、検索結果にはいくつもならびました。

赤、白で思い出したのが、マイナビウーマンにきょう出た記事、2位はハローキティ! 男性が持っていたら、女性に不評なキャラランキング 1位は?です。「赤と白の組みあわせって、女子カラーっぽいですよね。」とあります。

コピペ物量作戦の就職活動とカメレオンの誤解

きょう、アゴラに、知らなければいけない「就活の原則」という記事が出ました。

「多くの就活本には、内定を取得する手段として「エントリーする企業数を絞る」ことが書かれています。」、これを正面から否定し、「エントリーは片っ端からおこなうべし」と呼びかけます。古くからあるへたな鉄砲のことわざや、最近は減ったとされますが、ひたすら声をかけ続けるナンパのような世界です。

そんなことをしたら、エントリーシートを書ききれるのかと思いそうなところですが、「エントリーシートの内容が素晴らしくても内定に及ぼす影響度は稀少」、「そんなことに時間をかけるのはムダというものです。」と断言します。「業界別に数パターンのエントリーシートを準備して」、あとはコピペです。「内容も時間をかけて差別化しようなどとは考えないことです。自分が思うほど、差別化したエントリーシートなどはできないからです。」とのことで、たいていの人にとって、変幻自在の差別化などまずできないという点では、同感です。そういえば、動物モビールのつくり方 ゆらゆら動き出す、かわいいカタチ(イワミ*カイ著、誠文堂新光社)には、カメレオンについて、「まわりの色に合わせて身体の色を自由に変えられる…という話は、誤解。」とありました。

区切りにくい性風俗とリスクをとった新人

きょう、ウートピに、「リスクを取らないと変われない」 フィリピンの女性映画監督が語る“29歳の決断”とマニラのカルチャー事情という記事が出ました。「マニラのカルチャー事情」は、フィリピン全土ではなく都市部のことなのだろうとは推測できるものの、はっきりとは登場しませんが、シージ・レデスマが「29歳の決断」などをとおして映画監督になった道のりはよくわかる、親しみのもてるインタビューです。

自作の舞台となったコールセンターは、「他の似たような仕事に比べて給料も高め」、「若者が集まりやすい」、「環境や給料がいいので、この職場が好きで5年10年続ける人ももちろんいます。」、明るく見えますが、「自分の目指す仕事を見つけるまでの「つなぎ」としてコールセンターに来る人が多い」、「業界を卒業した成功例がないわけではありませんが、難しいのが現実」、そして「生活にはお金が必要ですから、夢の職業を求めてコールセンターを去っても、数年後にまた戻ってくる人もいます。」、このパターンは、わが国では性風俗産業に、やや近いところがあるように思います。All Aboutに少し前に出た記事、「風俗」というお仕事の“重さ”と“軽さ”について、産婦人科医が考えてみたには、「どちらかというと「ちょっと割の良いお小遣い稼ぎ」のつもりで気軽に「風俗」のお仕事に足を踏み入れてしまって」「どちらかというとずるずる仕事を続けている方のほうが多いのが現状」、「効率よく稼ぐ方法を知ってしまうと、なかなか他の方法で稼ぐことができなくなってしまうようなのです。」とあります。入ったらおしまいとは言いませんが、どこかできちんと区切りをつけなければいけません。そういえば、ささらさや(加納朋子作、幻冬舎)では、エリカはサヤに、「いい、サヤ。区切りってのはね、自分でつけなきゃならないもんなのよ。」と言うのでした。

区切りで思い出したのが、毎日新聞のウェブサイトにきょう出た記事、ハト:「鏡の中の自分」認識…慶大チーム 議論に区切りで、興味深い知見なのですが、「区切り」はやや大げさにも思われます。「米国の心理学専門誌(電子版)に発表」としか書かれていないのですが、J. Exp. Anal. Behav.のSelf-recognition in pigeons revisitedがそれらしく、もしそうだとすると、「情けは人のためならず」調査の記事で取りあげたものと同様に、筆頭著者の名前が報道には登場しないパターンです。「類似の実験は1981年に米ハーバード大のチームが成功したと発表したが、その後は失敗報告が相次いでいた。」というテーマでしたら、成功の可能性がゼロでないことは、最初の報告で立証ずみですので、今回の2羽の正事例は、区切りとなりますでしょうか。最初のものが捏造論文であるうたがいがあるのでしたら、その区切りにはなるのでしょう。先日とどいた、日本発達心理学会ニューズレター第73号を見て、200回も成功したという実験の、あと1回で晴れる日を待たれている人を思い出したことを思い出しました。

さて、インタビューに戻りますが、レデスマもかつて、コールセンターではたらいていたものの、足を洗って、このとおり成功しました。「映画監督志望だったわけではありませんが、子どもの頃から音楽や美術や歴史にも興味があり」「2004年頃から脚本を書くことに目覚め、この道を究めたいと思うようになりました。」、ですがコンテストでは善戦どまりで、「映画業界に入るためには経験を積む必要があると実感」、タイトルにある決断へいたります。今作は初めての長編映画ですが、それまでに積みあげてきたものがあったからこそ、まったく別の分野へ転進しての転身に成功したのでしょう。そういえば、ウートピに少し前に出た記事、“元大人AKB塚本まり子モデルデビュー”に疑問! 35歳を過ぎても女性は新しいことを始められるのか?では、ファッション誌編集者が塚本まり子について、「“専業主婦がAKBに加入!”が売りだったのに、すぐに塚本さんが過去に音楽活動をしていたことが判明」、「水着グラビアをみれば分かりますが、写真に撮られ慣れていて、素人ではありません。」と指摘し、時代小説家の佐藤雅美とは別の、おそらく性別も別と思われる佐藤雅美という人が、「どんなことをするにせよ、過去の経験が重要です。友人の主婦が40歳過ぎて小説家になったんですが、子供の頃から山ほど本を読んでいる人でした」と述べています。

その年齢は、こつこつと積むうちに消耗していきます。「映画祭であと一歩のところで落選し続ける一方で、年齢は上がっていく。」、「「リスクを取らないことには変われない」と思った」、そして「コールセンターを辞めたのは29歳でした。」ときます。あなたは未来 あなたは可能性(吉田和正著、日経BP社)の、自分はもう失敗できない年齢になったと述べる郷ひろみではありませんが、リスクは若いうちならとれるのです。趣味へのお金のかけ方の記事の最後に紹介した、女子高生の起業家精神を思い出しました。性風俗産業に入るのも、お金のために性感染症、それに起因する不妊やがん、レッテルや「親ばれ」のリスクをとったとはいえるでしょう。ですが、入ると抜けにくく、それなのに年齢が上がればだんだんとお仕事がなくなり、ほかの職歴を積んでいないとほかのお仕事もろくに取れなくなり、詰んでしまうリスクも、覚悟していますでしょうか。

今後について、「幅広い映画を撮っていきたいです。ホラーやアクションなども、1ジャンルに1作品は撮りたいですね。」、とても意欲的で、期待がもてます。週刊大衆 6月23日号(双葉社)で藤竜也が、「僕は悪魔から普通の人間まで全部やりたいんですよ。」と言っていたのを思い出しました。

そして、「5年後には何をしていると思いますか。」という問いに、「映画を作っていると思います。」と答えて締めます。しあわせな自信を感じます。ですが、先の自分が見えなければ不幸とも限りません。何のために(中村文昭著、サンマーク出版)が説くような人生観も、あってよいでしょう。また、日本映画magazine vol.45(オークラ出版)で木村文乃は、「高校生の頃、25歳の自分を想像できなかったんですよね。」「想像していなかったからこそ、今が楽しい」と言っています。

成長を目的と考えない考え方と地下アイドル

きょう、INSIGHT NOW!に、「成長」は目的ではない~「VITM」を転回せよという記事が出ました。

「やりたい仕事」病(榎本博明著、日本経済新聞出版社)のお話から書き出して、筆者が提唱するVITMモデルのお話へ進められます。その間には、成長を直接の目的とすることをうたがう議論があります。大人の成長も、子ども・若者の自己形成空間 教育人間学の視線から(高橋勝編、東信堂)で「何かやっているなかで自己が形成される」「偶然を重ねる子ども」と表現される世界の、延長線上にあるというイメージでしょうか。大人になると、かえって考えてしまって、自分の頭で成長へのつながりが見えないと努力できず、成長をのがしてしまうのかもしれません。INSIGHT NOW!のこの2本前の記事、幸せは道に落ちてはいないを思い出しました。「確実に自分のリンゴを手に入れたければ、時間はかかるが、自分で自分の足下にリンゴの種を撒くことだ。」「ただ、難しいのは、リンゴの種は、リンゴの形などしていない、ということ。」「種は、その実とはまったく違う形をしている。」「それで、みんな、種には目もくれず、実ばかりを追いかけている。」という、わかりやすいたとえ話です。

ですが、どうすれば成長するかと必死になってもしかたがない面があるのはそのとおりでも、その反対は「ふと振り返ってみたら結果的に成長していた」、「“結果的に”成長している」というかたちのほかに、必死に課題に取りくみ身を投じることを好まず、結果的に成長もせず、本人もそれを特に問題とは思わない世界もあります。趣味とお金の記事の最後に触れた、保守的な人々の感覚です。あるいは、ユニークな生き方を志向して見える人でも、成長にはさほど興味がない場合があります。FRIDAY DYNAMITE 8月30日号(講談社)では、自身も地下アイドルである姫乃たまが、地下アイドルを、メジャー化したい人と、今のままでよい人との2種に分けられると指摘しました。

さて、筆者の主張は、単にいそがしくいろいろとすればよいというものではありません。記事の後半は、非生産的なアクティブ・ノンアクションの問題についての議論です。やはり、VITMモデルの有用性が主張されます。ですが、VITMがむだな行動をなくせるというよりは、いそがしさに不毛な感じをともなわせない効用があるということのようです。それでも、むだと思われる時間にまったく価値がないかというと、結果的には、そうでなくなることもあるでしょう。ここではアクティブ・ノンアクション概念の起源とされた小セネカは、「Dandum semper est tempus: ueritatem dies aperit.」とも述べました。

相談批判と「人間はパラドックスの体現」

きょう、日経ビジネスONLINEに、どうして「相談させてください」を禁句にすべきか?という記事が出ました。社交辞令的な「相談」を批判するものです。

タイトルが、日本語としてやや不自然に感じられます。「どのようにして「相談させてください」を禁句にすべきか?」か、「どうして「相談させてください」を禁句にすべきなのか?」と書きたかったのだろうと思った人も多いでしょう。この筆者のパターンを知っていれば、後者のつもりだったのだろうと、すぐわかります。

「そのため日ごろから客先で上司と部下とのコミュニケーションを耳にしています。」という筆者が、部下と上司との一言ずつの発言を示して、「まるでショートコントを見ているようなので「相談ショートコント」と名付けました。」と、早々と命名します。ショートとは言っても短すぎるだろうと思ったところ、そのすぐ後に、「「相談」という言葉ばかり使っている営業課長に社長がバトルを仕掛けます。」という設定での、上司と部下とのやり取りが始まって、次のページの中ほどまで続きます。最後に社長が「ショートコントそのものだな」と言って落ちるのですが、むしろこの、明示されてはいませんがおそらくはフィクションと思われるかけ合い全体が、筆者作のショートコントのように見えます。結論のほうで、「営業目標の達成に向かう上司と部下が笑えないショートコントを演じるのは止めましょう。」と呼びかけますが、あいさつのやり取りを題材に、笑えないショートコントを見せておいて、自分をたなに上げてこの結論はないだろうと苦笑した人もいるでしょう。そもそも、コントは笑いをとるものですから、「笑えないショートコント」では矛盾するようにも感じられます。

コントと矛盾で思い出しましたが、「人間とは、パラドックスの体現であり、矛盾の塊である」ということばが、コントのものであるように、あちこちに出回っています。ですが、少なくとも私は、コントの著作に、そのようなものを見たおぼえがありません。そこで、検索してみると、たとえばウェブ石碑名言集などでは、出典が「ラコン」となっているのですが、コントにそのような著作があったでしょうか。まぎらわしい名前の本もなさそうですし、何とまちがったのか、考えても見当がつかなかったのですが、まちがいなのは人名のほうで、コントではなく、コルトンのようです。主著のLacon, or, many things in few words; addressed to those who think(C.C. Colton著、The British Library)の408番、「Man is an embodied paradox, a bundle of contradictions;」とあるところが、出回るものと対応します。

さて、この筆者は、自分がショートコントを書いたのに、それとは別の一言ずつのやり取りに、ショートコントあつかいの命名をしたのだとすると、自作をショートコントと言うのが気はずかしかったのでしょうか。自分の内面を他者にうつす、防衛機制の一種とみて解釈したい人もいるかもしれません。あるいは、冒頭のやり取りをコントにたとえたことが、よいたとえではなかったという見方もあるでしょう。以前に、心理学におけるたとえの記事を書きましたが、たとえや比喩はわかりやすさに役だつ一方で、なかなかむずかしいもので、書かないほうがよいこともあります。そういえば、ASCII.jpにきょう出た記事、H100cmの“尻職人”倉持由香! 5thDVDでストッキング破りに初挑戦は、ほかにも日本語として不自然なところがある記事ですが、「お気に入りは、白いレオタード姿でローションまみれになっているシーンと、濡れるとピッタリと肌に吸い付き、まるでなにも着ていないようにも見える湯葉ビキニ。」とあるところの、「まるで」はいらないと思います。同じものとは思えないくらいに水着の色あいが異なって見えますが、同じイベントをきのうのうちに記事にした、GirlsNewsの倉持由香 透けて見えるお尻が見どころにある本人の発言には、「まるで」はまるで見あたりませんでした。

いまいちなたとえは、笑いにつなげる使い方もあります。最近ですと、アサヒ芸能 7月31日号(徳間書店)で、今井舞がモーニングのたとえを持ちだして、すぐに自虐に落とした例があります。あるいは、きょうのヒルナンデス!で、大久保佳代子が八坂圓堂の「雲丹 磯辺揚げ」に使ったたとえくらいに、くだらなくして笑いをとれれば、上出来でしょう。